「ふるさと岐阜の歴史をさぐる」No.7
−墨俣城築城のマジックと木曽川の変化をさぐる−
いよいよ織田信長が美濃攻撃に乗り出した1566年(永禄9)のこと。…難攻不落の稲葉山(金華山)を落とすには、どうしても 交通の要所である墨俣(今の大垣市墨俣)に城を築いて足場にする必要がありました。しかし、わずか12キロ北東には敵の稲葉山城がそびえています。…それまでも何度も美濃兵(斎藤勢)の攻撃に遭い、その都度失敗しているのです。その上、築城の資材・材木などを調達するのに、敵の稲葉山城の真下を流れる長良川を流すことなどできるはずがありません。
…ところが、信長の命を受けた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が成功させたのです。それではどのような奇策を用いて墨俣城を築いたのでしょうか?
この謎に光があてられたのは昭和52年(1977)。…愛知県江南市の旧家から発見された古文書「前野文書」には、築城の経過や城の全容が書かれていました。
「そうか、この頃は、木曽川と長良川が境川でつながっていたのか」と思った私は、他の文献や資料、地図などを見ながら、自分の目で当時の様子を検証しなければならないと思いました。
地図を見ると、なるほど長良川沿いの墨俣の少し南で、境川が流れ込んでいます。そして境川をさかのぼっていくと、柳津や笠松の北はずれを通り、東川手、下印食、領下、長森細畑、上印食などを経て、木曽川の方向に向かっているようです。ところが、手力・芋島付近から内陸部の那加方面に向かっていき、木曽川から遠くなっていくようです。…「あれ!どうしたのかな?」と思い、「岐阜県治水史」や「岐南町史」などで調べることにしました。
「岐阜県治水史・上巻」のP53、54では、次のように記しています。
また「岐南町史・通史編」のP414、P238には、次のようにあります。
「天正14年の大洪水によって、木曽川の河道が今の流れに変わったのか!それまでは、前渡から今の境川につながっていて、それが木曽川の本流だったのだ。だからこそ、美濃の国と尾張の国に境となっていたのだ。!」
その時、以前に「濃尾平野の地形や河川の流路変化」を調べたことを思い出し、私は、国土交通省・木曽川上流工事事務所で「濃尾平野河川地形図」(5万分の1)見せてもらうことにしました。
赤の実線が改修工事を行った堤防を表しています。そして、今の木曽川の南北に水色の筋が何本も見られるのが、旧河川の跡なのです。これを見ると、愛知県側も犬山や江南あたりで、また岐阜県側でも各務原市前渡や中屋付近から岐阜市芋島や岐南町方面に向かって、何本も川筋が見られます。
今度は、国土地理院の同じ縮尺の地図で、重ね合わせてみました。…すると、やはり前渡・下切・松本・小佐野・大野・芋島などを経て、用水が境川につながっているようです。また中屋町から岐南町平島を経て、境川につながる用水があるようです。…「かつての川筋が用水となって残っているのかな?」と思った私は、実際に現地踏査をすることにしました。
長良川の境川排水機場(墨俣付近) 自分の目と足で確かめようと、墨俣から境川をさかのぼることにしました。左の写真は、長良川に流れ込む現在の「境川排水機場」ですが、昔はこんな排水機があるはずもなく、場所ももう少し上流だったと思われます。
境川は羽島市西小熊から東小熊へ曲がっており、自然堤防のような少し高い所に、家が並んでいます。堤防は遊歩道に整備され、河川敷には畑やお墓なども見られました。
境川はカラフルタウンの南から西に周り、柳津小の北へ回り込んでいました。柳津の河川敷は公園となり、テニスコートなどもあり、人々が楽しんでいるようでした。その後、境川は東北へと進み、笠松町の北はずれを通り、岐阜市東川手に北上していきました。
名鉄名古屋本線を越え北上すると、県道1号線と交差し厚見小の東に出ます。さらに東海道本線の線路の下をくぐり、厚見中から領下そして細畑にでました。
細畑の南、岐南町上印食の境川河川敷も、遊歩道になり、川にはカモなど
の水鳥が遊んでいました。その後、境川は南東に進み、岐阜女子高校から岐南町三宅に向かっています。そして北東に曲がって手力・芋島方面に進みました。
その後、芋島の東で、境川は北に折れ曲がり、高田を経て、北の内陸部へ進みました。「これが、治水史に書いてあった『各務郡北部より来る小川』かな」と思いました。だから、折れ曲がった所まで戻ってみると、東から流れ込む水路がありました。「これが、昔の境川なのかな?」と思い、そのまま東に進みました。
前に東海北陸自動車道が見えてきました。ガードをくぐると、大型ショッピングの北に出ました。さらに進むと、金属団地・国道21号線を越え、南東に向かいました。このあたりまで来ると、水路の幅はずいぶん狭く、また水量もあまり見られません。でも、水路をつたって上流へ進むことにしました。
小佐野のあたりまで来ると、水路の幅はずいぶん狭く、また水量もあまり見られません。でも、水路をつたって上流へ進むことにしました。
小佐野のあたりまで来ると、水路の幅はずいぶん狭く、また水量もあまり見られません。でも、水路をつたって上流へ進むことにしました。
さらに東に進むと、新境川放水路にぶつかりました。これは昭和7年(1932)から24年(1949)に行われた「木曽川上流改修」によって造られたもので、それ以前は放水路の東西がつながっていたと思われます。
放水路の東に周 放水路の東の周り、水路のようなものを探すと、やはり見つかりました。さすがに水路の幅は狭くなり、水量もあまり見られません。しかし、私は、三井山のふもとを東に向かいました。
松本町付近まで来ると、きれいに整備された所に出ました。犬を連れて散歩している人に「この溝は新しい感じがするんだけど?」と尋ねると、「そうですね。何年前になるでしょうかね。…個々は、以前あった水路などに、土を盛ったり植樹をしたりしてねきれいな散歩道にせいびされたんですよ」と答えられました。
まだ東に進み、下切町付近まで来ると急に坂を登り始めました。「あれ、水路がこんなに高土地を通るはずがないのでは?」と思いました。しかし同時に「あっ、そうか。この辺りが、天正14年(1586)の大洪水で土砂がたまり、木曽川の流れを変えた所なんだ」と思いました。少し進むと、整備された堤防道路に出ました。その堤防は二重に造られ、その間には「浄化センター」がありました。「この辺りが、境川の入り口だった所なのだ。…天正14年の大洪水でふさがり、川島から笠松方面に流れるようになったのだ」と思いました。
「河川地形図」に見られるもう一本の川筋を確かめるために、外堤防を走り、下中屋町に行きました。先の「新境川放水路」の付近から、やはり水路がありました。その水路につたって今度は下流に進むと、「東海北陸自動車道」のガードをくぐり、羽島郡平島に出ました。
これは「中部排水路」と言われているようですが、どんどん進むと西直進する流れと同時に、北に折れ曲がって国道21号線のガードをくぐり、 岐南町三宅に出て、境川に流れ込んでいました。「やはり、これも昔の境川の川筋だったのかな」と思いました。
この文章は、読書の中で生まれた私自身の疑問を解決しようとして、文献や地図などによって調べ たり、国土交通省に行って教えてもらったり、さらに現地 踏査で確かめたりしたことを、後藤征 夫がそのまま、まとめたものです。 <参考にした本・資料> ・「岐阜城いまむかし」(中日新聞本社:昭和57年4月) ・「岐阜県治水史・上巻」(岐阜県:昭和28年) ・「岐南町史・通史編」(岐阜県羽島郡岐南町) ・「木曽川上流80年のあゆみ」(建設省、木曽川上流工事事務所:平成12年10月) ・「濃尾平野河川地形図」(建設省、木曽川上流工事事務所:平成12年10月) ・「Googleマップ(地形図)」 ・「国土地理院地図・岐阜・5万分の1」 |