「ふるさと岐阜の歴史をさぐる」No18.
山紫水明で知られた木曽、長良川の中流域に、江戸時代尾張藩領・岐阜があり、さらにそれら河川周辺に多くの在郷町があります。美濃では竹ヶ鼻(羽島市)、北方、笠松、さらに尾張に入って起・一宮・奥(一宮市)、津島などの集落が散在していました。 これらの町を中心とする西濃から尾西にかける一帯は、江戸時代から機業が盛んで、岐阜縮緬、桟留縞、結城縞、佐織縞などの織物産地でした。
元禄期(1688〜1704)に「春雨や桑の香に酔う美濃尾張」(其角)という句が詠まれるなど、美濃・尾張一帯では桑が栽培され、織物が盛んに織り出されていました。美濃では長良川に注ぐ流域の河川地や原野で桑が仕立てられ、農家は蚕繭から手挽きにより糸を少量紡ぎだし、岐阜や加納町の商人により買い集められ、縮緬を織る業者に配られたのでしょう。18世紀になると全国的な情報を持った織元(問屋制商人)が生産者に資金や原料を供給し、織機を貸与して、その生産を指示・買い上げるという生産形態が発達しました。いわゆる問屋制家内工業といわれるものです。縮緬織物が盛んに織られた太平洋戦争前には、岐阜市域西部の鏡島・市橋地区を中心に生産され、丹後・長浜とともに日本の三大縮緬産地の一角を占めていました
岐阜縮緬(絹織物)の生産が始まったのは、享保期(1716〜1735)のころとされています。すなわち、享保15年(1730)に京都に大火が起こり、たまたま西陣で罹災した職工が岐阜へ移住し、そこで縮緬製作の技術を伝授し、やがて稲葉郡島村早田馬場の人、嘉兵衛、(一説に後藤嘉右衛門)が初めて織り出したといわれています。(「尾西と西濃の織物業」より)
しかし、『増補岐阜志略』によれば、享保期ではなく寛延期(1748〜1751)に上笹土居町の九助というものが縮緬を織り始め、京都から職人を招いて紋縮緬、すなわち模様の入った縮緬を織り出したのがきっかけで町中に織り屋ができ、さらに周辺農村でも織るようになったといいます。小熊・忠節・早田などの岐阜周辺の村々では、やがて縮緬を織る高機(たかはた=5世紀に中国から伝わり、主として絹織物を織る手織機)を出機(問屋が機具を貸し出す)して織り出すという生産形態が展開していきました。
岐阜織物工業組合の「岐阜織物産地概要」によれば、「古くは慶長(1596〜1615)伊勢長島(かつて尾張とされた説も=現在の桑名市長島町)から岐阜に移り住んだ一族が薄絹を織り京都で売り出したところ、絹織物(岐阜縮緬)が岐阜名物となり、その後岐阜縮緬として量的に拡大していった」とあります。
寛永15年(1638)の『毛吹草』には、美濃国の名物として、糸・綿・絹とあり、正保2年(1645)『美濃国郷帳』にも、桑木高が41ヶ所あって、147石、紙・桑木高は74ヶ所で771石と記されています。郷帳には桑が栽培されていた地域は、おもに池田、方県、本巣郡の山麓地域や安八郡の村々だったことが記されています。
岐阜で縮緬生産が発展したように丹後、近江、加賀、越前、甲斐などでも絹織物が発展し、各地から大量の縮緬や絹布が京都西陣に持ち込まれたために、西陣の織物業者は経営を圧迫されました。そのため延享元年(1744)、宝暦9年(1759)、明和6年(1769)に西陣の機屋は京都町奉行を動かして、地方産絹織物の京都流入を制限し始めました。それに対して、岐阜町の機屋たちは、岐阜縮緬を西陣の規制外である尾張藩の「御蔵物」として出荷しようと画策しました。明和6年(1769)小熊村、駒屋吉三郎が織屋総代として尾張藩国奉行に「御蔵物」扱いを願い出ました。こうして京都の絹問屋と交渉した結果、安永3年(1774)に尾州御蔵縮緬として京都へ出荷することに成功し、岐阜町の機屋は京都西陣の絹問屋の規制を受けない販路を確保しました。
一方御蔵縮緬として認可を受けることを通じて、岐阜町の織屋(問屋)は岐阜町周辺の村々の織屋たちを支配下に置くことに成功しました。安永(1772〜1781)ころには、生産戸数は7,8戸といわれていましたが、天保(1830〜1843)ころでは、1ヵ年3万疋を産し、さらに幕末の文久・慶応(1861〜1868)ころには織戸数50戸余、明治7年(1874)には生産高は「約2万点余」とあり、これを2万疋とみれば、天保(1830〜1843)ころに比べ生産高は低下しているが、逆に織戸数は160戸余と急激な増加を示しています。これは尾張藩の保護と統制の下にあって、農家の副業として生産維持されていた構造が、明治維新を経て、自由競争となり新規参入者が多く現れ、他方衰退していく業者も現れた変化とみることができます。
* 1疋=2反 1反は約10m 着尺の生産量(長さ)を表す。(幅は約40cm)。
産地ごとに織物生産者の組合組織が結成され、産地内のまとまりが維持されてきたのが日本の織物業の大きな特色です。
近世における岐阜縮緬の生産は尾張藩による保護と統制の下に行われてきましたが、明治維新後、生産が自由化されると、粗製乱造が著しくなり、また流通過程の混乱も目立ち、縮緬生産は衰退傾向を示していました。こうした状況の打開策として、産地内の業者が組合を結成し、その組織力によって製品の改善、取引の安定を実現しようとする動きが見られるようになりました。
岐阜産地における最初のそういった試みは、「岐阜縮緬会社」(明治5年申請・同6年認可)でありました。名称は会社ですが、内容は今日でいう組合であり、会社規則(定款)で「加入業者が生産・販売する製品は、組合で検査しなければならない」ことなどが定められていました。しかし、この組合は任意組合で加入者が少なく品質改善の効果は上がらず、明治12年に解散してしまいました。
こうした粗製乱造問題は、多くの産地に共通して見られたので政府は組合組織作りを法的にバックアップするため、明治17年(1884)に「同業組合準則」を示達しました。これに基づき明治25年(1892)8月「岐阜縮緬組合」(組合員80名)が設立されました。その後、組合制度はさらに強化され強制加入制に加えて、組合による製品検査の効力を法的に強化することを定めた「重要物産同業組合法」が、明治33年(1900)に制定されると、岐阜縮緬産地は従来の組合を廃止して、同年「岐阜縮緬同業組合」(組合員83名)を設立しました。
こういった明治初期からの産地組合組織の確立に尽力し、岐阜縮緬の発展に尽力したのは、文久2年(1862)に現在の岐阜市大宝町で縮緬生産を開始した高橋慶三郎氏でありました。氏の功績を顕彰するため岐阜公園ロープウェイ乗り場背後に記念碑が建っています。(大正12年岐阜縮緬同業組合が建立)
明治以降も岐阜は、岐阜縮緬をはじめ絹織物などの繊維を基盤として、工業発展していきました。明治29年(1896)6月「岐阜絹織物株式会社」の設立があって、工女100人余を抱える工場で、手織機、足踏機を1ヶ所に集中した「模範工場」を作って創業し、明治43年(1910)には、力織機をいち早く導入しました。その結果、この地方のちりめん生産額の大部分を占めていました。
その他、稲葉郡本荘村森屋の吉村浅蔵の工場は男4人・女14人の職工を雇用し(明治34年ころ)、また同村の吉村善三郎の工場は男4人・女22人を雇用している主要な工場の一つでした。工女は大部分岐阜近辺から集められ、出来高で賃金が支払われました。明治34年(1901)ころの一反の賃銭は4、50銭から7、80銭で、工女一人当たり1ヶ月の出来高は、約6疋(12反)であったといわれています。
明治20年代後半から、織元は一方に出機部門をも組織していましたが、20台前後の内機を兼営するマニュファクチュア(工場制手工業)と呼ばれる形態をとる経営が出現していました。しかし明治30年代に入ると在来工業のなかでも激しい盛衰が生じ、製糸業だけが大きく発展し、そのほかの在来工業は工業のなかに占める割合を著しく下げていきました。
製糸業の急激な生産増大も、大部分が海外輸出を目的とした恵那郡などの大規模機械製糸の発展によるもので、中津川町の合名会社勝野商店などは明治31年(1898)職工500人、生糸産額5,467貫で発足しましたが、明治45年(1912)には職工1,230人、産額25,901貫という全国で屈指の大工場に躍進しています。
これに対し、岐阜市、稲葉、羽島、不破、揖斐郡など中・西濃の製糸業は同じ時期、零細な座繰り経営を増やすことでわずかに生産額を増加させるにとどまっていました。零細農家が現金収入を求めて座繰りの過重労働に従事したからでした。在来工業は明治30年代に明らかに輸出産業に再編成され、これからはずれた産業は停滞ないし衰退に向かってきました。
明治35年(1902)岐阜県には株式会社85、合資会社11、合名会社5、計101の会社がありましたが、うち49が銀行、22が商業・倉庫業であり、工場制機械工業による生産を営む会社はわずかに、製糸業で勝野商店(中津川町)、織物業で岐阜絹織物(岐阜市金町)にすぎませんでした。
岐阜県の10万円以上の資本規模を持つ会社はすべて銀行であり、その銀行はほとんどが年九分から一割の高配当を行っていました。当時の資産家にとって銀行への出資がもっとも確実な蓄財の道と考えられていました。こういった考えは生産から生じる利潤を吸い上げることに満足し、新しい工業の創業とか、生産設備や技術革新への投資をするという積極的な動きが現れてきませんでした。
大正時代に入って、岐阜電気が岐阜市の独占権を盾に上毛モスリン岐阜支店工場への送電計画を中止させたり、電灯値下げ騒擾事件などを招来し、工業に対する独占の批判を経験しましたが、旧岐阜町の長老は新たな工業には冷淡であり、守旧派とみなされ岐阜の工業近代化には消極的でした。岐阜市は工業の発展が阻害され、労働力の県外流出を招きました。大正3年(1914)電灯騒擾事件以後、県外から紡績の大工場(大正4年日本毛織鶴田町工場、同年後藤毛織大宝町工場、同6年片倉製糸田中製糸所(忠節町)、同7年大日本紡績五坪町絹糸工場、同9年金山製糸本郷町工場、同12年鐘淵紡績本荘工場等)が進出してきたので、結果的に旧岐阜町の「堅実・保守」の長老支配が倒れ、岐阜市の工業近代化がもたらされました。
この文章は、下記の文献や資料をもとに、林再寿がまとめました。 【参考資料】 日本産業史体系 5 中部地方篇 「尾西と西濃の織物業」林英夫著 地方史研究協議会編 岐阜県の歴史 松田之利ほか 山川出版社 岐阜県の百年 丹羽邦男・伊藤克司 山川出版社 岐阜織物史 合田昭二著 岐阜織物協同組合 「郷土研究 岐阜」 第40号「岐阜縮緬工業組合について」合田昭二著 岐阜県郷土史料研究協議会 岐阜市史 通史編 近代 岐阜市 岐阜市史 史料編 近代一 岐阜市 |