江戸時代の「岐阜町」のようす

金華山と長良川、そして土居で囲まれた町

  標高329メートルの金華山に築かれた山城・岐阜城…。北側は長良川の清流に洗われ険しい断崖が続き、東方および南方には尾根がせり出しています。西方は長良川による扇状地が広がり、ここに居館(きよかん)がおかれ、「城下町」がありました。……この城下町こそ、斎藤道三と織田信長によって造られた「岐阜町」です。


濃州厚見郡岐阜図(承応3年=1654)

 江戸時代の岐阜町は、戦国時代の城下町とほぼ同じ区域です。ただし、関ヶ原の戦いの後岐阜城はこわされ、城下町ではなくなったため、信長時代の家臣団の居住区であった金華山の西ふもと「古屋敷(ふるやしき)」(現在の岐阜公園一帯と木挽町(こびきちよう)・山口町・上茶屋町など)は、初めは空き地、後には畑や町へと開発されていきました。
 江戸時代の岐阜町は、北側(長良川沿い)と西側・南側の三方を土居(=堤防)で囲んで、外敵と水害から岐阜町を守るようになっていました。そして一般に、土居の内側は「内町」、外側の町は「外町」とよばれていました。
 現在、金華山トンネル西側の堤防は、西へ忠節用水(ちゆうせつようすい)に沿い長良川に通じていますが、これはかつての土居の一部です。西側と南側のものは取り払われて跡形もありませんが、今の「笹土居町(ささどいちよう)」や「堀江町」等は、土居や堀との関係を示す地名と考えられます。

稲荷山の西ふもとに、尾張藩(おわりはん)の「岐阜奉行所」が。

 岐阜町は、関ヶ原の戦いののち徳川幕府が直接治める「直轄地(ちよつかつち)」になりましたが、元和5年(1619)尾張藩(名古屋・徳川家)領となりました。町を治めたのは、はじめ代官で元禄8年(1695)年に専任の岐阜奉行がおかれました。
 岐阜町のほぼ中央部、稲荷山の西ふもと一帯には、尾張藩の出先機関である「岐阜奉行所(ぶぎようしよ)」がおかれていました。現在「末広町」「新桜町」と呼ばれる地域で、奉行所のまわりは堀(御用水道)で囲まれ、稲荷山のすぐ西には馬場や池などがありました。
 正門は西側中央にあり、役所を中心に手代などの屋敷や足軽(あしがる)(のち同心と改称)の長屋などが配置されていたそうです。


岐阜奉行所跡の立て看板

 この代官や岐阜奉行から、この岐阜町の人びとに対していろいろな命令やお触(ふ)れを出しながら、この地域の政治・経済を支配しました。
 「出された御法度(ごはっと)どおり堅く守れ」「お上から出すように言われた品々は、速やかに調えよ」「当町の夜番をしっかり行え。もし火事が起こった場合は、全員が水を持ってすぐに出動し、精を出して消火せよ」「また旅の者に宿を貸すのは、一晩はよいが二晩続けて泊めてはいけない」「御山(金華山)の鹿が町や田畑にいても、強くおどしてはいけない。各家で犬を飼ってはいけない。」など…、細かく定めた「岐阜町掟(おきて)」を出しています。

人口5000人超える活気ある商工業の町


上竹屋町の職業構成

 岐阜町は44の町からなり、惣年寄(そうとしより)をトップとする町役人によって町政が運営されました。人口は18世紀中頃5300人を数え、町並みは土居の外の村々に広がりました。岐阜町商人は傘(かさ)や絹織物(きぬおりもの)などの特産品取引において、加納をふくむ近隣地域を支配していきました。

 町の表通りには酒屋・米屋・材木屋などの商人が店を並べ、横町には「ふり売り」職人などの住まいが多かったようです。家屋は、茅(かや)ぶきか板ぶきから次第に瓦(かわら)ぶきが増えていきました。
 岐阜町の名産品は、鮎や鮎鮨(あゆずし)のほかに、薄絹(うすきぬ)・紋縮緬(もんちりめん)などの織物や小刀・提灯(ちようちん)・団扇(うちわ)などの手工業品、酒・干大根・枝柿などでした。

 町一番の繁華街(はんかがい)は伊奈波神社の門前で、操り芝居(あやつりしばい)や歌舞伎・見世物(みせもの)などが演じられ、楊弓場(ようきゆうじよう)・茶屋(ちやや)などもありました。町外れの門前でも見世物・相撲(すもう)などが興行されました。町民の暮らしぶりはかなりぜいたくで、奉行所はくり返し、倹約(けんやく)令を出して生活を引き締めようとしました。

長良川による運送で栄えた岐阜町

 江戸時代の長良川は金華山下で分流し、約7q下流で再び合流していました。その分流点の中河原は岐阜町の北の外れに位置していますが、ここの川湊(かわみなと)が河川流通(かせんりゆうつう)の要でした。
 尾張藩はその近くに川役所を設け、川を下る材木や竹、下流へ運ぶ酒・紙・茶などの舟荷と舟数、肥料となる灰を積んで上流へ向かう舟数をチェックして、税金を徴収しました。川役所には尾張藩の国奉行手代(くにぶぎようてだい)・代官手代(だいかんてだい)が常駐(じようちゆう)しましたが、実務を担っていたのは付問屋(つけどんや)と呼ばれる地元住民でした。
 18世紀後半に役人の常駐は廃止(はいし)されて付問屋がすべて仕事を引き受けることとなり、役名も
 改役(あらためやく)と改称されました。


長良川湊の図

江戸時代を通じて付問屋(改役)を勤めたのは中河原に住む西川家で、17世紀後半からは対岸の長良の住民が加わります。また上流から筏(いかだ)に組んで流されてきた材木を中河原で組み直して、桑名・名古屋方面に送りました。その筏乗手(いかだのりて)や、岐阜町への物資の陸揚げと運送を独占して行う小揚人(こあげにん)も、交代で役所に詰めて仕事を補佐しました。西川家はこの筏乗手・小揚人も管理しており、材木などの輸送問屋でもありました。

町の暮らしと大火・糞尿(ふんによう)など

 岐阜町はたびたび大火にみまわれています。なかでも貞享(じようきよう)3年(1686)、寛保(かんぽ)3年(1743)には1000軒以上が焼失する大火災が起こり、ほぼ全町が被害にあいました。火消組は、町方に4組、周辺の村方に5組が組織され、出火の時は互いに出動し合うことになっていました。
 また、岐阜町方から出る糞尿(ふんによう)は、周辺農村の野菜栽培などの大切な肥料となっていました。最初は今泉・早田・小熊・明屋敷・忠節・池の上の村々が岐阜町の糞尿を一手に入手する権利を得ていたのですが、後に長良三郷(ながらさんごう)の村々と紛争も起きています。これは、両地域とも岐阜町の近郊農村として町場化してくるとともに、そこで営まれる農業が商業的農業の度合いを強め、肥料としての糞尿に対する需要(じゆよう)が増大していたことを表しています。
 このように、岐阜町方の暮らしはまさに周辺の村々とつながり、関係しながら発展していきました。

この文章は、岐阜市歴史博物館総合展示案内「ぎふ歴史物語−伝統の技と美−」にもとづいて、後藤征夫が書き加えたりしてまとめたものです。
<参考文献>
 ・「ぎふ歴史物語−伝統のわざと美−」(岐阜市歴史博物館)
 ・「岐阜市史 通史編(近世)」(岐阜市)
 ・「名古屋・岐阜と中山道」(松田之利・吉川弘文館)
 ・「散策ガイド 金華山と岐阜の町」(まつお出版)
 ・「わが町の歴史・岐阜」(高牧実・文一総合出版)

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