えっ! こんな所に、根尾川が流れているの?

−根尾川筋=席田用水の歴史探訪−

岐阜市に「根尾川」が流れているなんて!


伊自良川堤防にある根尾川排水機場

 岐阜市の西北部、島大橋付近の伊自良川堤防を走っていると、「根尾川排水機場」と書かれた建物がありました。
「あれっ!こんな所に根尾川なんて…?」「根尾川は本巣市と揖斐郡大野町の間を流れ、揖斐川の支流となっているはずだから。…間違いだろう。」と思いました。しかし気になったので、近くの畑で仕事をしていたおじいさんに聞いてみました。すると「この川は、昔から根尾川と呼ばれているよ。…間違いないよ」と言われました。
 家に帰って、インターネットで「根尾川」と入れて検してみました。

(前略)…かつての本流は、現在の糸貫川にあたる。1530年(享禄3年)、根尾川に大洪水が起こり、現在の本巣市山口にて根尾川が土砂で埋まってしまう。そのため、水の流れはここから西へと向かい、現在の根尾川になったという。席田用水は、かつての根尾川を改修して造られた用水路である。(後略)「もう1つの根尾川」…岐阜県内には「もう一つの根尾川」が存在する。岐阜市西改田を水源とし、岐阜市一日市場で伊自良川(長良川の支流)に合流する川であるが、かつての1530年以前の根尾川筋にあたる。現在も「根尾川」あるいは「古根尾川」と呼ばれている。

 「やっぱりそうだったんだ。」…私は、新しい知識を得て、うれしくなりました。…「この伊自良川の向こうに見えるのは、一日市場にある岐阜女子短大だ。」「この川は川部や西改田の方から流れてくるのだから、やはり根尾川。つまり1530年以前の古根尾川なんだ!」と思いました。
 その後、「確かな裏付けがもう少し欲しい」と思い、今度は「岐阜県治水史」を調べました。

 根尾川は往昔本巣郡曽井中島村の地より分流し、右へ流れるを糸貫川、左へ流れるを根尾川と称えた。左派した根尾川は文殊村と船木山の間を流れ、桑山の北を過ぎ、方県郡に入り、西郷村の間を流れ、板屋川を入れ、折立村にいたり木田川に会したという。また曰く、根尾川は鵜飼郷より川部村を経て、一日市場村と曽我屋村との間を流れ、河渡村にいたるともいう。根尾川の上流は享禄3年6月本巣郡山口村より藪川を分派し、その後糸貫川は細流となり、根尾川筋もその後水涸れて河川を絶つにいたった。

 席田用水についても調べることにしました。「岐阜市史・通史編・近世」の357ページには、次のように書かれていました。

 席田用水は、山口に設けられた水を、旧根尾川の河道を主水路として用水系を成立させている。同用水の起源は明らかではないが、右の事実からみる限り、根尾川の本流が藪川筋に抜けた享禄3年(1530)の大洪水が、1つの時期を画すことだけは確かであろう。
…(後略)…

古地図を見てびっくり!


加納領絵図

 3月のある日、岐阜市歴史博物館で特集「古地図」の展示を見て、私は思わず、「席田用水の地図だ!」と声を上げてしまいました。この時期、まさに私が関心をもっていた「席田用水、つまり根尾川筋」の古地図が、展示されているではありませんか!

 (左の古地図2点は、特別に撮影許可をいただきました。)

 上の「加納領絵図」では、左上にある谷汲村の下、山口から藪川(現在の根尾川)と糸貫川に分かれ、網の目のように細かく右下方面に分流していることが分かります。そして、中央で、右上から流れてくる長良川(古古川・古川・現在の川など)や伊自良川、板屋川などと合流して、南に流れています。そして、下の方で、西から犀川(真桑川)、東から荒田川や境川が流れ込んでいるようすも分 ります。さらに、右下には、木曽川の流れも書かれています。


席田井水下流域絵図

 左の絵図は席田用水の下流域のようすを表し、左上は本巣市郡府付近、右上は岐阜市小西郷付近のようです。そして右下には長良川が描かれ、下部には「曽我屋村」や「河渡宿」も記されています。
 本巣市郡府、石原地区あたりから、席田用水が下流部に向かって、方々に分かれながら、現在の岐阜市河渡付近まで流れていることが分かります。
 つまり、上の「加納領絵図」の糸貫川や古根尾川の川筋を基に、この地区の水田に入れる用水として、席田用水が造られたのだと考えられます。
 私は「1530年の根尾川大洪水で河道が変わり、糸貫川や古根尾川筋に水が来なくなったとき、この地域の人々はさぞかし困っただろう」「しかしそんな中、人々は立ち上がり、苦労してこの大がかりな用水を築いたのだろう」と思いました。

現地踏査で、現在の様子を見てみよう!


席田・真桑用水地域の地図
(Google地形図より作製)

 この広い範囲を見て回ろうとする時、「どこから、どのように回ろうか」「全ての川や水路を調べることは、とてもかなわないだろう」と考えました。
 だから、やっぱり最初「根尾川」の名称を発見して問題意識を感じた所、つまり根尾川が伊自良川に流れ込んでいる地点を、出発地点にしようと思いました。
 そして川や用水路に沿って上流に上っていき、糸貫川や現在の根尾川からの分流地点まで行こうと考えました。
 そこで、岐阜市曽我屋にある伊自良川の「根尾川排水機場」の前から出発することにしました。


−現地踏査した根尾川筋・席田用水の範囲−
(@〜Oは、行程写真の順番を示す)

1.曽我屋村横小堤から見る排水機場

 排水機場から入った奥には、昔ながらの堤防がありました。
 この堤防は、1764年(明和元年)に完成した「曽我屋村横小堤」と言われるものです。
 …大水の時は、伊自良川(長良川)の水が逆流したり根尾川の水があふれたりしたために、曽我屋村など河渡輪中の村々を守るために築かれたようです。
 …もちろん、上流にある川部村や西改田村などと、下流にある曽我屋村や寺田村、河渡村、生津村、馬場村など八か村は対立し、紛争は絶え間なかったようです。長さ272間半・高さ4尺・敷2間と決められていましたが、1786年(天明6年)長さ215間の築き足しが行われました。


2.国道157号線の橋から上流を望む

 川部まで行くと、国道157号線をくぐって北につながっていました。橋には「根尾川」の看板が立ち、やはりこの川の正式名称なんだと思いました。根尾川の周辺には住宅が多くありました。廃線となった名鉄・揖斐黒野線の線路跡をくぐり、さらに北につながっていました。


3.西改田・夏梅橋から上流を望む

 川を伝って上流に進み、西改田・若江神社前から北に曲がると、水が二方から流れ込んでいました。どちらに行ったらいか迷いましたが、水量の多い方に決めて進みました。「この辺りに家屋敷から降りる石段”こうど”があるはずだ」「昔、人々は、野菜洗いや炊事に根尾川の水を利用していたそうだ」という文章を読んだことがあったのです。それだけ根尾川の水はきれいだったのでしょう。私はそのまま西に進みました。


4.「是れより下流一級河川根尾川」

 少し行くと、「是より下流一級河川根尾川」と書かれた支柱が立っていました。「あっ、ここが根尾川の始まり?このも席田用水なのだが、根尾川の正式名称はここから下流なのか」と思いました。徐々に川幅が狭くなり、「川」というよりは「用水路」という感じがしてきました。
 そして、ここが岐阜市西改田と北方町芝原の境であることを知りました。その後も用水路に沿って、北に曲がったり西に曲がったりして進みました。


5. 席田用水・西改田分水工の水門

 しばらく行くと、大きな水音が聞こえ目の前に水門が見えてきました。駆け寄ってみると「西改田分水工・席田井水土地改良区」の表札が付いていました。「ここは、席田用水から西改田に分流している地点なんだ」と思いました。
 そして、水門の向こうには大量の水がもう一方の方に向かって流れていました。「あれ、こっちが本流みたい。どこにつながっているのだろう」と思い、今度は下流に向かいました。


6.西改田・村前付近の席田用水路

 本巣市仏生寺から北方町芝原に進み、岐阜市西改田まで戻って来ました。この辺りは、農村部と住宅地が混ざり合い、その間を用水路が通っていました。さすがに、「川に入るな」の立て看板やフェンスがあり、「多くの水が流れる季節は危ないだろうな」と思いました。
 もう少し東に進むと、さっき通った所にたどり着くことが分かったので、もう一度上流に向かって車を走らせることにしました。


7.石原地区の席田用水分水施設

 本巣市石原まで戻ると、また用水の分水施設がありました。コンクリートで水を四方に分け、その後水門で水量を調節するのでしょう。…ここから、いろいろな方面に水が分かれて流れていくことが分かります。「水をめぐつて、地域と地域、農家と農家の紛争や話し合いが、何度もあったのだろう」「その結果決められたルールに基づいて、この施設も造られたのだろう」と思いました。


8.郡府地区の席田用水と「危険」看板

 さらに上流に進むと、本巣市郡府という地区に来ました。北を見ると、岐阜市と本巣市の境になっている郡府山や船来山が見えます。
 水路の水量はとても多く、かなりの速さで南(下流)に向かって流れていきます。「わぁ、すごい水の量だ。流れも速い」と思いました。側に「危険・席田井水土地改良区」と書かれた看板が立てられていたので、「用水に落ちたら大変だ」と思いました。


9.糸貫川と、席田用水の取り入れ口

 用水路を伝って、郡府から西北に向かって車を走らせました。途中道のない田畑や集落の間を水路が通っているので、道路を北に西にと曲がりながら進みました。
 すると、「道の駅富有柿の里いとぬき」に出ました。目の前を通る道が国道157号線で、その西側には糸貫川が流れていました。そしてこの糸貫川から、席田用水の水が取り入れられていました。「ここが、糸貫川と昔の根尾川の分かれ口だった所だ」と思いました。


10.曽井中島の分水施設

 国道157号線から分かれて、糸貫川・席田用水を上流に向かって進みました。この辺りは、「ほたる公園」の名で知られる本巣市曽井中島地区です。所々に、整備されている水路も見られました。
 コンクリートで区切られた水路で、水が2つに分かれて下流に流れて行く分水施設に来ました。少しだけ戻ってみると、1つの水路は道の下をくぐって、東の国道の方に流れていきました。


11.山口の「史蹟・享禄の大洪水」支柱

 さらに、上流へ進みました。すると、本巣市山口という所に来ました。公園のようになっている所へ行くと「史蹟・享禄の大洪水」という支柱が立っているではありませんか。桜の花が咲き、まさにこの支柱の側が、糸貫川・席田用水の取り入れ口の水門でした。向こうに真桑用水の取り入れ口の水門も見られます。そして、その右には、昔「藪川」といわれ、現在の「根尾川」の堤防が見えています。「1530年の洪水で土砂で埋まってしまった所は、ここなのだ」と思いました。


12.根尾川と糸貫川の水門


13.下山口の用水取り入れ口

 この公園のようになっている所の側に、大きな堤防と水門があり、その水門の近くに「根尾川『糸貫川しめ切り工事と山口用水』国土交通省」の看板が立っていました。読んでみると、根尾川の洪水の歴史と河道の変化、そして取水していた席田、真桑などの各用水のことなどが書かれていました。

 その外側には、根尾川の水がとうとうと流れていました。

 伊自良川の排水機場から、やっと現在の根尾川本流までたどり着いたというものの、何かしらやり残しているような気持ちでした。よく考えてみると、糸貫川からのもう一つの水路、つまり国道157号線の方に向かっていた水路の先を、まだ探訪していなかったのです。
 私は、先の水門まで戻り、今度は用水に沿って下ってみることにしました。


14.国道157号線沿いの用水

 水門から用水は東南に流れ、国道157号線に出ました。本巣中学校・本巣小学校の西を流れたあと東に曲がり、本巣市所の北を東進しました。そして南には船来山が見えています。
 「あっ。岐阜県治水史に書いてあったのは、やはりこの流れだ」と思いました。「根尾川は往昔本巣郡曽井中島村の地より分流し、右へ流れるを糸貫川、左へ流れるを根尾川と称えた。左派した根尾川は文殊村と船木山の間を流れ…」と書かれていた通りなのです。「これが、1530年の洪水前の根尾川の流れの1つだったのだ」 と思いました。


15.西郷地区への取り入れ口

 所々に、各方面への取り入れ口が見られます。これは、本巣市と岐阜市の境、船来山北付近の用水取り入れ口で「金谷井水土地改良区・第一頭首工」と記されていました。
 ここから、網の目のように岐阜市西郷地区などに水が流れ、全ての水田に配水されているのだと思いました。


16.板屋川へ合流する用水

 用水に沿ってさらに下ると、この用水は上西郷犬塚で、板屋川に合流していました。「やはり、岐阜県治水史に書いてあった通りだ」と思いました。
 この後も、板屋川の堤防に沿って下りました。西改田や東改田、そして木田の水田に配水される用水取り入れ口が幾つかありました。用水は網の目のようにつながっていました。
 春がすみの中で、目の前に広がる水田は緑に輝いていました。

 今回の「根尾川筋、席田用水の探訪」で、網の目のように、まるで血管が血を体の隅々まで通わせているように、用水が整備されていることを知りました。そして、「根尾川の水が、本巣市・北方町はもちろん、岐阜市の西北部の農業を支えてきたのだな」と実感しました。

この文章は、後藤征夫が以前から課題として持ち続けていたことを、調べたり現地踏査をしたりしながら、まとめたものです。 

<参考にした本・資料>
・「岐阜市史・通史編・近世」(岐阜市)
・「岐阜県治水史・上巻」(岐阜県)
・インターネツト・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」
・国土地理院地図1:50000「大垣」(国土地理院)
・県別マップル道路地図「岐阜県・広域・詳細」(昭文社)
・立て看板説明資料「根尾川『糸貫川しめ切り工事と山口用水』」(国土交通省)
・岐阜市歴史博物館特集展示資料「古地図」(歴史博物館)
・地域ぶらっと歴史・文化散歩「西改田の根尾川沿いに残るこうど」(高橋弘)

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