河渡輪中・水とのたたかいの歴史

−「曽我屋の横小堤」から「土地改良」まで−

はじめに

 岐阜市域の西北部・長良川右岸最南端に位置する所に「河渡輪中」があります。この輪中は、東に流れる長良川とその支流伊自良川、西および南に流れる糸貫川に囲まれています。岐阜市(河渡・寺田・曽我屋)と瑞穂市(生津・馬場)・北方町(高屋・柱本)にまたがり、根尾川扇状地の末端部に位置しています。江戸期の初めは輪頂部・輪端部の堤防を欠き「尻無し堤」状態でしたが、1764年(明和元年)周囲の輪中の了解を得て築堤でき、完全な輪中となりました。、現在、それぞれの地区の行政区は岐阜市・瑞穂市・北方町と別々になっていますが、長い年月の間、特に出水時の対策・治水事業等は共同で取り組まれて来ました。人々はどのような苦しみの中で、どんな歩みをして来たのでしょうか?

1.河渡輪中とは

 長良川(井川)・旧長良川(古川)・伊自良川等の土砂が川沿いに微高地(自然堤防)をつくり、人びとは集落をつくりました。それが下尻毛や寺田、河渡です。また根尾川(註1)が合流点に土砂を積んだ微高地が曽我屋です。
 他方、糸貫川左岸に土砂を堆積した微高地(自然堤防)が北方、高屋、馬場、生津などです。
 そして長良川沿いの微高地と糸貫川沿いの微高地に挟まれた地帯は低湿地ですが、ガマ(湧き水)も噴き池をつくり、席田用水の残り水と一緒に日詰川や天王川として流れています。
江戸時代の濃尾平野は、毎年のように洪水に見舞われていました。1700年代、特に宝暦治水(薩摩藩のお手伝い普請)以後は、長良川上流部・伊自良川・糸貫川・根尾川など河渡輪中を取り囲む河川のあちこちで、堤防切れなどの被害が多くなりました。これは、下流の多くの輪中で築堤・堤防改修が進められ、宝暦治水で大榑川の洗堰ができた結果、まだ輪中堤などが整備されていなかった上流の村々が被害を受けるようになったからと考えられます。
この地方の人びとは、輪中堤を築いたり堤を丈夫にして切れないようにすること、逆流を防ぐために支流川に圦樋(水路の入口や吐き口の樋)を設けること、上流からの水を防ぐために横堤を築くこと、滞留させないように排水することなどによって、家や田畑を守ろうとしました。

2.曽我屋横小堤の築堤と紛争


今も残る曽我屋の横小堤と石標

 出水のたびに、長良川(井川・古川)や伊自良川などの水が板屋川・根尾川に逆流したりあふれたりして、曽我屋や寺田・河渡・生津・馬場・高屋などの地域を直撃しました。また長良古川・糸貫川の間に降った雨は、これらの地域に集まってきました。
 そのため北境から浸水しないようにするため考えられたのが「曽我屋横小堤」でした。つまり当地域の境である曽我屋村の北限に東西に堤を築こうとしたのです。
 宝暦2年(1752)本田代官所に願い出て以来、紆余曲折を経てやっと明和元年(1764)に、長さ272間半・高さ4尺・馬踏(堤防の一番高い所)4尺・敷2間 の小堤が完成しました。さらに天明6年(1786)長さ215間の 築き足しが行われました。(注;1間は1.8m、1尺は30.3p)

 この間、横小堤が築かれると支障が出てくる川部村・尻毛村などの上郷の反対や敷地提供のための補償問題など、様々な問題がありました。完成後も、天明7年をはじめとして、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政年間など、上郷と下郷の紛争は絶え間なかったようです。互いに実力行使で争ったことも記録されています。…そしてその度ごとに、堤防の高さ、馬踏(註2)の幅、修繕や費用の負担、修繕の時の立ち会い、雑木の切り払い、用悪水の利用、水除普請手当の金額と配分など細かい約束を、陣屋から命ぜられた仲介者を窓口に話し合ったり、陣屋の調停・命令などによって確認しあったりしました。

・「私らは今でも、この横小堤を大事にしています。…何といっても、祖先の人たちが命がけで守ってきた堤やし、今でもこの堤は水から村の家や田畑を守ってくれているからです。そして今でも堤の上に雑木などは生えないようにしたり草をかったりして、上郷の人たちとの約束を守っています」                                           (曽我屋・Sさんの話)
・「昭和36年(1961)の集中豪雨で水が出ました。その時堤が切れないように、水が少しでも越さないように補強しましたが、約束によって堤の上には、むしろ1枚しかのせなかったのです。水をとりまく約束はきびしいのです。」                      (社会科副読本「合渡」より)

3.天王川筋の排水と糸貫川伏越工事(江戸期)


 


現在の天王川排水路(JR鉄橋付近)

河渡輪中では水吐けが悪く、毎年夏になると水害がおきました。とくに長良川の川床が年々高くなり、日詰川や天王川の排水が困難となりました。長良川・糸貫川の水位が高くなり、輪中南部の低湿地がこれらの川より低くなれば、低湿地の悪水を集めてきた天王川の水は吐きようもありません。そこで河渡村・馬場村・生津村など河渡輪中の人々は、いつも悪水がたまっている状態をなんとか切り開こうと、天王川の水を糸貫川を伏越して南へ運び、落差をつけて落とそうとしました。
 しかし、この計画には下の只越村や別府村、上穂積村、下穂積村(現・瑞穂市)などが反対しました。交渉や協議の結果、慶応元年(1865)只越村とは「堤永続手当として河渡輪中から只越村の堤を増強し、潰れ地の弁米(弁償する米)や掟米(取り決めの米)を毎年納める」と約定し、牛牧輪中などの村々とは「五六川や犀川の猿尾を設けても異議を申さない。別府村へ75両、上穂積村へ75両、下穂積村へ70両を差し出す」などの示談がまとまりました。…翌年(慶応2年=1866)8月竣工しましたが天王川の糸貫川伏越はとても大変な大工事でした。先ず糸貫川を堰き止め、糸貫川の川底を堀割って圦樋を伏せ込み、天王川を糸貫川底を流さねばならず、また新水路を掘削したり、旧川筋を掘浚えたり…。しかし長良川の 現在の天王川排水路(JR鉄橋付近)河床に土砂がつもって伏越樋の効果も少なく、期待したように水は長良川へ落ちなかったようです。

4.明治以後も続く水害


河渡地区の決壊現場(明治29年)

 明治になっても、この地域の人々は、毎年のように水害で苦しめられました。明治元年(1868)、7年、10年、11年、14年、17年、18年、21年、26年、28年、そして29年7月と9月…。
 特に明治29年は7月と9月の2回に及び、その被害は大変なものでした。寺田・曽我屋・一日市場・河渡・生津など、輪中内の堤防はあちこちで切れ、学校の校舎や多くの人家が流されたり、多くの家が天井や屋根まで水がついたりしました。

河渡輪中・明治〜大正期の主な水害のようす 
明治 元年(1868)5月  河渡村は潰家41軒の被害 
 7年(1874)  糸貫川が出水し生津村で堤防20間破壊 
   10年(1877)10月  寺田村学校地先にて32間切入る。学校流失 
   17年(1884)7月  一日市場村字大ヶ島より30間5尺切入り 
   25年(1892)6月  長良川出水で河渡橋40間流失 
   26年(1893)8月  河渡村で長良川鉄橋南が決壊し、河渡輪中が湖となる。 
   28年(1895)7月  長良川通り河渡村、長良古川筋一日市場村で破堤 
   29年(1896)7月  3箇所で決壊し、小学校舎1棟・人家31戸が流失し、老女1人が溺死。    寺田村で堤の切所2箇所・100間。河渡村で切れ所5箇所・405間。曽我屋村で切れ所70間、掛廻堤の切れ所50間。一日市場村で切れ所80間と267間。河渡・生津の組合堤も30間の切れ所。 
   29年(1896)9月  長良川は一日市場村・曽我屋村で切れた。下曽我屋村では天井まで水がつき、家も流れた。河渡村では屋根まで水没。 
大正 5年(1916)6月  一日市場で切れ、曽我屋横堤を越え、曽我屋の村西一体が湖。 
   14年(1925)8月  高屋及び木田で堤防が破潰し、曽我屋で60余戸浸水。 
ー「岐阜市合渡の歴史」「岐阜県治水史・下巻」より作成ー 

5.明治期の伏越樋管の改築

 

糸貫川の伏越工事(明治35年)

明治24年(1891)10月の濃尾大地震は樋管・橋を破壊し、悪水排除ができなくなりました。翌年2月、「さらに下流へ水路を1393間(約2500m)延伸して、穂積村(現・瑞穂市)の玉沢で長良川に吐かせよう」とする計画が県知事に願い出されました。その年の4月許可が出され、すぐに着工して明治29年(1896)6月に完工したのです。
 しかしこの巨大な工事は多くの資金と人的労働力が必要だったため、高負担を理由に川部・又丸・東改田・上尻毛・木田・下尻毛・黒野の七か村は脱退し、下郷八か村だけの負担で行われました。
 さらに、明治33年(1900)木樋管の一部が陥落したので、翌年冬から北部30間を人造石に改造。糸貫川川底は50間余のコンクリート工法によって竣工。そして明治43年頃に一切を終えました。


6.長良川堤防の改修と伊自良川の付け替え・締め切り(昭和期)


寺田・一日市場での伊自良川の付け替え

 大正元年(1912)に下流域の改修工事が終了し、「上流改修計画」の岐阜市周辺での主要工事は、昭和5年(1930)から同15年(1940)の10年間に行われました。忠節用水路付け替え工事、荒田川・境川等の支派川改修、古川・古々川締切及び右岸の改修工事、岐阜特殊堤工事、そして長良川左岸(日置江〜忠節橋)の改修、長良川右岸(墨俣・穂積〜合渡橋付近)の築堤工事等です。
 残っていた長良川右岸(合渡橋から上流)の改修・築堤工事は、昭和21年(1946)から26年(1951)に行われました。
 伊自良川(古川)合流点の付け替え及び新水路をつくる工事は、昭和9年(1934)に始まりましたが、途中戦争で工事が中止になり、25 年(1950)に再開しました。 


現在の伊自良川(島大橋付近)

それまでの伊自良川(古川)は一日市場 の北を東に曲がり、島輪中との境を南に出て長良川(井川)に注いでいました。そのため出水すると、一日市場の堤防が切れたり根尾川を越えて水が溢れたりして被害を大きくしました。
 そこで合流点を約1200m下流の寺田地先に付け替えようと、下流部を約2000mの新水路を開削し、両岸に新堤を造ったのです。…上流部新川付け替え箇所の締切工事、護岸工事と築堤工事、古川合流点の付け替え工事、旧合流点の締切工事など、全工事は昭和27年(1952)2月に完成しました。

                                                                                                     

7.河渡・生津・馬場の堀田


1948(昭和23)年11月の航空写真

左の写真は、昭和23年(1948)11月の河渡付近を空から撮したものです。右下には長良川や河渡宿、左端には糸貫川と自然堤防、生津や高屋などの集落が見られます。また日詰川や天王川は、くねりながら下流に向かっていることも分かります。
 そして河渡から生津・馬場付近一帯に、「堀田と堀潰れ」が広がっていることが、はっきり見られます。
 この地域は土地が低い上に水が吐けにくい土地です。そのため水がたまって米作りにも支障が出ていたようです。そこで、堀田(土地の一部を掘って積み上げた一段高い所)で米作りをしました。掘ったところは堀潰れ(水路)と言い、舟を使って農作業をしたようです。下流の海津などでも多く見られた風景ですが、堤防改修・排水機場の整備、そして大規模な土地改良などによって、徐々に姿を変えていきました。そして昭和40年代には、ほとんど見られなくなりました。
 しかし、この河渡付近の地域では、昭和40年(1965)頃も、まだ「堀田・堀潰れ」が見られたようです。

 「子どもの頃、私の夫はよく堀田で遊んでいたようです。ある日、堀潰れにはまって溺れてしまいました。そこに通りかかったのが私の実の父で、父は溺れている子どもを助けたということです。私が結婚した相手というのが、その時助けた子どもだったということです。…縁だったのでしょうか?」 (馬場;Kさんの話)

8.昭和30年代の洪水と、河渡引堤・家屋移転・天王川の改修


河渡橋付近
(昭和36年集中豪雨)

 さらに、昭和34年9月の伊勢湾台風はもちろん、35年・36年の洪水では岐阜市上流で大きな被害が発生し、下流部の河道には相当の負担がかかりました。これに対処するため、長良川左岸の鏡島に引き続いて、右岸の河渡地区の引堤(川幅を拡げるため堤防を引き下げること)が必要となりました。建設省(現・国土交通省)は河渡地域に引堤の協力を要請し、併せて県は新しい河渡橋のかけ替えを提案しました。


長良川、河渡・鏡島地区の引堤

  この引堤計画の中に含まれる家屋の移転を余儀なくされる関係者は「岐阜市河渡引堤対策委員会」を組織しました。そして規約を設け、移転補償の適正などに、一致団結しました。
 河渡は低湿地帯で、一度長雨があれば内水が湛水し、一大湖水化するのが常でした。低地はとうてい人が住める区域ではなく、移転先確保のためには、先ず常時氾濫する天王川の改修工事が必要でした。地元の願いも実り、その工事が始まりました。また土地の基盤整備事業も先行しなければならず、岐阜市合渡南土地改良区が設立されて基盤整備事業も発足して、関係者も移転の設計と準備にかかりました。


 しかし昭和48年10月に起こった第一次石油ショックで、公共事業も中止または延期されました。河渡引堤事業も例外ではなく、予算の獲得は困難な状況でした。そこで昭和50年8月6日、地域住民が合渡橋西詰に集結し「引堤事業促進大会」を開き、その後木曽川上流工事事務所に事業の促進を陳情。その後、オイルショックも沈静に向かい、また住民の声が世論を動かしたのか、引堤事業に予算付けが再開しました。こうして、引堤に伴う家屋移転は昭和59年度をもって完了しました。

9.大規模な土地改良事業

寺田地区には、昭和45年(1970)から51年(1976)にかけて行われた「合渡土地改良事業」の記念碑があります。そこには、その沿革がぎっしりと書かれていました。

 「従前の農地は不整形であり大小様々。その上地区内に根尾川樋爪川天王川が蛇行し流れが悪く、沿線一帯は池沼雑種地堀潰れ池等が多く点在する低湿地で、排水は悪く殆ど一毛作田であり部落に接した地帯のみ二毛作であった。道路は狭小で肥料その他の資材の搬入収穫物の運搬は荷車かリヤカーで運び、道路までは人の肩で畦畔伝いに出し入れを行い、耕作も総て人手により行わねばならない状況であり過重労働であった。更に水路は用排水兼用で狭小であり、根尾川の川部頭首工より取水或いは席田用水の余り水を利用、又は天王川より取り入れ田から引水し灌漑用水として利用するに不適当であり、又少し旱天が続けば直ちに水不足となり旱害を受ける状態で、これを補うため曽我屋地区内に揚水機を三機設置して補水を行う手段を講じて来た。その反面一旦長雨ともなれば直ちに冠水し甚大なる被害を被る有様であり…」
   
岐阜市合渡土地改良の記念碑              土地改良された水田と揚水機

 
 当初この事業は、農業の近代化が叫ばれる中、昭和35年(1960)農道の整備・区画の整理を行い、農地の集団化を図ろうと、天王川筋土地改良事業を岐阜市合渡と穂積町の一部で企画されました。しかし同じ天王川の流域でも土地の事情や環境の違いもあってまとまりませんでした。

 昭和44年(1969)になって岐阜市合渡(寺田・曽我屋・一日市場・河渡の4地区の総称)だけで実施したいと協議を重ねましたが、その時河渡地区の一部に区画整理をしたいという意見があり、ここを除いて岐阜市合渡土地改良区が発足しました。そして昭和45年(1970)11月、「田圃の整備事業および畑地総合整備事業」として、区画の整理、農道や水路の改良(用排水分離)、地下水利用・パイプライン新設で耕地に給水などの大工事が始まりました。そして昭和51年(1976)工事が完了した後も、異議申し立て・換地会議の開催などを経て昭和59年(1984)やっと登記完了に至ったのです。事業費総額は13億3463万円(県市補助金総額は3億1393万円)にものぼりましたが、この事業は地元の熱望と極めて大きな負担の中で完成したのです。

  同じように河渡地区では合渡南土地改良区が開設されましたが、岐阜市街地の中心地まで6qという地点に位置することに着目して、市街化地域としての開発を希望する住民も多くなりました。こうして、当初は地元の意向は二分してまとまりませんでしたが、紆余曲折の後、土地改良サイドと市街地をめざす区画整理サイドが一帯となって事業が進められることになりました。その結果昭和52年(1977)完成しました。

 「土地改良が行われる前、この辺りは7月にならないと田植えができませんでした。上流の村々の田植えが終わらないと、この辺の田圃に水が来ないのです。…まさに、この地域は洪水で苦しみ、田植えの水不足で泣いてきたのですね。…でもだからこそ、お互いに少しでも早く終えるようにと、上の曽我屋の田植えには下の河渡の人たちも手伝うのです。…今は、土地改良のおかげで田植えも6月に行い、農作業も便利になりました。」                   (寺田;Mさんの話)

おわりに

 この地域は、川に囲まれ低湿地のため洪水や冠水で苦しみ、また田圃に入れる水が不足して苦しみ続けてきました。しかし、そんな中で、河渡輪中の人びとは「連帯・協力・団結」しながら、生活を築いてきました。…そして今も地域の連帯を続けるべく、水防団活動などの地域活動を大切にしています。

(註1)1530年の洪水で流路を変えてできた現在の根尾川(揖斐川の支流)とは別に、以前の    流路である糸貫川と根尾川が長良川の支流として残っています。
(註2)馬踏(バフミ)とは、堤防の上を人馬が通行する要に平らになった部分をいいます。


○この作品は、後藤征夫が長年にわたって、下記の文献等で調べたり、見てまわったり地域の人  から聞き取りをしたりして、まとめたものです。

<参考文献・資料>
・「岐阜県治水史・上巻」(岐阜県)
・「岐阜県治水史・下巻」(岐阜県)
・「岐阜市合渡の歴史」(岐阜市合渡広報会連合会.大洋社)
・「合渡」(合渡小学校創立百周年委員会)
・「木曽川上流・80年のあゆみ」(木曽川上流工事事務所)
・「ふるさとの川・木曽三川」(木曽川上流工事事務所)
・「ぎふ早田郷土誌」(ぎふ早田郷土誌編纂委員会・岐阜市早田広報連合会)
・「島郷土史」(島郷土史編纂委員会)
・「地図で見る岐阜の変遷1・明治24年(1891)」(財団法人・日本地図センター)
・「USA_R2008_88」(国土変遷アーカイブ空中写真)
・「岐阜市合渡土地改良区の沿革」(合渡整地碑)


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