岐阜の電車「昔話」

< は じ め に >


美濃電気軌道開通を祝う人々

 岐阜市で初めて電車が走ったのは、明治44年(1911)2月11日のことです。しかしこの日を迎えるまでには、日清・日露戦争、西欧化・近代化と都市の発展、地方の資産家と鉄道事業、といったさまざまな分野でのドラマや歴史がありました。

 明治19年(1886)不況が終わり、鉄道業や紡績業を中心に「企業勃興期」が到来しました。明治18年(1885)から25年(1892)の間に全国で50件もの私設鉄道会社の出願があり、鉄道局長官井上勝は、その過熱ぶりを「近来流行ノ鉄道病」と言いました。政府は、明治20年(1887)「私設鉄道条例」を公布して、統制と保護を行いました。しかし、この第一次鉄道ブームの下で、明治25年(1892)までに開業し得たのは、わずか12社でした。
 
 明治25年(1892)「鉄道敷設法」が公布されると第二次鉄道ブームが起こりました。時代は日清戦争後の好況期を迎え、東海道線の開通により、これらと結ぶ私設鉄道の敷設特許の出願が続きました。岐阜県でも、明治27年(1894)6月11日地元有力者により美濃鉄道(岐阜市〜上有知町)が出願されたことにより幕が開きました。明治29年(1896)には西濃電気鉄道(岐阜市〜竹鼻)および長良電気鉄道(長良橋〜高富村)があいついで出願しました。仮免状や特許状が下付されましたが、その後動きがなかったので失効したものとみられます。
 
 日露戦争後、世界の1等国になったとの自負と「世界との貿易が活発になる」との予想が広がりました。また明治33年(1900)中央線の敷設工事が進められる中、「地方にも近代化と、わが町と官線(国営線)と結ぶ鉄道を」との気運が生まれ、明治38年(1905)以後「私鉄ブーム」というべき、第三次鉄道ブームが起こりました。
 この岐阜でも、岐阜軽便鉄道、岐阜電気鉄道など多くの電気軌道計画が立てられましたが、地元の資本力だけでは鉄道の建設が難しいのが現実で、ほとんどが不許可となり、美濃電気軌道のみが明治40年(1907)9月5日許可を得ました。

明治の頃の岐阜の様子


明治24年の岐阜のようす

 明治6年(1873)岐阜県庁が笠松から岐阜に移転すると、県都の岐阜町は大いに発展することとなりました。商業の中心地でもあった岐阜町の繁華街は米屋町と松屋町・相生町(下矢嶋町)などで、周辺には商家が軒を連ねていました。明治8年(1875)には名古屋の「伊藤呉服店(今の松坂屋)」も釜石町に店を出しました。 名古屋街道沿いの上加納村でも、美園町・金津町・吉田町(元町筋)などは市街化しましたが、その他のところは田んぼの広がる、農村そのままでした。
 明治20年(1887)、岐阜町の郊外である上加納村と加納町の境あたりに、「加納停車場」(後に岐阜停車場に改称)ができ、22年東海道線が開通しました。そんな中、「県庁・市役所などがあった岐阜中心部と停車場(駅)を結ぶ道路や市内線の整備が、住民の利便や物資集散の時間短縮になくてはならない」ものとなってきました。

 当時岐阜市内では「トテ馬車」といわれた乗合馬車が走っていました。トテ馬車とは、決まった停車場はなく、馭者(御者)と別当(馬丁)が鋼製の角笛に似たラッパを吹きました。その音色が「トテー、トテー」と聞こえたことから、こう呼ばれました。
 しかし給餌などに手間がかかり糞尿の始末や衛生面での欠点がありました。したがって当時目覚しい発展をしていた電動機を用いた電車を馬車の代替とすることとなったのです。

 その頃、関は刃物、美濃は和紙の産地として全国に知られ、両町とも長良川の水運交通によって岐阜との強い結びつきを持っていました。木曽・長良・揖斐の三川の流域である中濃・岐阜・西濃地方では、明治22年(1889)東海道線が開通されても、県外と取引する物資の多くは、舟で三川を上下して運送されることが多かったのです。舟運によるおもな物資は、長良川筋でみると、米・麦・大豆・小豆・味噌・醤油・木材・薪炭・傘・清酒・生糸・ちりめん・紙等の生活必需品や特産品などでした。
 これらの舟が行きかう川筋の物資の集散地では、荷物の積み下ろしで賑わいをみせ、川湊を基点に、荷車や荷馬車によって荷物が各地へ運ばれました。電車は、そんな時代に誕生した新しい交通手段であり、今まで徒歩か人力車、馬車または舟運で行っていたものが電車で行けることになったのです。それは沿線の人に新しい交通機関の力を見せ付けるには十分でした。美濃電気軌道も、そんな明治の鉄道ブームのなかで建設された鉄道の1つでした。

美濃電気軌道の開業

 日露戦争後の起業熱に浮かされた、岐阜・関・上有知の有志者が、明治39年(1906)7月岐阜市で集会を開き、資本金100万円をもって美濃電気軌道鰍設立しようと事務所を岐阜商業会議所に置きました。しかし岐阜市側の発起人たちは、採算面を悲観し、努力するものがいなくなり、せっかく獲った鉄道の許可を返上しようとした動きがありました。これを聞いた関・上有知の発起人は岐阜市側の態度に怒り、両者は対立しました。
 資本金を50万円に減額したものの発起人たちの出資も半分にとどまり、一般公募で募集しても出資が集まらず、設立が危ぶまれました。そんな中、大阪の才賀藤吉(電気材料商)が材料納入と工事請負を条件として、4,000株(20万円)を引受けたため、ようやく明治42年(1909)11月会社を設立しました。実に許可から2年後でした。
 明治42年(1909)11月の創立総会当日には、今度は、重役の配当問題で対立し、岐阜・関方面の株主は一人も参加しないまま、重役等が決められました。 
 工事は明治43年(1910)8月に着工し、才賀電気商会の下請けで名古屋の木村組が施工しました。会社は用地買収に全力を傾注し、道路の拡幅、地上物件の撤去等の難関を克服し、翌明治44年(1911)1月に竣工しました。私鉄としては岐阜県で2番目、岐阜市で最初の電車鉄道でした。

岐阜の町を電車が走る


開業当初の美濃電・関停車場

 明治44年2月11日、岐阜に初めて電車が走りました。駅前〜今小町の市内線のほか、神田町〜美濃町・上有知(こうずち)を走る郊外線がありました。開業時のダイヤは市内線は10分ごと、郊外線は1時間ごとの運転で、定員は40人、最高速度は30kmでした。

 岐阜市での開通式は、梅林に設けられた車庫近くの空き地で催されました。あいにくの雨天でしたが、腰に弁当を巻きつけた人々がお祭り気分でどっと詰めかけ、大盛況でした。花電車も走り、市内は電車2台が往復ピストン運転したようです。開業後数日は、脱線や停電が相次ぎ、その後もしばらくはご難続きでした。乗客数も祝日や節句等、乗客の多いときは、積み残しもありましたが、普段は利用客が少なかったのです。1両10人も乗れば採算が取れる勘定でしたが、経営は苦しかったようです。
 
 郊外線は、岐阜と郡上地方を結び、人々の交通の便や物資の輸送を便利にするだけでなく、その地方の開発にも必ず役立つと期待されていました。しかし運賃が岐阜〜上有知(こうずち)30銭、別に通行税2銭と(市内2銭)、庶民にとってはまだまだ高い乗り物でした。…当時、うどん1杯が2銭であったという時代でもあり、「電車は乗るものではなく見るもの」でした。芥見の人が岐阜へ行くには、美濃町方面から石を積んで下る「石船」に乗せてもらったそうです。そのほうが早くて安かったといいます。
 
 美濃電気軌道は、電車を動かす電力を、板取川水力電気(現・中部電力)から受電していました。その後、自身も美濃電気軌道沿線の電力供給事業(電灯事業)も行なうようになっていきました。
 当時の「電車法規」を見てみると、「軍隊、学生の行軍、民間の葬列」に出会う場合は、「電車・通行止め」と定められていたそうです。現在とはかけ離れた、富国強兵策とか民俗風習というものが感じられます。

路線の拡充と美濃電の隆盛


長良軽便鉄道の試運転のようす

 大正期になると、美濃電気軌道は経営を拡大し、路線の拡充を図りました。北は長良橋、南は移転された現在の岐阜駅前まで、さらに新岐阜〜笠松間など、岐阜市の内線を延長しました。また大正4年(1915)には長良橋から長良北町間を開業させ、そして大正9年(1920)には大正2年から経営を始めていた長良軽便鉄道(長良〜高富間)と合併しました。さらに大正3年(1914)に忠節から北方間を開業していた岐北軽便鉄道を大正10年(1921)に合併しました。


大正はじめの今小町のようす

 岐阜市内では、県庁や岐阜駅を基点とする道路網・鉄道網の整備が進むと同時に、八間道(神田町通り)の商店街や柳ヶ瀬の歓楽街が 徐々に完成していきました。そんな交通機関の中心となっていった美濃電が、小規模の電力事業も行なう岐阜では有数の大企業となっていきました。
 大正7年(1918)4月、日本最初の女子車掌を採用しました。これは第一世界大戦の好景気で男子の車掌が不足していたからでした。大正9年(1920)になると、愛知県の愛知電気鉄道、東海道電気鉄道に対抗するため岐阜―名古屋間に急行電車線敷設の計画を立て、大正10年(1921)1月に申請しました。(大正11年末却下)
 大正10年(1921)には、輸送量の拡大に伴いボギー車を4両を投入しました。美濃町線では、大正2年(1913)からは客室を貨物車に変更した貨車電車で、美濃和紙などが岐阜へ輸送されました。しかし貨物輸送は大正末ごろから主役を自動車に譲りました。

旧名鉄への身売り


岐阜・美濃間を走っていた乗合自動車

 美濃電気軌道は、大正後半ごろより並行バス路 が充実してきたため、経営が悪化していきました。他の鉄道では、バスに対抗するために、軌道を専用軌道あるいは地方鉄道に改めて高速化し、生き残りを図りました。しかし美濃電気軌道はそれを行ないませんでした。大正9年(1920)の増資のときには、名古屋電灯(現・中部電力)の関係で増資分の1/3を引受けてもらいました。

 そのころ愛知県では、旧名鉄が名古屋〜岐阜間の都市間路線を建設すべく、そのチャンスを狙っていました。旧名鉄は、美濃電軌の岐阜〜笠松間の路線に自社の路線を一宮から結ぶことを計画し、 美濃電軌と乗り入れ交渉を行う中で、美濃電軌と旧名鉄の合併問題が生じました。旧名鉄が美濃電 軌の株式2万株を持っていたことや、昭和2年(1927)金融恐慌とそれに続く昭和恐慌で美濃電気軌道の経営は窮地となり、昭和5年(1930)3月合併の仮調印がされました。
 ところが、この合併話が岐阜の経済界を中心に 激しい反対運動が始まりました。岐阜県の人の中には、愛知県の企業に乗っ取られたと感じた人が 数多くいたそうです。従業員のストライキも発生したそうですが、結局、社名を名岐鉄道とすることや、新会社の役員の半数を美濃電軌道から迎え入れることを条件に、同年8月に(旧)名古屋鉄道と調印しました。美濃電気軌道は旧名鉄の支線となったのです。

この文章は、かねてから「鉄道・電車」に興味を持って調べてきた林再寿が、さまざまな本を読みながら調べたことをまとめたものです。
<参考文献>
・「東海地方の鉄道敷設史U」(井戸田 弘著)
・「全国鉄道事情大研究 名古屋北部・岐阜篇@」(川島令三著、草思社)
・「名鉄の廃線を歩く」(徳田耕一編著、JTB発行)
・「ふるさと岐阜の物語」(清 信重著、福富財団発行)
・「わたしたちの岐阜県の歴史」(岐阜県編著、大衆書房)
・「新修・関市史・資料編・近代・現代」(関市教育委員会市史編纂室)
・「岐阜県の歴史」(松田之利他5名、山川出版社)

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