被害の大きかった岐阜空襲

○死者約900人、罹災者約10万人(当時の岐阜市人口は約15万  人)、全半壊家屋は全市の半数に及ぶ2万戸、70%以上の焼失  地域など、大きな被害を受けた岐阜空襲。…その状況や理由を  調べてみましょう。


1.米軍爆撃集団による本格的空襲の開始


ーB29の焼夷弾攻撃ー

 昭和19年(1944)7月〜9月のサイパンやグアム等マリアナ諸島の日本軍敗北、昭和20年(1945)3月の硫黄島陥落の後、米軍はここに飛行場と補給基地を作りました。そして日本本土空襲を本格化させました。日本本土爆撃のために米軍が開発したB29は、大型爆撃機でありながら航続距離が約4800kmもあり、マリアナの米軍基地から燃料と爆弾4〜5トンを積んで日本を直接爆撃して帰ることができたのです。
 その結果、中島飛行機製作所等の飛行機工場をせん滅する攻撃や大都市を攻撃目標とする空襲が激しくなりました。3月9日から10日にかけての東京大空襲をはじめ、11日の名古屋、13日の大阪、16日神戸、18日再度名古屋と大都市空襲が続きました。6月15日大阪空襲で「大都市焼夷弾攻撃」は終了しますが、5大都市面積の約半分、攻撃目標面積を上回る地域が焦土と化しました。
6月中旬から周辺・地方都市の空襲が開始され、岐阜県内では6月22日の各務原、26日の各務原・可児今渡・大垣で被害が確認されています。

 2.岐阜空襲の実際


 ー焼失地域ー 

 昭和20年(1945)7月9日、午後9時頃よりB29約120機が伊勢湾口・熊野灘より侵入し約40機が四日市付近を爆撃。ついで午後10時半頃から約70機が岐阜市付近を攻撃し、午前2時半頃南方へ退去したようです。
まず金華山と長良川という地形を目印にして岐阜市南部に焼夷弾を投下。続いて西部、北部、東部周辺を攻撃し、市民の逃げ道をなくして中央部を最後に攻撃しました。
 こうして7月9日の夜から翌朝にかけて、岐阜市は海の中となり、人も街も灰となりました。そして死者約900人、罹災者約10万人、全半壊家屋は約2万戸、焼失地域は70%を超える大きな被害を受けたのです。
              

<梅林国民学校(現梅林小学校)高等科2年・Hさんの日記>
 午後9時半頃警報発令、10時頃空襲。私は氷枕で寝ていたが飛び起きて身支度した。頭に水でぬらした手ぬぐいを巻いて待機していると空襲のサイレンが成り終わるか否や、B29が頭上を通過し照明弾を落としていった。十方真昼の如くたちまち県病院(現メディアコスモス)の近所が燃えだした。刻々とその火は類火し天は真紅に染まり敵機の爆音入り乱れて全くの戦場と化した。道路は人、人で苦しいくらい。防空壕で待避している人、遠近で呼び合う声……。もう近所は類焼してきて身に危険が迫りつつあるのに気がついて親子3人で避難しました。父は一人踏み止って防火に努めなければなりません。(略)

<美江寺周辺>


ー焼け落ちた市役所ー

この辺りは官庁街で、市役所(現美江寺公園)は内部をほぼ焼失、岐阜地方裁判所(現市役所)は全焼ました。市公会堂(現市民会館)は防火に成功し、翌朝から戦災本部となり市民の救済センターとなりました。岐阜県庁では泊まり込んでいた10人程の宿直員が、コンクリート屋根を突き破って落下した焼夷弾に対し、木桶の水をバケツリレーで運び消火。書類を少し焼いただけで消し止めました。岐阜県警察署(現岐阜中警察署)では留置人も消火活動に当たらせ、本館の類焼を食い止めました。美江寺観音は本堂が燃えました。


<本郷周辺>

 本郷小学校区では約2300軒が焼失し、岐阜市の死者のおよそ4分の1に当たる220人以上の犠牲者を出しました。校区だけでなく市中心部の多数の人たちが、この地域で犠牲になったからです。…忠節橋から早田へ、あるいは忠節橋下流の左岸堤防や川原へ逃げる人たちが集中しました。そこへ繰り返し焼夷弾が投下され、被害は増大したのです。…堤防の上では子どもや家族を呼ぶ悲痛な声、親を探し求める子ども達の泣き声が交じりました。熱さに耐えられず川に飛び込む者、川の中で直撃弾を受け水に浮かぶ者、川面に流失した油脂についた火が避難者の体にまといつくなど、生き地獄のようでした。

<岐阜駅周辺>


ー煙の残る岐阜駅ー

 岐阜駅周辺では一面焼け野原となりました。吉野町3丁目では住吉神社に10箇所あまりの防空壕を造っていましたが耐火性に乏しく、社務所東側の鉄筋コンクリート2階建ての倉庫を町内で借用し協同防空壕としていました。空襲が始まり西も東も真っ赤に燃え上がると、子どもは泣き叫び、「助けて」と泣き叫ぶ女性もいました。壕内に煙が入り込み壁面も熱くなり、結局「ここでは待てば待つほど危険」という結論に達し、約20世帯はいくつかのグループに分かれて線路沿いに東に逃げました。
   

 <柳ヶ瀬周辺>


ー廃墟の柳ヶ瀬ー

 市の中心部柳ヶ瀬の被害は周囲からの類焼によるものが大きく、比較的遅い時間に焼失しました。市の象徴的高層建築物だった丸物百貨店(現中日新聞)の炎上は明け方の4時頃、周囲の熱で発火。やがて各階の窓から火を吹き、朝になっても内部は燃え続けていました。地下と1階は近所の住民の避難所に解放し、各階には男子店員を待避させていましたが、全市が猛火に包まれ類焼の危険性が強まってきたため、避難者と共に全員屋外へ逃げました。翌朝になっても余熱のため店内に入れず、窓 ガラスは全てアメのように熔解していました。


 <水道山山麓、金華、長良>

 水道山山麓に当たる多賀町、藍川町、柳沢町、初音町は戦火から免れました。この地域は水道山の影になって焼夷弾の直撃が少なかったため住民の必死のバケツ消火で炎上を防ぐことができたのと、水道山がこの日の東風を封じていたため類焼の速度が遅かったことが考えられます。しかし火災が大きくなるにつれ、やがて瑞龍寺が燃え上がり、粕森神社辺りに焼夷弾が投下されると風向きが変わり南風となって…(略)水道山や権現山、工事途中の鶯谷トンネルには避難した市民で溢れ、更に岐阜公園から納涼台、長良橋へと避難する人で小熊町、白木町は大変混雑しました。岐阜公園は家財や避難者で一杯でした。長良では旧長良橋北詰の西側、すなわち高富街道の西が一帯が全焼しました。

<早田、島、又丸など>

 米軍は忠節橋を目標にし、川北への避難者で混雑するところへ焼夷弾を投下しました。木の枕木に火がついて燃え始めると、警戒していた軍人や一般市民が川からバケツリレーをし、消し止めることができました。島、早田、則武校区にも雨のような焼夷弾が降り注ぎ、早田では121戸が焼失、山吹町3丁目の用水の橋の下に大勢の避難者が逃げ込んだ所へ直撃弾が落ち、山吹町の母子3人と白山の方からの待避者2人が真っ黒に焼けて死にました。島では池の上、近島が旧北方街道ぞいに、萱場、北島、島田(7戸焼失、3人死亡)、東島(約40戸焼失)、菅生なども被害を受けました。菅生周辺の畑の中には無数の焼夷弾の空筒や不発弾が落下しており、不発弾による事故もしばしば起こりました。

<市民病院周辺>

 鹿島町の岐阜市民病院では空襲警報が発令されると、病院のすぐ西にある大防空壕に入院患者や重病人が次々と看護婦によって運び込まれました。間もなく頭上にB29の爆音が聞こえたと思うと、南隣にある岐阜高等女学校(現本荘中学)に焼夷弾が落ち火の手が上がりました。……空襲が一段落すると直撃弾を受け手足がちぎれた人や火傷で動けなくなった人、黒焦げの死体などが自転車やリヤカーで次々と運び込まれて来ました。…重病者が廊下に溢れ、すさまじいうめき声をあげ、苦しみ抜いて力尽き、その場で死んでいきました。

3.大きな被害になった理由は?

 一つ目に「防空体制の不備」があげられます。…当時は防空法により初期防空が義務づけられ、空襲時には一戸に一人は残留し防空活動に入るように指導されていました。しかし、その消火活動の大半がバケツで水や砂をまくとか火たたきによるもので、全市炎上を全く想定していませんでした。その上、「速やかに待避してその生命を護る」大切さを全く無視したものだったのです。

 二つ目に「防空壕への過信」があげられます。…岐阜空襲では、防空壕内での死者が多くありました。焼夷弾の直撃や大火災によって起きた熱風を防ぐことができず、焼死、窒息死、壕が崩れたために起きた圧死などの状態で遺体が発見されました。やはり「防空壕を過信せず速やかに逃げる」ことが大事だったようです。
 更に三つ目に考えられる事は、「疎開の不十分さ」の問題です。市内中心部には建物疎開が行われた地域(現長良橋通りや若宮町通り)があります。しかし、多くの都市で行われた学童疎開は行われませんでした。もし行われていれば、子どもの犠牲は確実に減らすことができたと思われます。
 最後に「米軍の周到な計画と作戦の正確さ」も見逃すわけにいきません。米軍は空襲予定都市の航空写真の撮影・地図作成・事前の偵察を行い、正確に爆撃目標をつかんで攻撃しました。岐阜空襲の場合も、岐阜市周辺や本郷・梅林地域の工場群や長良橋や忠節橋、学校など主要な建物が黒く塗りつぶされ、目標として明示されていました。
 また米軍はこの夜、まず四日市を先攻することで市民の注意をそらせてから岐阜市を襲ったため、就寝準備中を襲われることになり、岐阜市民は十分な待避時間もなく、焼夷弾の降り注ぐ中を逃げまどったのでした。
 しかし最も重要な点は、いつまでも降伏せず人命を軽んじ、『戦争遂行・本土決戦』体制を続けたことではないかと思われます。

<参考文献>
・『岐阜空襲誌ー岐阜・各務原。大垣熱き日の記録ー』岐阜空襲を記録する会編集 1978年
・『岐阜も「戦場」だったー岐阜県各地の空襲ー』岐阜市平和資料室友の会、岐阜県歴史教育者協 議会 2015年
・『岐阜市史 通史編 近代』岐阜市 1981年・

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