「アパレルの町・岐阜」の誕生と歩み

−昭和40年代の後半には、「岐阜市はアパレルの町」「岐阜産のファッション製品は、東京・大阪と拮抗」と言われました。どのようにしてアパレル産業が盛んになったのでしょう?−

1.岐阜駅前ハルピン街の誕生

 岐阜空襲によって岐阜市市街地の8割が焦土と化し、終戦後の昭和21年頃はまだ岐阜駅やその駅前一帯も焼け野原でした。駅前は疎開先から帰った人達、外地から帰った復員兵や引揚者であふれましたが、焼け野原の岐阜の町を前にして途方に暮れるばかりでした。
 その頃、岐阜駅前に、外地から帰ってくる復員・引揚者のサービスのため、引揚者援護施設として「簡易宿泊所兼相談所」が設けられました。昭和21年の春、「在外同胞救出学生同盟岐阜地区委員会」の看板が掲げられ、岐阜師範(現岐阜大学教育学部)・岐阜工専(同工学部)・岐阜農専(同応用生物科学部)・岐阜女子医専(同医学部)・岐阜薬専(現岐阜薬科大学)等の200人程の学生が、「簡易宿泊所兼相談所」の援護活動に従事しました。 


ー昭和22年 ハルピン街ー

引揚者の中には、旧満州開拓青少年義勇軍の開拓団員が多くいました。彼らは自力で生活再建を果たそうと、昭和21年11月末に駅前にバラック2棟を建て、引揚者達の生活再建団体「北満地区引揚民更生社」を結成しました。そしてこのバラック2棟に14戸が入り、飲食店や古着屋などを開いて生活し始めました。これが岐阜繊維問屋街のもとになったハルピン街の始まりです。その後も入居を希望する引揚者が後を絶たず、ハルピン街はどんどん増築され、翌年末には100世帯を越える状態でした。
昭和22年7月1日「飲食営業緊急措置令」によって外食券食堂以外の食べ物関係の営業が難しくなると、ハルピン街は全面的に繊維製品関係の営業に転換しました。主な商品は古着でしたが、昭和23〜24年頃には旧軍の払い下げのテントやシート用の布で作ったズボンも売りました。また一宮方面の繊維産地から密かに生地を仕入れて、自宅または知人や周辺の人々に委託して既製服を製造販売するようになり、次第にこの既製服の製造販売に重点が移っていきました。そしてこのハルピン街に衣料品を仕入れにくるお客も次第に増えていきました。
<昭和22年、中国から復員し、ハルピン街に入居した人の話>
 先ずてっとり早くやれることは食べ物店、一杯屋だった。酒類といってもドブロク。それから古着の売買。古着の買い出しに出かけたが、素人のことで、他人のタンスから引き出すことはなかなか容易ではなかった。新品を古着として扱うコツも覚えた。サラシなどもヤミで手に入れた。(軍需品が流れていた)買いだした物は行李詰めにするのだが、上に古着、下に新品を入れて取締りの目をごまかした。ヤミ商売は利潤がよかったが、経済警察のご厄介になったこともある。警察へ仲間の払い下げにいったこともある。尾西のスフでズボンを作ったが、若い者が新しい衣料を欲しがっていたので飛ぶように売れた。

2.ハルピン街の移転と、西問屋町繊維街・マルフジ繊維街

 ところで、ハルピン街は正式に認可を受けて建築されたものではなかったので不法建築とされ、同駅前広場の拡張計画のために再三、移転を迫られていました。

 <当時の住人の話>
 岐阜駅前に掘建て小屋を造ろうとしたら、市の区画整理地域だから困るという。行き先がないから何とかして欲しいと、県や警察へ陳情した。やっと一戸三畳ほどの掘建小屋を造ることができた。この一坪半の小屋で生活し古着商売をやった。


ーハルピン街解体直後の岐阜駅前ー

 岐阜市の再三にわたる立ち退き請求に、ハルピン街内部にもようやく立ち退いても良いという機運が出てきて、23年7月立退既成同盟が結成されました。ハルピン街移転先の敷地問題等で二転三転もありました。しかし昭和25年7月になってようやく、「7月20日から六日間の間に、岐阜駅前ハルピン街147世帯全部が真砂町12、13丁目西の大宝町に移転完了」と決定。4年越しの難問題もやっと落ち着き、懸案の岐阜駅ーハルピン街解体直後の岐阜駅前ー  前広場の拡張工事も行われることになりました。
大宝町へ移ったハルピン街は、呉服通り(現・日ノ本町)と西問屋町の二地区に分かれました。そして25年7月25日、西問屋町65店は「西問屋町繊維街」を結成しました。それに対し、「大宝町へ移転したものの、商売には不向きだ。やはり岐阜駅へ、より近い地点へ」というグループがありました。人々は、金町8丁目の岐阜車輌株式会社に「土地を売ってほしい」と交渉しましたが、「売るわけにはゆかぬが、商売をやるなら一緒にやろう」ということになりました。こうして、25年8月14日「ハルピン街繊維品斡旋所」が設立され、11月にはマルフジ繊維街が建設されました。

<「役だった遊休ミシン」元岐阜県副知事だったGさんの話>
 終戦当時、岐阜市周辺には4万台からの遊休ミシンがあった。このミシンが岐阜の繊維問屋町の発展に夜立だった。今日の問屋町の反映は、このミシンのおかげといってよい。企業家が目を付けた。繊維関係の復活組もほっておかない。内職にはもってこいの武器だった。無法集団の持ち出しもあったようだ。ともかくミシンはフル回転した。ミシンは、戦争のため減少したということはない。ミシンは金属供出の対象とはならなかったからだ。

3.本格的な街づくり・伸びる企業


ー昭和25年 一条通りの様子ー

 昭和25年後半、繊維問屋町では本格的な町づくりが始まりました。まず共同毛織の工場跡地(真砂丁13丁目)三千坪を買収し、千坪は一条通りに譲りました。
 26年4月中央通り着工、8月入居、9月40店全部がオープンし、「中央通り発展会」が生まれました。この全店オープンの大売り出しには、「開店大売り出し」の赤い幟が岐阜駅前まで1m間隔にずらりと立ちました。そして26年暮れには岐阜繊維問屋町連合会が結成されました。
 この頃の岐阜の問屋町人は、まだ商売人としては決して一人前とは言えませんでした。出張販売は、商売に機動性をもち広く販売網を拡げなければなりません。ところが、販売先には強力な競争相手(東京、大阪、名古屋等)が待ち構えていました。既製服としても戦前からの伝統を持った産地が戦争の痛手から徐々に立ち直ってきていたのです。
安定期を迎えると改めて商売の信用が問い直され、岐阜の問屋町人は、仕入れにも販売にも新しい産地づくり・信用のノレンを掲げるためにずいぶん努力を重ねました。技術の向上・品質の改善・商機のキヤッチ・資金の合理的な運用操作・顧客へのサービス等に努めました。また幅広く商売を展開するには、現金取引・短期決済というような単純な決済からの転換が強く求められました。 昭和27年頃、問屋町の業者にはそれぞれ仕入れ客が定着し始めました。顧客獲得のため、かつてのような粗製乱造は許されなくなり、デザイン・縫製技術・価格などの点で業者間の競争も激しくなりました。そんな中、当然岐阜の製品の品質は向上していきました。岐阜製品の名は全国各地に広がり、広島からの問屋が仕入れに来るほどでした。岐阜製品は、この人達の口から山陰・九州・四国方面にまで宣伝されたのです。
 こうして昭和28年頃には、16町内で600商社余りを数える繊維街ができあがりました。

4.〜昭和30(1955)年頃 アパレルメーカーと縫製加工業、

 ハルピン街の誕生以後、岐阜の既製服産業が短期間に成長した要因は、製品が安価であったことがあげられます。…それは、近隣の有力な織物産地(尾西・一宮等)から低価格で原反が入手できたことと、東京・大阪などの先進産地に対し「低級品を安い工賃で大量に生産する」という岐阜の方式によって実現したのです。


家内制の縫製工場

 昭和30年頃には「商品の企画者は駅前問屋町の問屋で、殆どの既製服加工工場はこの問屋の下請け」という仕組みが確立していました。問屋の自家工場はごく少なく、生産の大半は下請け制の中で行われました。加工業者は複数の問屋と取引し、また取引相手の変更もしばしば行われました。さらに縫製加工業者が部分工程を更に下請けに出すという重層的な下請け関係があり、最末端は穴かがり・ボタン付けなどの家庭内職でした。これらの殆どが9人以下の最小規模の工場が90%でしたが、小規模工場の増加と並行して徐々に30〜199人の規模の工場等も現れてきました。
 岐阜の製品の販売先は地方の卸商・小売商で、九州と北海道が第一位、次いで東北、山陰、北陸、中国となっていました。

5.昭和30〜40(1965)年頃 新しい商品作り・縫製技術向上、岐阜メード展


問屋町3丁目(昭和40年)

 昭和30年頃から経済成長が始まり、商品がたくさん出回るようになると、今までのように「作れば売れる」というわけにはいかなくなりました。だんだんデザイン・素材の良い商品の価値が高まっていく中で、新しい商品作りや縫製技術の向上が求められました。 
 昭和31年には出張見本市を開き販売地域を拡げていくために、東北・北海道などで県外展示会が始まりました。また昭和33年「岐阜縫製加工協同組合」、34年には「岐阜服装技術研究協同組合」が設立され、競技会・コンクールなどを通じて全体のレベルアップを図りました。
 日本が経済成長する中で、岐阜アパレル産地では周りの毛織物産地から仕入れた織物や、ナイロン、ポリエステルなどの合成繊維を使った新しい商品作りが進んで行われ、紳士服(ジャンパー等)中心から、婦人服・子供服・スポーツウェア等種類が多くなりました。そして昭和36年8月に既製服のまとまった展示会としては初めての「第一回岐阜メード展」が開かれ、評判となりま した。

6.昭和40〜50(1975)年頃 大量生産・大量販売、繊維卸センター 

 従前の小売業は、百貨店を除くと問屋の主導の下に小規模の零細な小売店によって営まれていました。しかし高度経済成長期以後、以前には見られなかったタイプの小売商業が出現しました。いわゆるスーパーですが、セルフサービス方式をとり、低マージン,高回転で営業しました。
 昭和44年の岐阜市では、タマコシなど衣料品部門のスーパーストアー(非食料品の販売割合が50%以上)が4店舗、スーパーマーケット(総合食料品の販売割合が50%以上)が15店舗を数えました。その後も衣料品部門では、ジャスコ(46年10月)、名鉄忠節SC(47年5月)、長崎屋(50年4月)、ダイエー(51年3月)、ユニー長良店(51年11月)等のスーパーが次々と開店しました。
 既製服も大量生産・大量販売が行われるようになり、岐阜アパレル産地の売り先も地方都市から日本の中心都市へと進出が始まりました。とくに企業組織が株式会社のものは出張販売で成果を挙げ、都市部や地方の仲卸、専門店、百貨店、量販店など全国に販売先を拡げました。


岐阜繊維卸センター

 こうした中で、昭和44年には2番目の問屋街として岐阜市敷島町に「岐阜繊維卸しセンター」が、昭和45年には3番目の問屋街として東海道新幹線羽島駅南に「岐阜羽島繊維卸しセンター」ができました。だんだんファッション・流行への関心が高くなるにつれ、高級で個性的な衣服が求められるようになり、デザインなどが大切になっていきました。





7.昭和50年〜60(1985)年頃 国際化への歩み 縫製部門の海外展開


岐阜ファッションフェスタ

 石油ショックや円高の影響で経済の成長は低くなりましたが、物が増えて生活は豊かになり、人々は自分にあった質の良い商品を求める時代になりました。こうした中で、岐阜問屋街でも製品を早く作るための工夫をしたり店毎に特徴のある商品作りに努めるなどに努力しました。その結果、岐阜の既製服は景気が悪い時でもあまり影響を受けずに成長することができ、岐阜市の産業の中心となりました。
 また昭和53年には、岐阜市はイタリアのフィレンツェ市と姉妹都市となり、ヨーロッパのファッション情報を交換したりして岐阜問屋街もだんだん外国へ目をむけるようになりました。
 日本が国際化へと進んでいく中で、長い間親しまれてきた岐阜アパレル製品の総合展示会である「岐阜メード」の名前も「岐阜ファッションフェスタ」と変わり、内容も益々充実したものになりました。イタリアから有名なデザイナーを迎えて「イタリアファッションショー」を開催したり、フランスからは世界でも有名なデザイナー4人を迎え「アパレルポリス岐阜フェアー」が盛大に行いました。
 こうして国際化が進む中、大手企業は外国に生産工場をつくり、縫製メーカーの海外進出が始まりました。また問屋街には台湾・香港・シンガポールなど外国からのバイヤーが増えてきました。

8.昭和60年〜平成7(1995)頃 「ファッション都市」を目指して

 昭和63年3月アパレル産業の情報化のための会社「(株)岐阜ファッションコミュニティ」を設立し、総合展示会名を平成3年から「岐阜ファッションフェア」と改めました。また「ア・ミューズ岐阜」という新しいイベントも始めるなどして、岐阜製品のPRと「アパレル産地・岐阜」の
名を世界に発信する努力をしました。


平成7年・問屋街のようす

 平成3年の岐阜県内アパレル販売額は1兆円を超えピークを迎えました。そして平成5年から岐阜県と岐阜市、産業界の共同世界の学生の中からファッションデザイナーNO1を決定する「WFC岐阜国際学生ファッションコンテスト」を毎年実施するようになりました。平成10年には岐阜産地製品の中から一つの目的の沿った商品を集めたブランド「オリベスク」(岐阜婦人子供服工業組合)を立ち上げ、カタログ通販やインターネットなどで岐阜製品の販売やPRに努めました。
 平成7年問屋街の56社は、コストを抑え一層の利益を追求するため、生産拠点・縫製部門を韓国や台湾、中国等へ移転しました。  

9.平成12(2000)年〜 ……そして今、岐阜アパレルの現状と課題は?

 今まで、アパレルメーカーは地場産業として各工程の分業体制で、地域内一貫生産で歩んできました。しかし平成14年頃から衣類の国内製造が低迷する一方海外製品の輸入が増え、現在では国内で消費される衣料の80%以上が輸入品となりました。そのうちの58.8%が中国からで、近年ASEAN諸国での生産が増加してきました。
 また世界ビッグブランドとの競争も激しく、国内市場が縮小し海外市場の取込みが期待されつつも、ユニクロ以外の国内アパレルは海外では苦戦を強いられています。そして岐阜アパレルの事業所数、製造出荷額とも大幅に減少し、小規模な縫製工場は残っていても今や大量生産能力は残っていません。
 岐阜アパレルの今後の方向は、@ミセス(40〜50再代)〜ハイミセス(60歳代〜)向け製品を、A地方への地道な営業と問屋町メーカーが供給する商品「オリベスクブランド」の拡大・充実を、B岐阜縫製界の生産体制と「メイドイン岐阜」ブランドの再構築などが必要と思われます。 

○この文章は、下記の史料・文献などをもとに、後藤征夫がまとめました。
<参考文献>
・『岐阜市史・現代・通史編』
・『岐阜既製服産業発展史』
・『わかりやすい岐阜県史』

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