竹ヶ鼻城・米野の戦いと、岐阜城攻め

”東軍の連勝”が、決定的に「関ヶ原」を優勢に!

はじめに

 慶長5年(1600)8月14日頃、福島正則の居城・清洲城(愛知県清須市)に、江戸城にいる徳川家康らを除いた東軍の武将たちが、ぞくぞくと到着していました。 …「会津(上杉)征伐」に向かう途中、「大坂の異変」による小山会議では、諸将たちは「家康公に味方し、石田三成を討つべし」と決め、清洲城で集結することにしたのです。福島正則の外、黒田長政、池田輝政、山内一豊、堀尾忠氏、加藤嘉明、井伊直政、本多忠勝などの武将たちでした。

 木曽川筋の対岸には西軍の城が控えているので、これ以上先に進めば大きな戦いになります。それで、ここで家康の出陣を待つことにしたのです。

織田秀信と西軍の「濃尾平野決戦構想」


織田秀信像(円徳寺所蔵)

 美濃の旗頭というべき大名は岐阜城主・織田秀信(本能寺の 変で父信長とともに自刃した信忠の嫡子で、当時21歳。)でした。
 秀信は、最初は「会津(上杉)征伐」に参加しようとしてい たという説もありますが、出発が遅れ、そのさなかに西軍の三 成から誘いを受けたようです。
 秀信の重臣の中には、「西軍参加」に反対者もいましたが、秀信自身が佐和山(石田三成の居城があった滋賀県彦根市佐和山)に行き、三成と面会し「西軍参戦」 を決意したと言われています。
(もともと秀信が幼い頃から豊臣秀吉の庇護のもとにあり、13 歳の時豊臣秀勝の後を継いで岐阜城に入り、秀勝の娘を妻にしているなど、豊臣家にとりかこまれていました)

 「秀信が石田方につく」との知らせは、その去就に迷っていた美濃国内の諸将たちを「西軍参加」に導きました。

 東軍の徳川家康らと戦うのに、西軍の大将・石田三成は濃尾平野を広く使った決戦構想をもっていました。本来ならば尾張まで進出したいところでしたが、「木曽川を最前線にして戦う」としたものです。…尾張と美濃の境界・木曽川は濃尾平野最大の大河であり、その背後には長良川や揖斐川などの河川が自然の防衛ラインを形成し、周辺に西軍の城が半円形に並んでいました。
 犬山城に三成の娘婿・石田貞清、岐阜城に織田秀信、竹ヶ鼻城に杉浦重勝、高須城に高木盛兼、福束城に丸毛兼利。…そしてそれら西軍の城をたばねるのにちょうど良い場所に大垣城(城主・伊藤盛正)がありました。
 石田三成の要請により伊藤盛正は大垣城を明け渡し、8月11日三成が大垣城に入りました。以後、大垣城が西軍の拠点となりました。

福束城の攻防


福束城跡附近(輪之内町福束)

 8月11日の夜、東軍に参加していた美濃の武将・徳永寿昌(松ノ木城主)と市橋長勝(今尾城主)は、清洲を経て急いで居城に戻り着きました。…ところが、その頃美濃の国のほとんどが西軍の味方になっていました。そこで先ず、福束城主の丸毛兼利に東軍への参加を促しました。
 しかし兼利はこれを拒否。そこで、福島正則の命で、両名は8月16日福束城の丸毛兼利を攻めました。兼利も城を出て戦いましたが、大垣から来た三成の援軍が潰走(かいそう)したため敗北し、大坂へ逃亡。…その後、徳永・市橋の両名は高須城も攻め落とし、長良川と揖斐川に挟まれた南濃地方は、ことごとく東軍支配となったのです。

「西軍三城(竹ヶ鼻城・岐阜城・犬山城)攻略」の東軍布陣


清洲から「竹ヶ鼻城・岐阜城攻め」の図

 清洲城からの東軍は、二手に分かれて岐阜を攻めることにしました。
 一隊は、福島正則を先鋒に細川忠興、藤堂高虎、黒田長政、加藤嘉明、井伊直政、本多忠勝らで、起(愛知県一宮市)で木曽川を渡り、竹ヶ鼻城を攻め、その後岐阜城に向かうというものです。
 もう一つの隊は、池田輝政を先鋒に、堀尾忠氏、山内一豊、一柳直盛、浅野幸長らで、河田(一宮市河田〜川島町河田)で渡河し、岐阜城に迫るというものでした。両隊合わせて3万5千の兵力でした。
 さらに別働隊として中村一栄らが犬山城に向い、犬山城を開城させました。

竹ヶ鼻城の戦い


竹ヶ鼻城の戦い

8月22日午前6時頃、まず福島正則を先鋒として、 一隊が起まで来ましたが、対岸に西軍が待ちかまえて いたので、下流に回って加賀野井村(羽島市加賀野井) で舟や筏を集めて渡河し、竹ヶ鼻に向かいました。

 激しい戦いが展開されましたが、二の丸の毛利掃部、 梶川三十郎は、もともと福島正則と旧知の間柄であっ たことから、「降伏」の勧めに従って開城しました。し かし、城主・杉浦重勝は本丸に立て籠もり、兵わずか36 人になっても戦い続けました。午前10時頃から午後4 時頃まで激戦が繰り広げられ、城兵はことごとく討ち 死にし、重勝は城に火を放って割腹して果てました。
関ヶ原合戦絵図屏風(竹ヶ鼻の部分)

米野の戦い


史蹟・米野の戦い跡(木曽川堤防)

 一方、西軍の織田秀信は、岐阜城で軍議を開いていました。軍議では、「大垣城(西軍の拠点・石田三成)と連絡をとりながら城に籠って戦うべき」と主張する者もいましたが、結局、秀信は「木曽川まで出て一戦する」と宣言しました。

 こうして西軍の織田秀信の別隊は、8月21日、木造具康、百々安信を先鋒として3500人ばかりが、新加納村から大野村(各務原市)あたりに出撃し、陣を構えました。
秀信も1700を率いて川手焔魔(えんま)堂に陣をしきました。

 対岸の東軍は、21日夜、池田輝政を先頭に河田に向かいました。東軍には「功名を挙げて家康から高く評価されたい」という先陣争いがありましたが、輝政隊の伊木清兵衛が真っ先に進み、貝福右衛門が法螺を吹き、馬を踊らせ波を蹴立てて、一斉に河を渡りました。
 西軍の秀信隊も、鉄砲隊を用意して激しく打ちかけました。こうして、米野の戦いが始まったのです。

  東軍・一柳家の重臣・大塚権太夫は岐阜方の武市善兵衛と堤下で戦ってこれを倒し、助けに来た善兵衛の弟忠左衛門の首も挙げ、堤の上によじ登ろうとしました。その時、岐阜方の四天王ともいわれる剛の者飯沼勘兵衛が駆けつけ、一騎打ちとなりました。槍で打ち合いましたが、疲労していた大塚権太夫がついに打たれてしまいました。…
 
 しかし、勝敗は圧倒的な兵力の差から徐々にあらわれ、苦戦する味方を見た百々安信は木造具康に城に引き返すように伝えました。焔魔堂にいた秀信のところにも「味方利あらず」の使いが届き、岐阜城に退却することになりました。

 百々・木造隊は追撃する東軍と戦っては引き、岐阜方も上加納あたりまで退却。東軍は日が暮れてきたことと上加納で待ち受けていた百々・木造隊が激しく鉄砲を打ちかけてきたことから、芋島(岐阜市芋島)辺りまで下がり、その日の軍を収めました。

岐阜城攻め


岐阜城攻防図(岐阜市歴史博物館蔵)

 このとき、米野方面の池田隊の勝報が伝わったため、福島正則は先陣を取られてたまるかと夜を徹して岐阜に向かいました。
彼は8月23日早朝、岐阜の町にたどり着き、芋島から来た池田輝政と先陣争いで衝突しそうになりました。しかし和解することになり、城攻めの方向が決まりました。
 追手七曲口から福島正則らの部隊、瑞龍寺山砦からは浅野幸長らの部隊、迂回してからめ手の水の口から池田輝政の部隊が、岐阜城を攻めることになりました。 輝政は岐阜城主だったこともあり、家臣にも美濃の武士がおり、案内役となって天守近くまで一気に攻め上がりました。
福島勢は、上格子門を突破して二の丸にさしかかり、ここでも激戦が行われました。そのうちに焔硝(えんしよう)蔵が爆発して、山間にその音が響き渡りました。

 こうして戦っているのは天守だけとなり、秀信は生き残りの38人に感状を与え(軍功をほめ書状を授与すること)、自害しようとしました。しかし攻城軍の説得もあり、思いとどまって降伏しました。
 秀信は、側近14人を伴い池田輝政の兵に囲まれて山を下り、円徳寺に入ります。ここで武具を解き、頭を剃って知多半島に送られました。その後高野山に入り、慶長10年(1605)26歳で病死しました。

河渡の戦い


河渡から見た金華山

 大垣城の石田三成は岐阜城攻めの後詰として、重臣の舞兵庫を長良川右岸の河渡まで進出させました。三成と小西行長も沢渡村(現大垣市東町付近=揖斐川右岸)まで出馬し、陣をしき、中山道筋を押さえようとしました。そしてもう一手、清洲と大垣を結ぶ美濃路の守りとして、島津義弘を墨俣に送り出しました。

 岐阜城攻めに後れを取った黒田長政、藤堂高虎、田 中吉政らは、河渡の渡しに向かいました。
 長良川はこのあたりで河渡川と呼ばれていましたが、河渡川に着いてみると、大河で水をたたえており、渡りようもないほどでした。しかし「川は意外に浅い」とばかりに、東軍の兵たちは渡河を強行しました。

 西軍は川岸で防戦しましたが、東軍の勢いに押されて逃げ、三成と行長はほうほうの体で大垣城へ逃げ帰りました。墨俣の島津隊は一戦もせず大垣城へ引きあげました。
 勢いのついた東軍は揖斐川を越え、一気に赤坂まで進み、美濃の最前線はあっという間に突破されました。こうして、西軍拠点の目前に東軍が出現したのです。

そしていよいよ、慶長5年(1600)9月15日、「関ヶ原の合戦」が始まったのです。

私たちの友人や仲間から「岐阜城陥落までのようすを知りたい」「関ヶ原合戦前の美濃地方の動きを書いてほしい」という話がありました。
そこで、橋村健と後藤征夫が「図説・関ヶ原の合戦」(発行・岐阜新聞社、白水正編)にもとづいて、この文章をまとめました。

<参考文献>
・図説「関ヶ原の合戦」(岐阜新聞社発行・白水正編)
・「羽島市史」(羽島市)
・図説「ふるさと竹ヶ鼻」
・「岐阜市史・通史編・近世」(岐阜市)
・「かかみ野の風土(人物と産業)」
・インターネット「米野のたたかい」
・「岐阜市合渡の歴史」(岐阜市合渡広報会連合会発行)

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