「ふるさと岐阜の歴史をさぐる」No.36
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中国人殉難者之碑 | 中日両国人民世世代代友好下去 | 岐阜・杭州友好盟約記念碑 |
岐阜公園北の日中友好庭園には、満蒙開拓青少年義勇軍の石碑の他にも、「中国人殉難者之碑」「岐阜・杭州友好盟約記念碑」そして「中日両国人民世世代代友好下去」と書かれた記念碑があります。
「中国人殉難者之碑」には、太平洋戦争末期に約1700人の中国人が岐阜県内の建設工事に従事し、死亡した73人(註1)の氏名などが書かれています。
「岐阜・杭州友好盟約記念碑」は、昭和51(1976)年3月岐阜・杭州友好都市推進協議会が設立され、市民・各界の寄付を集めて建てられたものです。
「中日両国人民世世代代友好下去」は、昭和37(1962)年9月、杭州・王子達市長と岐阜・松尾吾策市長との間で碑文が交換されたことを記念して建立されたものです。これは、日本国と中華人民共和国の間で「日中国交正常化交渉」が行われた昭和47(1972)年より10年も前に、日中友好の動きがあったことを示しています。
このような動き・史実を、もう少し詳しく調べてみたいと思いました。
戦争中、徴兵によって不足した男子労働力を補うため、多くの朝鮮人・中国人・「連合国軍捕虜」などが鉱山や軍需工場・地下工場・基地などで使役させられました。これらの人々の多くは、「官斡旋」や自分の意思によらない「徴用」さらには強制的な連行によって現場に送られ働かされた人達でした。
抜 粋
「日本労働年鑑・特集版・太平洋戦争下の労働運動→抑留中国人・朝鮮人労働者」
「労務動員計画」(後に「国民動員計画)によって、はじめは「募集」の形式で、次いで「官斡旋」の割り当てで、最後は徴用令を直接適用して、いずれも強権的に日本に連行された朝鮮人の数は政府統計で確認されたものだけでも1939年から終戦までの合計で724787人に上っている。この他に軍人・軍属として各地に連行された者364186人があり、また朝鮮内で動員された者は400万人を越えていた。日本に強制連行された朝鮮人労働者のうち死亡または行方不明の数は60400人、これに軍人・軍属の死亡または行方不明者15万人を加えると20万人をこえている。
中国人に対しても、日本の占領地「満州国」において早くから毎年100万人以上の青年が「行政供出」や「勤労奉公」の名で強制動員され、また日本軍などの手で華北から大量の農民などが「満州国」に連行されたり軍要員として使われたりしていた。1942年には中国人労働者を集団的に「内地移入」することを東条内閣は閣議決定し、これにもとづいて、組織的に「中国人狩り」が行われ、大量の一般住民が「俘虜」として収容所に拉致され、貨物船で日本に強制連行されて各地の工場・事業所に引き渡された。収容所から日本に向け出発した数は4万人をこしたが、乗船して連行された人員は169回、計38939人、うち死亡者6872人、行方不明30人に上った。
ー法政大学大原社会問題研究所
httm://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-027.html-
よりー
1910(明治43) 韓国併合以後 |
朝鮮人の日本への出稼ぎが始まる |
1939(昭和14) 各民間企業の 「募集」 |
・実際は憲兵・警察・御用商人が一体となっての強制や半強制の「募集」「官斡旋」であった。トラックで村に乗り付け、手当たり次第青年を捕まえる「兎狩り」も平然と行われた。 ・「自主的」応募の場合も、「約束が違う」というので逃走すると連れ戻されたり、契約期間が終わっても拘束されたりした。 |
1942(昭和17) 朝鮮総督府の 「官斡旋」 |
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1944(昭和19) 朝鮮人の 徴用・徴兵 |
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1945(昭和20)在日朝鮮人の総数は二百数十万人にも達した。朝鮮人の強制連行者数は1944年の帝国議会説明資料では約72万人。1991年韓国側の朝鮮経済統計要覧では約113万人となっている。 | |
中国人の強制連行 | |
・朝鮮人の連行によっても国内の労働力不足は解決せず、1943(昭和18)4月から中国人の連行が始まった。 ・前線の日本軍はゲリラのいると思われる村々を襲撃。働けそうな者は収容所や人体実験施設に送った。 ・華北の占領地では強制的な「募集」を積極的に行い、捕まった人々は、捕虜や囚人とともにいったん収容 所に集められた。 | |
・敗戦直後、内部資料として外務省が作成した「報告書」では、日本に連行された中国人は38935人。 ・死亡者6830人(連行船の中で564人、上陸後事業所に着くまでに248人、135箇所の事業所で5999人、送還時 に19人)→1946年春までに31917人を集団送還した。 |
ー「街も村も戦場だったー岐阜県の戦争遺跡ー」(岐阜県歴史教育者協議会)より作成ー
岐阜県では、昭和14(1939)年に始まった木曽川の丸山ダムと兼山ダムの建設に朝鮮人数百名が動員されたのが、こうした強制的労働の始まりでした。
戦争末期、空襲が激しくなると、愛知県の軍需工場を岐阜県に疎開させるため、多くの地下工場が造成されました。その跡地が可児市久々利、各務原市鵜沼大安寺、川辺町西栃井などに残っていますが、その建設労働力の多くは連行された朝鮮人や中国人でした。
昭和16(1941)年、陸軍省は米軍機との戦闘に必要な高高度用航空機エンジンの研究実験施設を新設するため、平湯峠から乗鞍畳平までの軍用自動車道路を造りましたが、労務者のほとんどが連行された朝鮮人約200名でした。
昭和18(1943)年5月から翌年の7月には、戦時輸送力の増強と石炭節約を目的として、勾配が急な国鉄東海道線・大垣から関ヶ原間に迂回線13.6キロメートルが突貫工事で新設されましたが、その労務者の75%(一日約1000人)が朝鮮人でした。
日本有数の鉛・亜鉛(武器・弾薬の原料としても重要)の産地でもあった神岡鉱山と同鉱山の発電所工事には、1000人以上(敗戦時には1600人)の朝鮮人と連合国軍捕虜(フィリピン・米・英・オランダ・インドネシアの約1200人)が労働に従事させられました。
このように、岐阜県で戦時強制労働に従事した朝鮮人は、100人以上の「集団地」は、県内に少なくとも26箇所約8500人にのぼったそうです。
中国人の強制連行・労働については、日中友好庭園の「中国人殉難者之碑」には、「岐阜県においても1689人が高山市、瑞浪市、各務原市、および加茂郡川辺町で従事せられ、73人が殉難されております。」と書かれています。しかし上の表のように、「連行人数1969人、死亡者122人…」などの記録もあり、正確な数は今も不明の状態です。
岐阜県内の中国人強制連行殉難者 | |||||
所在地 | 施設・目的 | 連行人数 | 死亡 | 生還 | 残留 |
瑞浪市戸狩 | 川崎航空機地下工場 | 330人 | 39人 | 291人 | ?人 |
川辺町 | 三菱第五製作所地下工場 | 270人 | 4人 | 266人 | 0人 |
各務原市須衛 | 飛行機誘導路、掩体壕 | 374人 | 3人 | 366人 | 5人 |
各務原市苧ヶ瀬 | 飛行機誘導路 | 513人 | 23人 | 487人 | 3人 |
高山市北山 | 横須賀鎮海鈴鹿工廠 | 202人 | 3人 | 196人 | 3人 |
不明(八百津) | 川崎航空機地下工場 | 280人 | 50人 | 230人 | 0人 |
合 計 | 1969人 | 122人 | 1836人 | 11人 | |
「街も村も戦場だった・岐阜県の戦争遺跡」(岐阜県歴史教育者協議会)より |
各務原には877人の中国人が連行され、各務苧ヶ瀬、須衛の両所で、飛行機を隠すための誘導路や掩体壕の建設に使役させられました。終戦時までに26名が死亡したそうです。
瑞浪・戸狩の化石山に掘られた地下壕は縦654m、横310m、高さ3.5mほどのトンネルの総延長は7628m。目的は川崎航空機工場建設でしたが、「日本人が発破、朝鮮人数千人が五人一組で発破の穴掘りと岩石の運び出し、中国人330人が最後の運び出し」で作業がされました。中国人にはパンを一日三個与えられるだけで過労や事故のため39人が死亡したそうです。
このように、強制連行・労働を強いられた人々は「不衛生な環境・激しい労働と暴行・粗末な食事と栄養不足・病気と栄養失調」などに苦しみ、本当に多くの人が亡くなりました。
そして終戦後の昭和20(1945)年、生き残った中国人労務者達は各務原の元航空隊兵舎に集められた後、11月以降数回に分かれて鉄道で佐世保に送られ、海路帰国したのです。
戦後8年以上過ぎた昭和28(1953)年でも、中国などの大陸から未だ帰国していない人(未引揚者)は約1030人ほどもいました。特に「残留日本人」と言われた人々も多かったようです。
当時の日本は中国と国交がない状態でしたが、昭和28(1953)年2月、政府に代わって日本赤十字・日中友好協会・日本平和連絡委員会と中国紅十字会の間で、残留日本人の帰国交渉が始まりました。
交渉の中で、中国紅十字会は、戦時中強制的に連行され日本各地で死亡した中国人殉難者の調査・遺骨の返還を要請しました。協議の結果「中国は残留日本人の帰国を援助し、在日華僑を受け入れる。日本は中国人殉難者の調査と遺骨を送還すること」で合意しました。
こうして昭和28(1953)年3月22日から、興安丸など3隻の引き揚げ船が残留日本人と在日華僑を乗せ、両国を往復するようになりました。
昭和29(1954)年には、中国紅十字会の要請を受けて、全国各地で遺骨発掘が始まりました。 岐阜県でも、昭和30(1955)年12月「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」(会長・松尾国松元岐阜市長)が結成されました。
松尾氏は戦前から戦後の公選制が導入されるまで、6期22年間、岐阜市長を務めました。戦前の市町村長は議会の推薦により旧内務省が認可。住民の選挙で決まる今のような制度ではありませんでしたが、松尾氏は庶民的で市民の信望あつい政治家でした。
戦時中、松尾氏は市長の役目として出征兵士を励まし見送りました。その中に中国で戦死した息子もいました。「遺骨が戻るまでは死を受け入れることはできない」と、中国人殉難者の遺族の心情を自らの体験に重ね合わせ、実行委員会会長を引き受けました。
その頃、松尾氏は80歳を超えていましたが、戦犯釈放岐阜県世話会や岐阜県平和協議会の会長も務めていました。実行委員は仏教会、労働組合、連合婦人会、法曹界、華僑総会、青年団体協議会などの代表、瑞浪市、高山市、鵜沼町(現在の各務原市)、加茂郡川辺町の首長など、社会的地位のある人たちでした。それを高い見識とリーダーシップでたばね、遺骨送還を県民運動にできる人は、松尾氏をおいてほかにいませんでした。
ー「ナツメの木は生きている」(岐阜県日本中国友好協会発行)よりー
昭和31(1956)年5月、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会は、、日中友好協会全国本部岐阜支部の調査記録を基に各務原市、瑞浪市などの埋葬地から中国人殉難者の遺骨を発掘し、現地に慰霊柱を立てて弔いました。そして6月、岐阜東別院で犠牲者72柱(註2)の合同慰霊祭を営みました。
合同慰霊祭には実行委員会委員らのほか、来日していた中国の伝統劇・京劇の代表団一行も参列。孫平化副団長らが霊前に花輪をささげました。
そして8月下旬実行委員会の遺骨送還代表団5人は第六次興安丸で中国へ行き、72人(註2)の遺骨、位牌を天津の抗日烈士の墓に安置しました。中国での式典や歓迎会は全て上席で、北京でも温かいもてなしを受けたそうです。
11月になると、中国人民外交学会から遺骨送還の感謝とお礼に、岐阜県の各界代表団20人を招くという通知が届きました。年明け早々に松尾国松元市長を団長に、山田丈夫岐阜新聞(当時岐阜タイムス)元社長を副団長とする岐阜県産業文化使節団が編成されました。
岐阜県産業文化使節団は、 昭和32(1957)年2月21日国鉄岐阜駅を大勢の見送りを受けて出発。
当日、松尾団長は健康を理由に訪中を辞退しました。そこで副団長の山田丈夫元岐阜新聞社長が急きょ団長になり、22日深夜、インド航空機で羽田空港を飛び立ちました。
一行は香港経由で中国に入り、北京に向かいました。
北京に着いた一行は1ヶ月余り中国内に滞在し、瀋陽、上海、杭州、広州など各地を訪れ、裁判所。紡績工場、学校、新聞・放送局などを視察しました。
団長の山田丈夫元岐阜新聞社長は、北京放送にも出演し「面目を捨てて建国に捧げる姿に尊敬の念と同時に日本と中国の友好の大切さを痛感した。歴史を見ても仲の悪かったのはほんの短い間。仲の良かった二千余年を考えると、思想や生活が違っても友好の妨げにはならない。互恵の精神に立った経済交流を通じ、国民一人一人が結びつくことが必要だ」と中国の人達に呼びかけました。
同使節団は昭和32(1957)3月末に帰国しました。その年の暮れ、今度は中国紅十字代表団が遺骨送還のお礼に来日、岐阜に立ち寄りました。そして各務原市内の薬王院で、中国人殉難者の慰霊祭に出席。日中経済交流促進懇談会も行われました。
岐阜・杭州両市の友好都市提携までの歴史 | |
昭和30年 (1955) |
岐阜県「中国人殉難者慰霊実行委員会」(会長・松尾国松元岐阜市長)が組織され、県内で遺骨返還運動が始まる。 |
昭和31年6月 (1956) |
岐阜東別院で犠牲者72人の合同慰霊祭。遺骨は訪中団の手で中国へ送還。 |
昭和31年11月 (1956) |
中国人民外交学会から「遺骨送還の感謝とお礼に、岐阜県代表団20人を招く」との通知。 |
昭和32年2月 (1957) |
中国人民外交学会の招きで岐阜県産業文化使節団が訪中。 |
昭和37年9月 (1962) |
訪中団は杭州市に立ち寄り、王子達市長と会見。王子達杭州市長と松尾吾策岐阜市長との間で碑文の交換。 |
昭和38年6月(1963) | 杭州市長からの碑文「中日両国人民世世代代友好下去」の碑が岐阜公園に建立。 |
昭和38年12月(1963) | 岐阜市長からの碑文「日中不再戦」の碑は杭州市柳浪聞鶯公園に建立された。 |
昭和46年7月(1971) | 岐阜市議会「日中国交促進に関する決議」を採択。 |
昭和47年9月(1972) | 6月「中国人殉難者の碑」建立。 9月、日中国交正常化交渉が行われた。 |
昭和50年11月(1975) | 市民の間で「岐阜・杭州友好都市推進協議会」が結成された。 |
昭和53年4月(1978) | 岐阜市友好訪中団(団長・蒔田市長ら49人)を派遣 |
昭和54年1月(1979) | 岐阜・杭州友好都市提携先遣団(団長・戸本助役ら6人)を派遣 |
昭和54年2月(1979) | 杭州市友好使節団(団長・周峰市革命委員会副主任ら16人)を岐阜市に迎え、友好都市提携の調印を交わす。 |
ー「岐阜市史」などをもとに作成ー |
昭和32(1957)年の訪中から5年後の昭和37(1962)年、山田社長を団長とする「第二次県訪中施設団」(7人)の訪中が実現しました。
山田氏は、かつて日本が中国に兵を進め戦場にしたことへの反省と償いを口にしました。「岐阜の68(旧陸軍歩兵第六八連隊)は上海上陸作戦、南京攻略戦などに参加した。68も大勢死傷者を出したが、相手はそれ以上だ。戦争だからしょうがないと片付けられるものではない」…「もう二度と戦争はしないという誓いの碑を中国にたてられないものか、今度の訪問で尋ねてみようと考えている。」
ー「ナツメの木は生きている」(岐阜県日本中国友好協会発行)よりー
山田団長は、この訪中を機に、杭州市に「日中不再戦の碑」を建立することを松尾吾策市長に提案。父親国松翁の遺志を継いだ松尾市長が賛同し「日中不再戦」と碑文を揮毫(きごう)しました。
そして使節団は昭和37(1952)年9月26日、羽田空港を出発。中国人民外交学会と協議しましたが、「なぜ平和と友好の碑を建てるのか」が議論されました。使節団は「先の日中戦争を謝罪し、悲惨な歴史を繰り返さない意思表明」と説明。相手の中国側は「日中戦争は日本の軍国主義者が引き起こし、両国民はともに犠牲者」との考えを表明されました。
その結果、「○岐阜市と各界と松尾吾策市長の提案で、侵略戦争に反対する碑を建てる。○侵略戦争は日本の軍国主義者が起こし、日中両国民に災いをもたらした。○両国民は友好を続け、アジア・世界の平和を守る。」などを両方の碑の裏に刻むことになりました。
10月8日使節団が汽車で杭州市に到着すると、多くの市民の歓迎を受けました。翌日人民大会堂で「侵略戦争反対記念碑文交換式」が行われました。
最初に挨拶に立った王市長は「平和と友好の碑を建てようという岐阜市民の提案を歓迎します。」と述べた後、「日本の軍国主義が中国を侵略、多くの人民が犠牲となった歴史を繰り返してはなりません。日本人民も軍国主義の被害者です。記念碑の建立は中日両国人民、両市民の友情を深め、アジアの安定と世界の平和に役立ちます。」と語りました。
次に山田団長が登壇すると割れんばかりの拍手がおき、こう挨拶しました。
「上海から杭州一帯は日中戦争の戦場となり、岐阜県出身将兵も戦闘に加わり住民を巻き込みました。私たちはこの事に心を痛めています。その反省として1954年から岐阜県で亡くなった中国人労働者の遺骨を収集し、多くの人の賛同を得て遺族のもとに送り帰すことができました。私たちはこれからも戦争に反対し、日中両国民の友好が深まるよう、努力していきます。碑を建てることは両国民、両市民の願いに叶います。」
山田団長は松尾吾策市長に代わって王市長と碑文を交換しました。「日中不再戦」「中日両国人民世世代代友好下去」、市民同士が交わした不戦と友好の誓いです。
ー「ナツメの木は生きている」(岐阜県日本中国友好協会発行)よりー
日本と中国の友好と平和を誓い合った二つの石碑は、それぞれ昭和38(1963)年に建立され、岐阜公園の碑は6月2日に、杭州市柳浪聞鶯公園の碑は12月15日に、除幕式が行われました。
岐阜公園の「中日両国人民世世代代友好下去」の碑の除幕式には、中国から6人と県訪中使節団の一行ら関係者約200人が出席。松尾吾策市長が除幕しました。
杭州市柳浪聞鶯公園の「日中不再戦」の碑の除幕式には、当時の蒔田交通部長や北田土木部長が出席。杭州市民800人が見守る中、王子達杭州市長と北田土木部長が除幕しました。柳浪聞鶯公園は別名「子供の公園」と言われ、次世代に戦争を語り伝え平和の尊さを教えるため、日中不再戦の碑の建立場所に選ばれたそうです。
この両市の動きは、都市間外交の先駆をなすものとして、国内外の注目を集めました。
戦後26年目を迎えた昭和46(1971)年は、未だ日本と中国の国交がない状態で、10年以上にわたって進められた日中友好交流を更に発展させるためには日中国交回復が必要でした。そこで岐阜市議会は「日中国交回復促進に関する決議」を議決し政府に提出しました。そして翌年の昭和47(1972)年9月「日中国交正常化」が実現しました。
国交回復後の昭和50(1975)年5月、岐阜県友好訪中団(団長・平野三郎知事)が北京・杭州・上海を歴訪した際、同行した上松陽助岐阜市長は、「日中不再戦」の碑前で王子達杭州市長と握手し、友好都市提携の誓いを新たにしました。
これを機に、昭和50(1975)年11月、市民の間で「岐阜・杭州友好都市推進協議会」が結成され、昭和53(1978)年4月に岐阜市友好訪中団(団長・蒔田浩市長等49人)が、次いで54(1979)年1月には岐阜・杭州友好都市提携先遣団(団長・戸本貢市助役ら6人)が派遣されるなど、両市提携に向けて動きが活発化しました。こうして、54(1979)年2月21日、杭州市友好使節団(団長・周峰市革命委員会副主任ら16人)を岐阜市に迎え、両市の友好都市提携の調印を見るに至ったのです。
昭和54(1979)年2月岐阜市・杭州市友好都市提携の後は、益々各分野で活発な交流が始まりました。
経済交流としては、農業・ホテル・看護・服装産業・コンクリート製造・テレビ・新聞などの各分野で、杭州市技術研修生を受け入れました。また昭和コンクリート工業(株)と杭州市との合弁ホテル「杭州友好飯店」が開業(中国と日本の合弁ホテル第一号)。さらに平成16(2004)年からは「中国国際シルク博・女装展」、「中国杭州世界レジャー博覧会」「2006杭州ネット商品交易会」などにアパレル製品などを出展しました。
文化芸術交流としては、西?印社役員と岐阜県書作家協会の書道交流、両市の文化芸術団体による相互訪問などが何回も行われました。昭和54(1979)年からの33年間で、延べ2374人が訪中し、延べ430人が訪日、公演の観客数は延べ25000人に及びました。
「西湖マラソン」には、岐阜市から延べ1242人が参加しました(18年間)。その他ソフトボール・卓球・バスケット・武術太極拳・体操など、杭州市のスポーツ団体との交流なども盛んに行われました。
また「友好校交流」として、安吉路実験学校と長良東小学校、学軍小学校と本荘小学校、学軍中学校と本荘中学校、杭州市旅游職業学校と岐阜市立岐阜商業高校、浙江大学薬学部と岐阜薬科大学が友好校提携を結んで、相互に交流を図っています。更に「青少年交流」として杭州市派遣・受け入れ事業を行い、多くの青少年が交流
しました。
平成5(1993)年からは岐阜市民病院と杭州市第一人民医院が友好病院協定を結び、毎年学術交流のため相互訪問しています。
このように、岐阜市と杭州市は、行政だけでなく各分野の民間レベルでも活発な交流を展開しています。
戦後70年も過ぎた今、改めて、先の戦争がもたらした歴史の事実を刻み込みながら『日中不再戦』の碑文を交換する等、日本と中国の交流の先駆けとなった先人達の熱い思いに学びたいと思います。
そして一層、信頼相互理解と信頼の絆を深めることができるように努めたいと願うばかりです。
○この文章は、書きの文献を参考に後藤征夫がまとめました。 <註1と註2について> ・(註1)1Pの中国人殉難者之碑の「殉難者73人」は、昭和47(1972)年段階で、「生死を確認できないとされた1人は十数年を経ても生存が確認できなかった」ため、「殉難者は73人」とカウントされたようです。 ・(註2)4Pの合同慰霊祭・遺骨送還における「72人の遺骨・位牌」は、昭和31(1956)年に発掘された遺骨の実数です。瑞浪事業所で遺体検視した医師の自宅からは40通の死亡診断書が見つかり、会社側の資料では「診断書に死亡とある1人の遺骨は、(20年頃?)同胞が中国へ持ち帰った」となっていました。そのため「生死を確認できない。さらなる調査が必要」として、死亡者として取り扱わなかったとのことです。 <参考文献> ・「岐阜県史・通史編・続・現代」(岐阜県発行・平成15年3月31日) ・「岐阜市史・通史編・現代」(岐阜市発行・昭和56年11月30日) ・「岐阜市史・史料編・現代」(岐阜市発行・昭和55年3月31日) ・「各務原市民の戦争記録」(各務原市教育委員会発行・平成11年3月15日) ・「垂井町史」(垂井町) ・「日本労働年鑑・特集版・太平洋戦争下の労働運動→抑留中国人・朝鮮人労働者」 (法政大学大原社会問題研究所-httm://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-027.html-) ・「朝鮮人強制連行調査の記録・中部東海編」(柏書房・朝鮮人強制連行真相調査団編著) ・「街も村も”戦場”だった・岐阜県の戦争遺跡」(岐阜県歴史教育協議会・1975年7月発行) ・「岐阜・杭州市友好の歩み」(岐阜新聞社) ・「ナツメの木は生きているー日中友好のかけ橋となった人たち」 (土屋康雄・岐阜県日本中国友好協会・2013年9月29日発行) ・「岐阜市・杭州市・永遠の友好いま第一歩」(朝日新聞・1979年2月22日・岐阜版記事) ・「日中国交正常化40周年、日中不再戦碑文交換50周年、記念式典」(平成24年8月17日資料) ・「岐阜市・杭州市、友好提携の始まり」(酒井寛・レポート) <協力者> ・加納正子さん(元岐阜市国際課長・現国際交流アドバイザー) ・土屋康夫さん(現岐阜県日中友好協会理事長) |