長良橋の移り変わり

橋ができる前の様子

 江戸時代、長良から北にのびる村々の人たちが高富街道から岐阜町へ行くには、渡し船に乗りました。
その頃は荷物のほとんどは船で運んでいました。長良川には荷物を積んだ船が上り、下りしていました。長良三郷には83艘(そう)の船があり、川下の桑名の方から茶・塩・米などを運び、上流の村からは紙・材木・薪(まき)・炭・石などを運んで来ていました。長良のみなとには川奉行所があり、それらの荷物を積み下していました。

最初に架(か)けられた橋・明七橋


最初に架けられた橋・明七橋

 1871(明治4)年に岐阜県が生まれました。県庁ははじめ笠松にありましたが、岐阜に移されました。岐阜といっても、今泉(いまいずみ)村の中です。(当時、岐阜というと、岐阜町以外に今泉村・小熊(おぐま)村・富茂登(ふもと)村・稲束(いつか)村を含んでいたようです。)そこで人や物の行き来が多くなり、渡し船で長良川を越えるのは不便なので、1874(明治7)年、初めて、橋が架(か)けられました。できた年から明七(めいしち)橋といいます。長良川の南側は木橋ですが、北側は水の流れがあり、深いので船を10艘(そう)余り並べて板を渡した船橋にしました。欄干(らんかん)やガス燈(とう)もつけられました。この橋を渡るには、人が4厘(りん)、馬が9厘、人力車は1銭(せん)4厘かかりました。開設当時は、芝居小屋ができたり、覗(のぞ)きメガネの店が出たりして、見物人で大賑(にぎ)わいでした。
 大水が出ると橋が壊(こわ)されたり、橋の下の船が流されたりしました。それでも、船に乗らずにいつでも行き来できて大変便利でした。

長良川の木橋


壊れた長良川の木橋

明治34年頃の長良橋

 1884(明治17)年、明七橋は木橋に架けかえられました。長さが285m、幅3,8m、電柱ぐらいの太い木を組み合わせて作られました、長良橋梁(きょうりょう)社という会社が作ったので、通行料が必要でした。河渡(ごうど)橋、尻毛(しっけ)橋、忠節(ちゅうせつ)橋もこのころできました。
 1887(明治20)年、国鉄の東海道線が大垣(おおがき)から延長されて上加納(かみかのう)村に駅が作られました。岐阜の町と加納の町との間の田畑の中でした。鉄道が敷(し)かれて、人の行き来や、物を運ぶのに汽車が使われるようになりました。駅の前には、人力車や宿屋、そのほかいろいろな店もでき、賑わいました。 1889(明治22)年、岐阜町と今泉村、小熊村、稲束村、富茂登村と上加納村のだいたい北半分を合せて岐阜市が誕生しました。
 1891(明治24)年10月28日午前6時37分、本巣(もとす)郡根尾(ねお)村を震源地として濃尾(のうび)大地震が起こりました。余りの地震の強さに岐阜測候所(そっこうじょ)の地震計の針が振り切れてしまったそうです。岐阜市では地震の後に火事が起き、岐阜駅あたりから伊奈波神社附近まで一面焼け野原になりました。
 1901(明治34)年には、県が3万円ほどかけて木橋が架け直され、無料で通れるようになりました。 1911(明治44)年になると、私鉄の美濃電気軌道の市内電車が初めてできました。また、柳ヶ瀬と美濃町(現在の美濃市)間にも電車が走りました。開通の日には、子どもも、大人も、ライトをつけて走る花電車を見に出かけたそうです。
 美濃町線は今の殿町通りを通っていたので、狭い道路に、電車・馬車・荷車・人力車が通り混雑しました。しかし、美濃町から1日がかりで岐阜へ来ていた人も、2時間もかからないで来れるようになりました。

鉄橋の長良橋


大正4年にできた鉄橋

 1915(大正4)年、長良橋は鉄橋に架けかえられ、長良橋駅から長良北町駅が開通し、岐阜駅から高富まで電車を乗り換えないで行けるようになりました。 大正5年には2台しかなかった乗用車が、8年には95台に増え、トラックも9台走るようになりました。木材輸送も筏(いかだ)からトラックにかわるなど、大正時代には交通の様子がどんどん変わりました。
 昭和に入って、岐阜市の人口や範囲が広がって、商業地、工業地、住宅地も計画に発展してきました。岐阜駅周辺には、いくつもの紡績、製糸工場も建てられました。岐阜市内線や美濃町線も美濃電気軌道から名古屋鉄道にかわっていきます。しかし、1941(昭和16)年には、太平洋戦争が始まり、昭和20年7月9日の夜には、岐阜市にもアメリカのB29がおそい、焼夷弾(しょういだん)が落とされました。8月には広島に原子爆弾が落とされ、日本中が大被害を受けるようになったので、15日に戦争を止(や)めることになりました。

戦後の長良橋

 戦後、焼け野原になった柳ヶ瀬で真っ先に劇場が開館しました。戦争中楽しみの少なかった人たちが映画を見ようと、雨の中で傘を差して、長蛇(ちょうだ)の列を作りました。                  


昭和32年ごろの北町・長良橋の様子

現在の長良橋

 戦争が終わって、交通量が増えていきました。それとともに、長良橋の痛みもひどくなって来ました。厚い板を張りつめた路面は、自動車が通るたびに板がはねるので、シロホン橋といわれ、足元を見て歩かないと危ないほどでした。
 長良橋は、1954(昭和29)年から1957(昭和32)年まで工費4億2000万円をかけて、少し下流に架け直されました。洪水に備えて橋脚(きょうきゃく)を高くしたり、堤防を壊さないように水の流れも考えて作ったりしてあります。また、電車は複線にし、自動車は左右に2車線で通れるようになりました。
 バスも新しい長良橋を通るようになりました。バスはその橋を渡ると坂を下り、狭い長良北町の商店街(昔からの高富街道)を通っていましたが、電車の線路の周りの家を取り壊して、新しい高富街道を作って、長良橋からまっすぐ走るようになりました。
 1960(昭和35)年、長良北町から高富までの電車は廃止され、バスが走るようになりました。この自動車を中心とした流れは押しとどめることができず、1988(昭和63)年6月1日、名古屋鉄道の徹明町〜長良北町間の路線が廃止されました。長良橋は自動車(バイクを含む)と自転車・歩行者などの通行のみになりました。

この文章は、いろいろな文献や資料を調べながら、橋村健がまとめたものです。

<参考文献>
・「わたしたちの町まち・ながら」(長良・長良東・長良西小学校:1984年発行)
・「社会科・ぎふし」(1974年)
・「わたしたちの岐阜市」(岐阜市小学校社会科研究会:平成16年4月1日発行)

Copyright (c) 2010 「お話・岐阜の歴史」サークル All Rights Reserved.
inserted by FC2 system