岐阜「糞尿」物語

−岐阜市の発展・都市化と上・下水道ができるまで−

はじめに

 「糞尿」…それは、人間や動物の「うんこ」や「おしっこ」。つまり大便や小便。
 町では、「臭いもの」「汚いもの」「始末に困るもの」。…しかし化学肥料がなかった昔、
 村では、「農業に絶対必要なもの」「大切なもの」…でした。

 特に、平安・鎌倉時代以後は、「糞尿」は貴重な「宝物」でした。「鎌倉幕府が全国を支配できたのは人糞のおかげである」とも言われるほど、「人糞」を肥料に使い始めたことが、農業生産を爆発的に増やすことにつながったのです。

 道三・信長が築いた「岐阜町」では、江戸時代、そして岐阜市が誕生した明治、大正、昭和と、「糞尿にまつわるドラマ・話」がいろいろとありました。そのいくつかを紹介します。

その1.<江戸時代>
 長良三郷と岐阜輪中の村々との争い・訴訟

 岐阜町の糞尿は人口の増加とともに量が多くなり、だんだん、周辺の農家では「なくてはならない肥料・こやし」として使われるようになったのではないでしょうか。…岐阜町の人と周辺の農家が糞尿と野菜を交換したり、あるいは農家が代価を払って糞尿を引き取るようになっていったと考えられます。
 このことは、岐阜町より先に、大規模な町・都市として栄えていた大阪や江戸のようすからも、推測されます。

「江戸時代・都市における糞尿の代価」                  (ー「木曽文化の崩壊『厠考』・浅野弘光著」よりー)

 実際、「岐阜市史・通史編・近世」P247には、次のように書かれています。


江戸時代の岐阜町と長良三郷など
 村方ではたいてい糞尿は自給であったが、町の近郊では、町方から糞尿を購入して肥料とすることも少なくなかった。岐阜町と周辺農村では、今泉・早田・小熊・明屋敷・忠節・池の上の村々(岐阜輪中村々と称する)が、「岐阜奉行所御証文人馬根出」や「賃銭尻抱」などを高掛りで勤める代償として、岐阜町の糞尿を一手に入手する権利を得ていた。
 ところが、天保のころから岐阜輪中村々の「桶糞」独占権が長良三郷村々(上福光、中福光、真福寺の三村)によって脅かされるようになり、ついに天保9年(1838)には訴訟に発展した。その後も岐阜町の「桶糞」買い取りをめぐって、岐阜輪中村々と長良三郷とはしばしば紛争をおこし、そのために文久2年(1862)と慶応2年(1866)には両者の間で取り決めが結ばれている。

 つまり江戸時代のはじめは、近郊農村であった岐阜輪中の村々が、岐阜町の糞尿を独占的に入手していました。しかし江戸時代の末期・天保年間のころから、その権利をめぐって長良三郷の村々が割り込んできたようです。
 このことは、両地域ともに岐阜町の近郊農村として商業的農業(野菜販売など商品作物栽培)の度合いを深め、肥料としての糞尿に対する需要が増していったことを示しています。その結果、糞尿買い取り権の確保をめぐる争論が展開したのです。

その2<明治時代>
 岐阜町の境・堀江町筋の用水は「クソ堀」、
 京町付近は「アサクサ町」

 明治の初期、岐阜町の南端に位置する堀江町筋に用水が流れていました。しかしこの用水は民家の汚水や糞尿などで悪臭が強く、「クソ堀」と呼ばれていました。「ふるさと岐阜の物語・明治編」(清信重著)では次のように紹介しています。

 明治7年6月、今泉に新しい岐阜県庁舎落成。同時に美江寺南に、黒い板塀でかこまれた牢舎ができる。美江寺の森とこの一郭から西も南も一望の野っ原で、南には旧岐阜町の刑場があった弥八のお堂と、広い三昧場(墓地)が見はるかされる。
 県庁の地は岐阜町と隣り合わせであるが、その境界には堀江町の「クソ堀」があり、岐阜町と県庁を結ぶために、矢島町の平田藤右衛門が自費で橋をかけた。これを「平田橋」という。

明治22年岐阜市と周辺の村

 岐阜の町に県庁が移されたころから、この辺りは岐阜県の中心地として発展しました。また八間道などの新しい道路や忠節橋の開通によって、近くの町や村の産業との結びつきも深くなりました。こんな中で、明治22年(1889)岐阜町・富茂登村・小熊村・今泉村・稻束村・上加納村の一部がまとまって岐阜市が誕生しました。この地域には、役所やいろいろな会社・事業所・商店、学校なども多く、多くの人が行き来するようになりました。


明治33年岐阜市之図

 上記の「ふるさと岐阜の物語」では、明治34年(1901)のようすを次のように書いています。

 7月5日、中学の南に明徳小学校新築落成。この小学校には二階がない。二階からは監獄の中が丸見えになり、教育上面白からずというのだ。
 中学を中心に左右に京町・明徳二小学校、さらにその奧の西野町に女学校、この辺りは岐阜市の文教地区になった。ために登下校の際にはかなりの混雑となる。とくに監獄にそって西から東へ斜めに用水路があり、市が南部に発展するにつれて、島、早田から市中に大小便汲み取りのコエ車の列が、西から逆流してくる。登校生徒は元来「クソ堀」と呼ばれた用水路の匂いと、このコエ車に挟まれて、その臭気が甚だしい。この地一帯を「アサクサ町」と呼んだ。

 この記事を読むかぎり、岐阜市は、まだまだ「近代的な都市」とは言えない状態だったようです。

その3.<大正時代>
 糞尿汲み取り拒絶と下水処理問題

 明治の終わり頃になると、「下水や町が汚い・臭い」「不衛生だ」という市民の指摘・声が、だんだん大きくなっていきました。
 そんなようすが、「岐阜市史・通史編・近代」P480では、次のように書かれています。

 下水問題は、明治以来問題にされていたが、大正に入って都市化が進むにつれて、一層深刻になってきた。
 たとえば大正8(1919)年には「夏季豪雨の場合はどうだ。たちまちにして浸水し道路は一面川と化し、飲料水は数日間濁っているではないか」と述べ、悪水排水の不備を指摘する報道が出ている。なんとかしなければならないという声は、すでに沢田文治郎の大正6年7月市会議員当選の弁にもみられるが、具体化したのは大正9年に入ってからのことと思われ、9月には「下水整理に要する平面測量」の終了が報じられている。また翌10年3月20日の岐阜医師会総会では「下水道速成建議」の事後承認がなされている。

 社会科副読本「きょうまち」でも、次のように書いています。


副読本「きょうまち」より
人々の家の数が多くなってきた京町や明徳の校下などでは、水はけの問題もありましたが、それだけでなく大小便のしまつにもこまるという問題が出てきました。これまで、島や則武などの農家の人たちにくみ取ってもらっていましたが、たくさんになってくみとりがおいつかず、すぐたまっしまって、でんせん病の心配もでてくるなど、早く下水道をつくるとよいという声が、あらためてきたのです。

 岐阜市も、大正12(1923)年度より5カ年計画で施行するとした「下水整理計画」を作成しました。総工費220万円で、長良橋附近に取り入れ口を設け、排水路幹線を神室町付近で西走させて岐阜駅付近より来る支線を合体し、最後鏡島で長良川に放水するというもので、浄化場を設置しようというものではありませんでした。しかし、この計画は実現しませんでした。
 
 そんな中、大正11(1922)年12月7日、今まで「心づけ」をして糞尿の汲み取りをしてきた近郊十数か村の農民が、伊奈波の誓願寺で集まり農友会を結成しました。そして「今後無料汲み取りを原則とし、金を取ることは勝手次第たるべきこと、もし市民が無料汲み取りに応ぜざるときは汲み取りを拒絶する」と決議しました。さらに農民たちは総会を開き、「相当の汲み取り料をもらわなくては市の糞尿をくみ取ることはできない。大正14年1月から実行」と決議しました。
 こうした中、岐阜市会は大正13年に一度満場一致で市営糞尿処理場を造ると決議しました。しかし、予算や他の問題などでごたごたして、一向に具体化されませんでした。
 
 大正14(1925)年12月、当時の岐阜新聞は、「ことに中部(柳ヶ瀬附近)においては接続町村の農民よりの汲み取りも完全に行われず、相当に(汲み取りの)困難の程度が高く、かつ汲み取り料金についても絶えず紛擾(争い)をなすさま」と書いています。そして翌15年12年20日農友会は「一回十銭の汲み取り料をとる」と決議しました。
 岐阜市が急速に発展した結果、このような事件が起きたといえるでしょう。

その4.<昭和時代>
 「下水道問題」と上水道工事


上水道の水源地工事

 岐阜市の都市化とともに下水処理問題が起き、そのなかには井戸水の汚濁問題も指摘されていました。そしてその解決が、岐阜市政の課題でもありました。そのため市は、大正14(1925)年より昭和2(1927)年にわたり、先進都市水道の視察・専門学者の意見を聞くなどの調査研究を行いました。そして「長良河畔における地下水を利用することがもっとも適当」という計画を作成し、昭和3(1928)年に市議会の議決を得ました。

…しかし、この市議会は相当紛糾したようです。とくに資産家の多かった北部や中部では、井戸・風呂・便所等に設備が整っており、とくに「北部はなんら必要を感じない」と反対しました。
 そこで岐阜市は、「全市を北部と南部に二区に分け、さらにそれを四区に細分して、もつとも必要度の高い最南部から工事を始める」とにしました。この方針が適切であったため、反対の声が静まったようです。

 この上水道は、「金華山麓鏡岩に水源地を設け、長良川の伏流水をくみ上げ、瑞龍寺山上配水池から家庭に送る」というものでしたが、昭和3年12月第1期工事にとりかかり、翌4年2月には水源地の井戸掘りに着手、若宮町以北の第2期工事などを経て、昭和8(1933)年に完成しました。

<年表「大正から昭和初期の岐阜市と、上下水道事業」>

その5.<昭和時代>
 紆余曲折の後、完成した「分流式下水道」

 大正14年(1925)当初、岐阜市は雨水・家庭汚水・屎尿・工場悪水など全てを同一下水管を使って流す「合流式下水道」を敷設しようと考えていました。しかし、昭和3年(1928)岐阜市は上水道工事と共に、下水道事業の準備工事として全市にわたり部分的に道路側溝改良工事を行うことにしました。この工事によって雨水を排水路へ集め、集まった雨水を最終的には長良川に排水することにしました。こうして、市は「家庭汚水・屎尿・工場排水は下水管に集めるが、雨水は排除する」方式の「分流式下水道事業」に計画変更したのです。これが「日本では初めての高級な分流式下水道」の始まりでした。


岐阜市下水道計画

 昭和7年(1932)「岐阜市下水道計画」が提出されましたが、「南北に走る鶴田町・神田町・真砂町の三幹線に集められ、岐阜駅前・橋本町通りに設置された集合幹線に合体して祈年町の処理場に送る」というものでした。そして市は、「雨水・汚水の排除はもとより、屎尿の排除も完全にできることとなり、市民保健衛生上はもちろん、土地の利用面積・利用価値を増加し、水路は清水が流れ、魚介が繁殖し、なお蚊やハエを撲滅することができて、多大の利益を受ける」と事業効果を説明しました。 そして、昭和8年(1933)1月18日、この下水道計画は岐阜市議会で議決されました。ところが、その後の2月に「非常時の折がら、かかるばく大の市債を募り、あえて現状になんら支障なき工事を急ぐ必要を認めぬ」という「水道事業無期延期建議案」が出されました。「折がら」とは、日本の国際連盟脱退などの状況を意味しているのでしょうか?…「金がかかりすぎる」「まわりの農家の人たちが困る」などという意見もあり、下水道事業に反対の人たちはいろいろな運動を展開しました。
 市も、市民の理解を求めたり計画を変更したりして、再度市議会で審査・検討しました。こうした状態の中で8月30日、市議会は「下水道事業を8年度以後4カ年継続事業とする議案」を可決しました。


紛糾した岐阜市議会

祈年町の下水処理場

 このような経過をたどった後、下水道事業は昭和9年(1934)7月着工したのです。しかし日中戦争が始まるなどの情勢の変化などにより工事は遅れ、ようやく昭和18(1943)年3月に第一期計画分が完成したのです。

この文章は、以下の文献・資料をもとに、後藤征夫がまとめました。

<参考にした本>
・「樋口清之のおもしろ雑学日本史」(樋口C之・三笠書房)
・「厠考」(浅野弘光・教育出版文化協会)
・「岐阜市史・通史編・近世」(岐阜市)
・「岐阜市史・通史編・近代」(岐阜市)
・「ふるさと岐阜の物語・明治編」(C信清・福富易)
・「ふるさと岐阜の物語・大正編」(C信清・舟橋印刷)
・「きょうまち」(京町小学校)
・「ふるさとの思い出写真集・明治・大正・昭和」(丸山幸太郎、道下淳共編・図書刊行会)
・「特別展・市民のくらし100年」(岐阜市歴史博物館)

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