美濃路を通った朝鮮通信使

今も残る庶民の驚き

 鎖国をしていた日本では、外国の人の姿などめったにお目にかかれなかった江戸時代の話です。

 中山道ミニ博物館蔵の「朝鮮人来朝ニ付諸事覚書」には、中山道垂井宿に座敷を借りて、家族、使用人ら10人が、こぞって弁当を持ち、見物に出かける様子が記録されています。また「丙子日本記」には、通信使から見た日本の人々の姿が書かれています。…実際、多くの人々が朝鮮通信使の行列を見物に出かけ、その行列のはなやかさに驚いたものでした。…何百人という通信使の一行が自分の国の装束をまとい、行列を組み通過していくようす、そしてそれを見守る人びとの驚きのようすが想像されます。


ミノ竹ケ鼻祭礼の図(羽島市歴史民俗資料館蔵)

大垣朝鮮山車遺品の全貌
(竹嶋町祭典委員会所蔵)

 そこで、街道沿いの町や村では、祭りとして、通信使のようすが表現されてきました。
 羽島市の竹鼻祭りでは、「唐人行列」が天保年間(推定)から、下町で演じられてきました。その様子を描いた版画が上の写真です。
 また、大垣祭りでは、大垣市竹嶋町の朝鮮山車がひかれ、今でも「大将人形の頭」などが残っています。この祭りの中で、「清道」の旗を先頭に、大将官の人形を据えた山車をひいて、朝鮮通信使の楽隊が、ラッパ・チャルメラ・ドラを持って「唐人」として登場しています。
 さらに、唐人のようすが彫刻されている「別府細工」の燭台も残されています。瑞穂市別府の人びとは、墨俣宿あたりまで見物に行き、その時の驚きや感動を今に伝えているのでしょうか?

朝鮮通信使とは

 朝鮮通信使は、日本との善隣友好を目的とした使節団です。江戸時代の通信使は、徳川将軍の代替わりや世継の誕生などの際に、日本の招きに応じて、朝鮮国からの国書を携えて派遣された外交使節です。
 朝鮮国からの通信使は、室町時代の足利将軍に初めて派遣されましたが、江戸時代には、豊臣秀吉による朝鮮侵略以後の国交回復を目的として行なわれ、慶長12年(1607)から文化8年(1811)までの計12回、日本を訪れています。しかし、はじめの頃の朝鮮国の主な目的は、朝鮮侵略のために捕虜として日本に連れて来られた朝鮮人たちを帰国させるためでした。
 使節の一行は、正使・副使・従事官の三使をはじめとする約500人ほどの行列で、漢城(ソウル)から江戸へ向かいました。


朝鮮通信使絵巻(部分)(個人蔵)

朝鮮通信使の行路と美濃路

 朝鮮の都漢城(ソウル)を立った一行は、釜山(プサン)から海路をとり、瀬戸内海から大坂に上陸します。そしてさらに淀川を船でさかのぼり、淀に上陸し、京に入ります。その後、中山道・朝鮮人街道を経(へ)て、近江から美濃に入りました。今須、関ヶ原を越え中山道垂井宿の東で美濃路に入り、大垣・墨俣・羽島を通り、木曽川を渡り、名古屋熱田から東海道を経て江戸に向かったのです。


寛延元年の行路図(タルイピアセンター平成12年図録)

 朝鮮使節が通過するかなり前から、江戸幕府は、沿道の宿泊所、通路の橋梁などの修理、その他諸般の準備にばく大な費用を費やしました。また道中の接待、人馬の供給、沿道の警戒など、沿道の諸侯に命じました。そのため、この地方の人びとは、いろいろな準備にとりかからなければなりませんでした。
 とりわけ、この地方の通過で難儀だったのは、揖斐川・長良川・木曽川の三大河川を渡らなければならない問題でした。


小熊川の舟橋(岐阜県歴史資料館蔵)

 この頃は橋がなかったため、一般庶民は渡船でしか渡ることはできませんでした。しかし、朝鮮通信使の通行のためには、将軍の通行の時にしか架(か)けられなかった舟橋が架けられたのです。

 揖斐川は、佐渡川といい、全長が120間(約218m)、80艘(そう)の舟で舟橋が作られました。
 長良川は墨俣川といい、ここにも舟橋が架けられました。
 次は境川です。当時は小熊川といい、川幅は22間(約 40m)あり、28艘の舟が使われました。


起川舟橋略絵図(一宮市尾西歴史民俗資料館蔵)

 最後は木曽川で、起川といい、舟橋は、起宿(現愛知県一宮市尾西)と三ツ柳村(現羽島市)との間に長さ475間3尺(約860m)で、大小277艘の舟が使われました。

美濃の文化人との交流


桑韓医談(岐阜県立図書館蔵)

 正徳元年(1711)の通信使の来朝の時には、大垣藩の医者・北尾春圃(きたおしゅんぽ)が医官の奇斗文と大垣の宿舎で会談しました。春圃は、この時の会談をもとに、「朝鮮国奇嘗百軒筆語」・「桑韓医談」などを著しました。また春圃は、享保5年(1720)の通信使とも交流しています。


朝鮮使節唱和詩巻(部分)(個人蔵)

 宝暦14年(1764)2月2日、通信使一行は木曽川を渡河した後、起宿の休憩所で昼休みをとりました。
 笠松の儒学者・伊藤(いとう)冠(かん)峰(ぽう)は、そこに出向き、通信使と漢詩の交換をしました。
 通信使は、帰途にも起宿で休憩しました。この時、冠峰は病気で出向くことができませんでしたが、学士・南秋月、書記・成龍渕、書記・金退石などに送別の漢詩を送りました。

この文章は、羽島市歴史民俗資料館「企画展『江戸時代の善隣友好使節と庶民の驚き』図録」にもとづいて、橋村健が書き加えたりしてまとめたものです。
<参考文献>
・「特別展『朝鮮通信使』〜江戸時代の善隣外交〜」(岐阜市歴史博物館)
・「図説朝鮮通信使の旅」(辛基秀、中尾宏・明石書店)
・「企画展『江戸時代の善隣友好使節と庶民の驚き』図録」(羽島市歴史民俗資料館)
・「中山道−美濃十六宿−」(太田三郎・大衆書房)

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