「ふるさと岐阜の歴史をさぐる」No.35
濃尾平野を流れる木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)は、古来から度々洪水をくり返し、川筋を変えながらも上流から肥沃な泥や養分等を下流へ運び、広大な濃尾平野を形成してきました。そして、濃尾平野の中央を流れる長良川は、「清流」「恵みの川」「美しい川」と人々に親しまれる一方で、「暴れ川」と恐れられていました。
後者の長良川の姿「暴れ川」(水害の歴史)が、記録に残っている主なものを挙げると…、
慶長13年(1608)尾張藩は「尾張を木曽川の水害から守る。美濃は3尺低かるべし」として、犬山から木曽川河口までの左岸に、巨大な「御囲い堤」を築堤しました。この結果、木曽川右岸や長良川、揖斐川の負担が大きくなり、この後に美濃(岐阜県側)では水害が激増したのです。
その後、水害が多発する木曽三川流域対策として行われたのが、宝暦4年(1754)と翌年に行われた薩摩藩の「御手伝い普請・宝暦治水」です。
薩摩藩の大きな犠牲と巨費を費やして、宝暦5年(1755)油島の堰や大榑川洗堰が完成しました。しかし大榑川洗堰の築造により、長良川の常水位が上昇し、長良川筋は2年に一回の比率で激増し、上流部の長良川筋(岐阜市域など)では支派川に逆流現象が生じ、水害被害が増大しました。
水害被害を受けるようになった村々は、既成の旧輪中と対立抗争しながらも新しく水除け堤の輪中堤を築造しました。こうして次々と、長良川の上流にも輪中が形成されていきました。
宝暦治水後には破堤回数が3倍も増加した現岐阜市域では、明和元年(1764)には「河渡輪中」が成立し、文化8年(1813)には畑繋ぎ堤が認められ「松枝輪中」も成立しました。また寛政16年(1802)に「則武輪中」が成立、天保元年(1830)「島輪中」が成立するなど、江戸時代末期まで「水との闘い・輪中の形成の歴史」が続くのです。
明治になっても、長良川上流域の岐阜市域とその周辺では破堤・出水が繰り返され、大きな被害を受けていました。「岐阜県治水史」によれば、明治5年(1872)、7年、9年、10年、11年、12年、13年、14年、15年(1882)、17年、18年(1885)と、毎年のように被害を受けたことが記されています。
特にひどかったのは明治21年(1888)7月、26年(1893)年8月、28年(1895)年7月、29年(1896)7月および9月の洪水でしたが、人びとは、明治24年(1891)の濃尾大震災も含めて毎年のように大災害に見舞われる濃州(美濃地方)の宿命を嘆いたものでした。
「よくよく濃州の地、何の崇(たたり)あって天災地異(てんさいちい)禍(か)難(なん)の然(しか)く交々(こもごも)至るものあるや、頻年(ひんねん)水害に苦しみ、一昨年大震に泣き、而(しこう)して今亦(また)この大危(だいき)に会う、吾人(ごじん)豈(あに)嗚呼(ああ)天道は是耶非耶(ぜかひか)の長大息(ちょうたいそく)を発せざるを得んや」 ー明治26年(1893)『岐阜日日新聞』よりー
特に被害の大きかった明治期の水害の状況 | |
明治21年7月29日 「明治21年洪水」 |
「…藪川、糸貫川、長良川、五六川、犀川、根尾川、板屋川、旦川、伊自良川等非常の洪水。堤防切所517箇所、延長7035間、死者53人、流れ家163戸…」 |
明治26年8月 (1893.8.22・23) 「明治26年大洪水」 |
「長良川及び支川板取川、武儀川、伊自良川、旦川、板屋川、境川、荒田川…悉く満水。郡上・武儀・山県・方県・厚見・…各郡は、堤防決壊831箇所34523間、道路欠壊2071箇所15万106間、死者81人、家屋の流失445戸、同崩壊4740戸に上った。…」
→大洪水のため現市域内の破堤31箇所に及ぶ。(日野、芥見を除き他は全て長良川右岸側西部であった。左岸の岐阜市街地では破堤を見なかったものの、激流は一時揚げ門を越え溢れ、長良橋・忠節橋はともに流失した。 |
明治28年7月 (1895.7.17) 「明治28年洪水」 |
→「長良川通り方県郡河渡村、長良古川筋同郡一日市場村で破堤、鳥羽川沿い同郡岩崎村、伊自良川沿い(?)同郡粟野村で破堤した。」 |
明治28年7月 (1895.7.30) 「明治28年洪水」 |
「長良川・武儀川・津保川・揖斐川・糸貫川・境川など各川洪水至る所破堤を見た。…今次洪水被害618ヵ町村、堤防決壊438箇所1万2千間、死者16人、流失家屋89戸、全潰249戸、床上浸水7600戸、冠水2万3千町歩に上った。」 |
明治29年7月 (1896.7.20) 「明治29年7月大洪水」 |
「木曽揖斐長良三大川をはじめ、支派川悉く漲溢して至る所に決壊し、各輪中に氾濫して被害激甚を極めた。災害区域1市25郡に亘り、加納・森部・牧さん輪中を除く他は全部切入り浸水した。この洪水被害者死者49人、家屋の流失919、同崩壊4069、床上浸水11220、堤防の決壊2228箇所延長61352間、道路の決壊3191箇所延長87502間に及び、上流地方の山崩れは無数、焚きだし救助延19万人に達した。」
→大洪水がおきる・長良村鵜飼屋で150間決壊・長良川は各務郡岩田村(左岸)、厚見郡芥見村(左岸)、日野村(左岸)、菅生村(右岸)、方県郡長良村、寺田村、河渡村、本巣郡穂積村、安八郡中須村の各所にて堤防が破壊された。 |
明治29年9月 (1896.9.8〜11) 「明治29年9月大洪水」 |
「7月の洪水の澪留未だ全く成らぬ時再び洪水に見舞われた。9月洪水は郡上恵那郡及び飛騨地方は被害少なかったが、西濃地方は殊に激甚で、死者158人、家屋の流失3738、崩壊5377、床上浸水11040戸、堤防の決壊1085箇所延長30446間、道路の決壊2345箇所延長46251間に及び、殊に11日襲来の暴風雨は一層被害を大且つ悲惨ならしめ、今次の焚きだし救助延27万人に上った。」 →水害切所は、伊自良川(交人)、板屋川(黒野と東改田)、長良古川(鷺山)、長良川(雄総・志段見・古津・一日市場・曽我屋)、鳥羽川(粟野・岩崎・三田洞・打越・上土居・下土居)、網代川(秋沢・則松)の17カ所。 |
(「岐阜県治水史・下巻」より作成)
水害としては、特に明治29年(1896)の7月及び9月の大洪水の被害は大きかったようです。
「明治29年7月下旬、大雨により長良川をはじめ木曽三川が氾濫し、1市25郡が被害。さらに8月末に暴風雨により、また9月上旬には豪雨があって洪水。7月以降、毎月3回にわたり出水し、再三堤防が決壊。県下では有史以来”最大の水害”と言われ、西濃・岐阜地方は惨状を極めた。うち旧岐阜市内や加納町は長良川の破堤こそなかったが、床上浸水などで大きな被害が出た。河渡地区等の長良川右岸堤防が決壊した。」
「明治29年、3回にわたって岐阜西濃地方を襲った水害により、現岐阜市内では計41カ所も長良川、伊自良川、境川などの堤防が決壊している。…米どころ厚見郡(現岐阜市など)の米作が反当2.2斗弱だったというから、被害のひどさがうかがえる。長良山崎付近で長良川堤防が決壊し、濁流は北西に走り、土居、正木方面は屋根まで水に浸かった。」
美濃地方では毎年のように水害が発生しましたが、人々は何もしなかった訳ではありません。
明治元年(1868)大垣藩医をつとめ、蘭学塾を開いていた江間活堂は、明治政府の治河局設置を知って、膨大な治水費用は国債でまかなうことを建言しました。また同年11月、笠松県知事・長谷部甚平は政府へ「木曽川治水方取斗上申書」を提出し、木曽三川の新たな治水体制の整備に尽力しました。
明治6年(1873)6月安八郡土倉村(現海津市平田町)浄雲寺・高橋示証住職は「木曽川300間・長良川250間・揖斐川250間に川幅を拡幅し、かつ河口まで分流すべき」という建白書を政府に提出しました。
明治11年(1878)12月、各輪中の有力者達は、治水改修有志社を結成し、「河川改修の早期実現」「長良川と揖斐川の分流」に向けて運動を開始しました。岐阜市域では佐波の山田省三郎なども参加していました。
更に明治12年(1879)安八郡の有力者・片野龍蔵外27名が連署して「外国工師を派遣して濃・勢・尾三州にわたる抜本的大水理工事を国において施工してほしい」旨の請願書を政府に提出しました。
明治13年(1880)4月治水改修有志社が治水共同社に改組し、鏡島の上松治郎一と福束輪中代表片野萬右衛門を取締に選出し、「長良川と揖斐川の分流」「木曽三川改修の早期実現」などの運動の中心となりました。
このように明治初期には、多くの美濃の人々が積極的に要望や建言・請願等を行い、「木曽三川下流改修」(明治改修)に繋がっていったのです。
明治新政府は「富国強兵・殖産興業」の二大政策を掲げて国力をつけようとしていたので、産業を振興し、水運・陸運を整備して流通を良くし、貿易を盛んにする必要に迫られていました。政府は、明治5年(1872)2月、オランダの土木技師ファン・ドールン等を、翌年にはデ・レイケ等のオランダ人技師を相次いで招請・雇用して、まず築港の計画や指揮に当たらせました。ところが、築港のためには洪水の度に土砂で港を埋めてしまう河川の治水工事を合わせて進めなければならないことを痛感し、河川の抜本的な治水に取り組もうとしたのです。
明治9年(1876)デ・レイケは、四日市の大規模築港のために木曽三川河口付近の調査を行い、「四日市築港計画図」を作成しました。オランダ人技師達の技術力が評価され、木曽三川流域でもオランダ人による治水計画の樹立を求める声が高まりました。
明治10年(1877)10月、三重・愛知両県の県令は連署して、「水理工師及び本局官員出張検査の上、治水指示を受度…」と内務省に願い出ました。これによって、デ・レイケによる木曽川改修調査が始まることになりました。
そして明治11年(1878)2月23日から、デ・レイケは木曽三川の実地調査に取りかかりました。犬山から笠松、桑原(現羽島市)から津島、立田輪中から油島締切、香取(現桑名市)、3月1日からは揖斐川筋の調査に入り、香取から今尾(現海津市)そして牧田川の上流・安八郡神戸町までの揖斐川筋を調査。4日からは糸貫川など長良川右支川を調査して岐阜に宿泊しました。翌日の5日は岐阜を拠点に長良川上流の古津まで調べ、6日には岐阜から長良川筋を調査して津島へ。7日は津島を拠点に勝賀(現海津市)周辺を調査しました。この結果を「木曽川下流概説書」としてまとめ、4月6日に石井省一郎土木局長に上申しました。
この概説書では、水害の原因については山地からの流出土砂による河床体積が原因であるとし、木曽川を分離しようとするものでした。つまり「立田輪中の東側を下流端まで開削して新たな木曽川の河道とし、今までの木曽川河道は長良川専用の河道とする。このような木曽川の分離によって、長良川および揖斐川の水面は著しく低下し、各輪中の悪水排除が容易になる。しかしこの効果を永続させるためには、各河川流域の防護・砂防を怠ってはならない」と指摘しました。
そして、施工の順序は山地の砂防を先行し、その後に本川の改修を行うものとしていました。
上流からの土砂流出の抑制が治水の最重要課題と考えたデ・レイケは、忙しく各地を視察・調査をしながら、提言をしたり予算の増額を要求したりしました。
デ・レイケは、明治12年(1879)11月26日に岐阜市長良の岩舟山、27日には各務原市と関市の境にある金比羅山に登り、周囲を観察しました。そして山林の乱伐が私有林だけでなく官有林にまで及んでいることを確認し、「このまま放置すれば木曽三川改修は良い結果は得られない」として、山林の規制と砂防の緊急施工の必要性を意見書にまとめ、石井土木局長に提出しました。
この一年前の明治11年(1878)年春、木曽川下流改修に先立ち2箇所の砂防工事の施工後、愛知・三重・岐阜三県の各地で砂防工事が始まりました。岐阜県では、合計22ヶ所行われたようです。
国土交通省・木曽川下流河川事務所が発行した「木曽三川歴史・文化の調査研究資料”明治改修完成百周年特別号”」(KISSO特別号)では、岐阜県内の砂防工事について、以下のように記述しています。
「岐阜県下の砂防工事は、デ・レイケ指導のもとに明治11年に養老断層山地から揖斐川に流入する般若谷(安江谷)に始まり羽根谷など、次いで春日断層より揖斐川に注ぐ粕川の谷、そして木曽、長良両川の形成した扇状地の扇頂部にあたる岐阜の志段見、加野、木曽川では各務原市鵜沼、さらに中流部で両川に流入する支派川の武儀川、津保川、蜂屋川、川浦川の各谷に、木曽川筋では可児川と下流の矢戸川、姫川、大森川、久々利川、次の段階では上流の阿木川、中津川、付知川、白川(加子母川)などで施工されました。」
「明治15年に着工された箇所は、岐阜県加茂郡滝田村(現富加町)、可児郡下切村(現多治見市)、西帷子村(現可児市)、東帷子村(現可児市)、菅刈村(現可児市)、塩村(現可児市)、顔戸村(現御嵩町)、武儀郡佐野村(現山県市)、山県郡富永村(現山県市)、加野村(現岐阜市)、方県郡岩崎村(現岐阜市)、加茂郡肥田瀬村(現関市)、稲口村(現関市)、岐阜市などにのぼりました。」
また『岐阜県治水史 下巻』には、デ・レイケの指導の下、施工された国営・県営などの砂防工事などについて詳しく書かれています。これらの史料によって、岐阜市域では、志段見、日野、加野、岩崎、岐阜町(金華山?)などで砂防工事が行われたことが分かりました。
明治12年以降、木曽川・長良川・揖斐川の流域で国費の砂防工事を施工した所(岐阜県)
(「岐阜県治水史」下巻P738〜740より作成)
川 | 郡市・町村・大字 | 着手年月 | 竣成年月 | 工費(円) |
木曽川 | 恵那郡長島村中野 (外2か村) 可児郡御嵩村 (外6か村) 各務郡鵜沼村 |
明治14年10月 同14年3月 同13年3月 |
明治19年3月 同 20年3月 同 20年3月 |
約7679円 33,773円 4,929円 |
合計11箇所 | 約46,371円 | |||
長良川 | 加茂郡肥田瀬村 (外3か村) 武儀郡関町 厚見郡日野村 方県郡志段見村 (外2か村) 岐阜市?→岐阜町?(註) |
明治15年7月 同13年10月 同14年6月 同13年3月 同15年8月 |
明治16年2月 同19年3月 同17年3月 同21年3月 同15年11月 |
約10,516円 11,275円 3,542円 11,881円 799円 |
合計10箇所 | 約38,013円 | |||
揖斐川 | 下石津郡太田村 | 明治11年5月 | 明治20年3月 | 約41,388円 |
三重県で14箇所+1箇所 | 約74,187円 |
(註)・志段見の砂防堰堤については、平成26年12月木曽川上流工事事務所、岐阜県砂防課・木曽三川フォーラムの三者による確認調査が行われました。
・志段見の堰堤は松尾池付近の岩舟川に流入します。「加野は岩井川流域?岩崎は鳥羽川流域?日野は荒田川流域?岐阜市とは当時の岐阜町の金華山?」等が、まだ不明です。
並行して、明治14年(1881)下流部では改修計画策定のための調査が始まり、明治19年(1886)「木曽三川改修計画」が完成しました。改修区域は、「木曽川左岸は愛知県中島郡祖父江町(稲沢市)から、右岸は岐阜県羽島郡八神村(羽島市)から河口まで。長良川左岸は羽島郡小藪村(羽島市)、右岸は安八郡墨俣町(大垣市)から河口まで。揖斐川は本巣郡鷺田村(本巣市)から河口まででした。
木曽三川改修の当初計画は三川の分流に限定し、付随する工事も最小限に抑えたものでした。つまり、濃尾平野を乱流する木曽三川の全ての地域の改修ではなく、改修区域は下流部に限定されました。この頃は国の税制度が確立されていないため不安定な財政状態で、必要経費の見積もりが国の財政にとっては大きな負担となったからでした。また河川法が制定されていなかったこの時代には、河川改修に必要な費用の負担方法は定まっていませんでした。この結果、総額402万3207円22銭のうち、89万3207円86銭9厘を岐阜(約52万6804円)・愛知(約17万7872円)・三重(約18万8530円)の三県で負担することとされました。
こうして、木曽三川下流改修は明治20年(1887)に始まりました。まず木曽川河口導水堤の築造、河口の浚渫(しゆんせつ)から漸次上流の築造と浚渫(しゆんせつ)、そして明治26年度末には木曽・長良背割(せわり)堤(てい)となる新堤に着手し、明治27年には竣工しました。
続いて新長良川の右岸堤である成戸〜大和田とその下流の長瀬〜日原(海津市)、及びこれに対する木曽・長良背割堤を起工し、明治31年に竣工。木曽・長良背割堤の締切築堤工事のほか、長良川筋の大榑川、中須川、中村川の締切り、松の木〜船頭平、松の木〜油島の締切りを施工し、三川分流工事が竣工しました。明治34年度には船頭平閘門工事も竣工しました。
この間、明治24年(1891)10月28日の濃尾大地震や27・28年の日清戦争、そして相次ぐ水害(26年や28年、29年等)などの困難に直面し、当初の事業予算と工期を大きく上回りました。しかし、25年の歳月をかけて実施された木曽三川下流改修も、明治45年(1912)ついに竣工しました。
しかし下流の改修工事が完成しても、上流域にある岐阜市域などはまだ安心などできるはずもなく、上流改修の必要性が叫ばれていました。大正10年(1921)「木曽三川上流改修・10ヵ年計画」が認められ、「長良川筋逆川及び境川の締切り、並びに日置江の引堤の着手」など「大正改修」が始まりました。そして、「長良川古川・古々川の締切り及び島地先の改修」「左岸岐阜市特殊堤工事」などの「昭和改修」へと続くことになるのです。
○この文章は、下記の文献を参考に後藤征夫がまとめました。 <参考文献> ・「岐阜県治水史・下巻」(昭和28年3月・岐阜県) ・「岐阜県史・通史編・近代上」(昭和55年9月・岐阜県) ・「岐阜市史・通史編・近代」(昭和56年3月・岐阜市) ・「岐阜市史・史料編・近代二」(昭和53年9月・岐阜市) ・「木曽三川歴史・文化の調査研究資料・明治改修完成百周年特別号・KISSO」 (国土交通省中部地方整備局・木曽川下流河川事務所) ・「木曽川上流80年のあゆみ」(平成12年10月・建設省木曽川上流工事事務所) ・「グラフィック・木曽三川」(1987年・中部地方建設局木曽川上流工事事務所) ・「輪中と治水」(昭和57年10月・岐阜県小学校社会科研究会・) ・「ふるさとの想い出写真集・明治大正昭和・岐阜」 (昭和58年3月・図書刊行会・丸山幸太郎・道下淳) ・「輪中の災害と治水」ー宝暦治水以降の水論についてー(伊藤安男・論文) ・「木曽川下流改修のため遅参をすすめたデ・レイケ」(小野賢悟・岐阜学会レポート) ・「ヨハネス・デ・レーケ」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) ・「百々ヶ峰山麓の堰堤群」(酒井 寛・レポート) <協力者> ・酒井寛さん |