戦時下の学校と子供達

− 戦争に協力した学校・地域の下で −

はじめに

「勝って来るぞと勇ましく、誓って故郷を出たからは、手柄たてずに死なりょうか、進軍ラッパ聴く たびに、 まぶたに浮かぶ旗の波」←「露営のうた」・昭和13年(1938)
「見よ東海の空あけて、旭日高く輝けば、…、…」←「愛国行進曲」・昭和12年(1937)
「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ」←「海ゆかば」・昭和 12年(1937)

「よう覚えておるやろう。」と自慢された後、「これらの歌は学校でも教わったし、その後も何回も何回も歌ったな。それで完全に身についてしまったんや。」「俺等は軍国少年やったからな。」と苦笑いをされた昭和9年生まれのKさん。
 昭和10年生まれのYさんも、「私はまだ5歳だったけど、紀元二千六百年の歌はよく覚えていますよ。」と言って「金し輝く日本の、栄えある光身にうけて、今こそ祝えこの朝、紀元は二千六百年、ああ一億の胸はなる…」と歌って下さいました。
 70年以上過ぎた今でも、何曲でも難解な歌詞もすらすらと口に出して歌われるお二人に驚きました。

1.日中戦争が始まる
 ー 戦争とのつながりを深める学校(昭和12年〜14年頃)

 昭和12年(1937)日中戦争開始と共に軍国主義体制が益々強められ、国民生活も急激に戦時色に包まれていきました。戦場で消費される膨大な物資を途絶えることなく供給するため、政府は国民に対して「質素倹約」を訴えました。また「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」のスローガンを掲げて日本精神の昂揚を図る「国民精神総動員実施要項」を定めました。


ー武運長久を祈る小学生たちー

 各学校の朝会では神宮遥拝・宮城遥拝(皇居に向かって敬礼すること)を行う事と、登下校時には奉安殿奉拝(奉安殿の中には御真影・天皇皇后の写真と教育勅語が納められており敬礼する事)が推奨されました。また、「忠君愛国の熱情」「皇室尊崇の念」を深め、「武道精神の訓育」などの実践が叫ばれたりするようになりました。
 一方、「自由主義思想による反国家的言動をする者を排除せよ」という働きかけが強まり、大正以来の「生徒の自主性を尊ぶ」ような従来の教育のあり方が批判されるようになりました。



ーどの学校にも造られていた奉安殿ー

  更に国民思想統一のため、政府が準国歌として歌を公募・選定した「愛国行進曲」「兵隊さんよありがとう」などは盛んにラジオで流され、学校でも教えられました。それらは「日本は皇国。天皇が治められる我が日本は世界の中で一番立派な国です。」「お国のために戦っている兵隊さんありがとう。」「私たち臣民も頑張ります」等の内容が歌詞に入ったものでした。



ー無言の戦死者の帰還(金華橋通り)ー

  中国との全面的な戦争に拡大する中、岐阜駅における 出征兵士の見送りや傷病兵や遺骨の出迎えなどが盛んになり、学校の児童生徒も動員されるようになりました。 また戦地への慰問文を書くことや女学生による千人針作りが行われました。そして、大場鎮陥落や南京陥落など戦勝祝賀の旗行列・提灯行列などは、必ず児童生徒の参加行事として位置付けられました。

 昭和14年度における梅林小学校の実施回数
 ・出征兵士の見送り・遺骨などの出迎え 16回 
 ・防空演習 16回 
 ・武道講習会 7回 
ー梅林小学校学校日誌よりー

    「 奉安殿奉拝や出征兵士の見送りなど」    (昭和4年生まれのTさんの話)
 奉安殿は全ての公立学校に必ず置かれていて、いつも「奉安殿前を通る時は正対して最敬礼をせよ。」と、私たち児童は厳しく言われていました。特に精神教育の厳しい学校では、教師が現場で「やり直し!」等と注意し、その指導を徹底させました。奉安殿の中のご真影と教育勅語は、四大節(元日・天長節・明治節・紀元節)にのみ持ち出されて式場に掲げ、校長が勅語を朗読しました。
 出征兵士を送るときは、小学校3年生以上と校区の在郷軍人会、国防婦人会、青年団、消防団などが運動場に集まり、村長主催の「壮行会」を行った後、日の丸手旗を振り、軍歌を歌いながら村境まで隊列を組んで出征兵士を見送りました。駅が近い所は、駅までの壮行行列でした。戦死者帰還の時も、出征兵士を送る時と同じ人達が喪章をつけて村境まで出向き、行列をお迎えし、運動場で簡単な告別式をしました。


 日本軍が首都・南京を攻め落としたすぐ後に起きたのが「南京事件」です。日本軍は南京の一般市民や中国兵捕虜など数万人もの中国の人達を殺したのです。日本国民は「やっぱり日本軍は強かった」と喜び、軍部もすっかり調子に乗り中国を降伏させようと戦争を拡げました。しかし、中国軍は国土の広さを利用した巧みな戦い方で、日中戦争をドロ沼状態にしてしまいました。

 戦争が長引くことを悟った日本政府は、国家総動員法や米穀配給統制法等を出すなどして、ますます国民に耐乏生活を強いるようになりました。しかし、食料品や衣料品などは物資不足で十分な配給はできず、闇(配給されない物をこっそり売り買いすること)や買い溜めなどが横行するようになりました。


2.「日本を中心にした大東亜共栄圏を」
          =日独伊三国同盟締結(昭和15年)


ー軍隊さながらの行進(長森北小)ー

中国との戦いが続く中、昭和15年(1940)9月に日本は「日独伊三国軍事同盟」を結びました。これは「ドイツ、イタリアはヨーロッパを自分の勢力圏に。日本は東アジアを。」という協定でもありました。当時、東南アジアの国々の多くは、イギリス、フランス、オランダ、アメリカなどの植民地でした。ヨーロッパで戦争が始まると、イギリスやフランスなどはドイツ・イタリアとの戦争に集中。…日本は「このチャンスに東南アジアに進出し、イギリスやフランスなどを追い出し大東亜共栄圏を作ろう」としました。


 昭和15年(1940)6月、日本軍はフランスの植民地だった北部仏印(ベトナム、ラオス、カンボジアの北部)に軍隊を進め、その地域を通って行われるイギリス等の中国軍への武器援助を止めようとしました。


ー大東亜共栄圏の授業(長良国民学校)ー

 学校も「日本はアメリカやヨーロッパの植民地支配に苦しんでいる東南アジアの多くの国を解放して、独立させる。日本を中心にアジアの国々が力を合わせ、アジア全体を発展させていくのだ」「だから日本がしている戦争は正義の戦争である」と子供達に教えました。
 また、「日本を愛し天皇を敬いなさい」「早く大人になって、天皇陛下に忠誠を尽くしなさい。」「いざという時は天皇陛下のために戦って、名誉の戦死を遂げなさい」と教えました。


 昭和15年(1940)には「紀元二千六百年記念行事」(式典や各神社の祭り、展覧会、体育大会など)が全国各地で盛大に行われました。これは「神武天皇の即位2600年目に当たる」として、日本政府が「日本が長い歴史を持つ偉大な国である」ことを内外に示そうとして計画したのです。しかし、日中戦争の長期化と物資統制による国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとするものでもありました。
 この時作られたのが行進曲風の唱歌「紀元二千六百年の歌」で、ラジオから繰り返し流される中で「神国・日本」「我が国は長い歴史を持つ素晴らしい国・皇国だ」と、国民の多くは喜びました。


     「その頃の日本人の意識は?」    (昭和9年生まれのKさんの話)
 私たちは、「日本 良い国強い国、世界に一つの神の国、…日本 良い国強い国、世界に輝く偉い国「日本は天皇が治められる世界一の素晴らしい国」「そんな国に生まれたことを感謝し、忠義を尽くし、親には孝行し、一億国民は心を一つにしないといけない」と教えられました。
 そして朝鮮や中国などアジアの国々については、日本より劣る国という見方・意識が強く、国民の殆どが差別意識を持っていたように思います。中国のことも「支那」と言ってたし、アメリカやイギリスなどに対しては「鬼・ケダモノ」「鬼畜米英」と言っていましたね。だけどドイツやイタリアは「良い者」と思って「三国同盟バンザイ!」「大東亜共栄圏の建設を!」「正しき平和うち建てん!」と喜んでいたんですね。
 上からの言葉や思想、そして軍歌・唱歌や標語、教師や教科書などの言葉が、子供や大人、そして国民の頭を、そのまま支配してしまっていたように思います。


 この頃次第に中国と北部仏印(ベトナム、ラオス、カンボジアの北部)の戦場では犠牲者が増え、更に多くの出征兵士を戦地へ送らなければならなくなりました。そこで、召集令状によって20歳から40歳の男子に「軍隊へ入れ」という命令を出し、戦地へ送りました。するとますます工場労働者や農村の働き手が少なくなり、生活用品や食料品なども消えていきました。

3.「われら少国民」小学校は国民学校に。(昭和16年)

日中戦争の長期化と戦線の拡大は学校・地域社会に大きく影響し、国民学校制度下における戦時
体制は一層強化され、「1.銃後の守り」「2.戦意の昂揚」「3.体力増進心身鍛練」「4.食糧増産」「5.資源回収」の実践が強く求められました。

学校における実践例 
 1.銃後の守り
   出征軍人の歓送、遺家族の慰問、出征軍人の武運長久祈願、
   戦死者の市葬・慰霊祭に参列、防空訓練等
 2.戦意の昂揚
   精神作興大会、模型飛行機競技会、戦勝祝賀の旗・提灯行列など
 3.体力増進心身鍛練
   体操大会健足運動、寒稽古、静座行、体操大会など
 4.食糧増産
   学校農園開墾作業、勤労作業、苗代田害虫駆除など
 5.資源回収
   古金物蒐集など

ー「岐阜県史」より作成ー

 昭和16年(1941)3月国民学校令が公布され、小学校が国民学校となりました。国民学校とは「皇国ノ道ニ則リテ…」「教育ニ関するスル勅語ノ旨…」など、国家主義的色彩を強めていました。
 その教育課程は、初等科6年・高等科2年として義務教育年限を8年に延長し、教科を結合して国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体練科(武道・体操)、芸能科(音楽・習字など)とし、高等科はこれに実業科(農業・工業など)を加えました。

<その頃の学校制度>
国民学校は義務教育、中等教育以上はすべては年齢関係なしの「複線」
○国民学校・初等科(義務教育)→1年生(6歳)から6年生(12歳)
○国民学校・高等科(義務教育)→1年生(13歳)から2年生(14歳)
○中等学校(男) →1年生(13歳)から5年生(17歳)
○高等女学校(女)→1年生(13歳)から5年生(17歳)
○その他に、・盲学校・聾唖学校・実業学校・青年学校・師範学校・女子高等師範・高等師範・高等学校高等科・専門学校・帝国大学・商科大学・工業大学・医科大学等がありました。

※その他に海軍航空戦力を高める目的で設置された「予科練」(少年航空兵)に多くの若者(14歳〜19歳)が志願しました。


ー開拓農場で働く金華国民学校生ー

 戦時下の子供達は「少国民」と呼ばれ、戦争の激化に伴い否応無しに軍事体制下に組み込まれました。登下校では奉安殿の前で頭を垂れ神宮遥拝や宮城遥拝などをするようになりました。
 戦争が長引くにつれ、町はもちろん農村も、食糧不足・人手不足・肥料不足などによる農業生産力の低下が深刻になりました。そこで、食糧増産のため青少年・学徒達は勤労動員され、出征兵士のいる農家の手伝いや各学校での農場の開墾・農産物生産などが行われるようになりました。


ー野菜屑を持ち寄り堆肥を作る
金華国民学校低学年児ー

 戦時色が強くなるにつれ、国策として「増産」が求められるようになりました。以前から「教科書中心でなく体験を通して生活に役立つ勤労教育」を継続的に取り組んでいた金華国民学校でも、今まで以上に熱心に校庭や川原を畑にしたり堆肥や炭を作ったりする勤労奉仕活動が行われました。そして、どの学校でも「サツマイモ作り」「動物飼育」などの勤労教育が行われるようになりました。


 昭和16年(1941)7月には日本軍はベトナム、ラオス、カンボジア南部にも兵を進め さらに軍隊の必需品・石油とゴムを確保するためにオランダの植民地だったインドネシアを武力で奪いとる足掛かりを作ろうとしました。すると、アメリカは怒り日本への石油の輸出を完全に禁止し、いよいよ日本に対する警戒を強めました。

4.太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる
          (昭和16年12月8日〜)


 昭和16年(1941)12月8日、宣戦布告をする前に、日本海軍の戦闘機部隊がハワイの真珠湾にいたアメリカの太平洋艦隊を襲い、太平洋戦争を始めました。(当時は「大東亜戦争」と言われました。)そして日本は「この戦争は正義の戦争だ」とアピールしました。
 そして軍隊をぞくぞくと東南アジアの国々に送り込み、植民地を支配するイギリスやオランダの軍隊と戦い始めました。当初は日本軍は絶好調で、ラジオでは連日日本軍の勝利を伝え、人々は「勝った、また勝った」と喜びました。日本軍は5ヶ月で東南アジアの石油などの資源が豊富な所を占領しました。


ー金華国民学校高等科軍事教練(18年)ー

各学校では毎月8日を宣戦の大詔奉戴日と定め、奉戴式挙行、神社参拝などの行事を行いました。そして高等科などでは軍隊さながら「軍事教練」が行われるなど、軍事的な指導が行われるようになりました。
 また各校下では銅・鉄くず、その製品の回収、梅干しの供出、灰や茶殻集め、イナゴ取り、桑の皮の採取、松根や彼岸花の球根とりなどが盛んに行われました。各中等学校生も出征軍人の留守家庭の手助けとして麦刈り・稲刈り・桑摘みなどに奉仕し、食糧増産のための開墾作業などに従事しました。



ーわら人形をたたく子供達(長良橋)ー

 昭和17年になると、戦争の長期化と物資不足がますます深刻になっていました。そのため大政翼賛会や複数の新聞社などは「国民決意の標語」を募集し、その入選作「欲しがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」「日本人ならぜいたくは出来ないはずだ」「一億火の玉だ」「全てを戦争へ」などが日本中に広がりました。また岐阜市でも寺院の梵鐘などの供出が始まり、パンの切符制も始まりました。
同時に「鬼畜米英」(敵国のアメリカやイギリス、中国などを鬼や獣として蔑視した言葉)等の言葉が流行しました。そして、子供達は学校でも地域でも、外国人の顔をした人形を殴ったり蹴飛ばしたりして痛めつけました。

 しかし、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦を機に、連戦連勝だった日本が負け始めました。日本の空母4隻が沈められ、大敗でした。当時日本軍はレーダーを持っていない状態で、日本とアメリカの情報力の差が勝敗を決めたようです。
 日本軍の戦いぶりは「大本営発表」という形で、新聞やラジオで国民に伝えられましたが、軍に都合の悪い情報は記事になることや放送されることはなく、ミッドウェー海戦についても「日本海軍がまたアメリカ艦隊を打ち破った」と正反対の発表がされました。

     「徹明国民学校時代の想い出 @」   (昭和10年生まれのYさんの話)
その頃の学校生活は、朝は集団登校でした。神田町6丁目、今の徹明町の交差点からちょっと南に富士やさんという肉屋さんの横に金神社の石碑が建っていますが、そこに神田町通りの4丁目から6丁目の子供が全部集まるんですね。そこから上級生につれられて徹明国民学校まで並んで歩いていきます。金神社の所まで来ると上級生に「一列に並べ」と言われ、みんなが一列に並ぶとそこでちゃんとお辞儀をしてから学校へ行きました。そして今の金華橋通りを通って、小学校の東門の所へ行きました。門を入ったすぐ右手に檜皮葺きの小さな建物・奉安殿があり、中には昭和天皇の写真が入っておりました。その前に来るとまたそこで一列に並んで、「最敬礼!」と言われます。すると膝に手をついておじぎをしました。
 教室は1年生が男女共学、2年生以上が男女別々で、私は女子ばかりの楽しいクラスでした。学校のガラスには、ガラスが割れた時破片が飛ばないように障子紙が貼ってありました。校庭の西には講堂があり、そこでは高等科のお姉さん達が長い長刀を持っていつも練習しているのを見ました。ところがお兄さん達の姿は見ておりません。よそに勤労奉仕に行かれたのではないかと思っています。


5.「中等学校令」改正→「学徒戦時体制に!」
          (昭和17年〜20年)

ミッドウェー海戦から2ヶ月後の8月に始まったガダルカナル島の戦いで、日本陸軍は約3万3千人を投入しましたが、アメリカ軍に大敗しました。日本軍の戦死者は約2万人にも達しましたが、その内の約1万千人は飢え死にでした。6ヶ月も続いた戦闘の果てに食べる物が無くなり、多くの兵士が栄養失調で死んでしまったのです。この戦いには海軍も参加していましたが、こちらも24隻の軍艦が沈められ、約900機の戦闘機が打ち落とされるなど、さんざんな目に遭いました。
 昭和18年(1943)5月アッツ島全滅など「全滅に次ぐ全滅」状態で、日本軍の勝利は絶望的になっていました。アメリカ軍は、日本の守備隊がいる南太平洋の島々に次々と上陸し、日本は敗退を重ねていきました。


ー 少年兵募集宣伝ビラ ー

 昭和18年(1943)1月に「中等学校令」が改正され、就業年限が5年から4年に一年短縮されました。そしてこの年、少年兵の志願年齢が切り下げられ、「満14歳・中学三年生以上」が対象になりました。海軍予科練年齢も下げられました。
 実際に学校では、陸軍特別幹部候補生、海軍甲種飛行予科練習生、陸軍幼年学校、予備兵学校などへの応募が増えました。そして軍事教官などによる勧誘も強く、特に予科練への入隊者が増えていきました。
 
 昭和18年(1943)7月、中学校・実業学校の学徒に勤労動員が命ぜられ、男子は各務原の陸軍航空廠で飛行機の掩体壕(えんたいごう)(山を掘って、空襲から飛行機を守るための施設)造りに動員されました。幅25m・高さ15m・長さ36mの土壕を、炎天下モッコとスコップだけで造るきつい作業でした。女子も電気工業所のコイル巻きや紡績会社 少年兵募集宣伝ビラ などの作業に動員されました。

 こんな中、昭和18年(1943)9月には「学徒の徴兵猶予」が停止されました。また徴兵年齢が「20歳以上が19歳へ」引き下げられ、12月には学徒出陣も始まりました。

 ますます戦況が悪くなる中、昭和18年(1943)9月には「学徒の徴兵猶予」が停止されました。また徴兵年齢が「20歳以上が19歳へ」引き下げられ、12月には学徒出陣も始まりました。そして翌19年(1944)10月には更に18歳へ引き下げられ、ますます多くの若者が戦場へ送られることになりました。


   「徹明国民学校時代の想い出 A」 (昭和10年生まれのYさんの話)
 凱旋通り(今の金華橋通り)と東西の徹明通りの交差点の南西角にお地蔵様がありますが、昭和19年(1944)にこの場所で亡くなった男の子・省ちゃんのために立てられたものだそうです。
 当時、生活物資は馬の後ろにつけられた荷台に積んで運んでいました。ですから凱旋通りは荷台を引く馬の蹄の音が行き交っていました。
 学校でも「子供たちもお国のためになることをしよう」と、「馬糞拾い」が勧められました。藁などを食べる馬の落とし物は、一般の燃料・肥料?として貴重な物となっていたので、男の子たちは競争して馬糞を集めては学校へ持って行きました。省ちゃんは、すぐ後から来たもう一台の馬車にひかれ即死だったそうです。…(略)

 昭和19年(1944)岐阜合同新聞は、「中等校三年生から応募、新たな海軍予科生制度」(7月)、「この先輩に続かんと、少年兵総進撃」(8月11日)「少年兵志願せよ秋は今、来月から受け付け始まる」(8月27日)等、さかんに学徒出陣に関する記事を載せ宣伝しました。そして「岐阜一中148、武儀中85、斐太中56、二中53、本巣中29」等と、学校別に応募者を発表し、学校間の競争心をあおりました。

 また上級学校への進学を勧めてきた今までの方針を転換したり、農業や商工業に進路をとることをあきらめさせたりして、教師が先頭にたち、学校ぐるみで執拗に予科練などに応募させたのです。

6.勤労動員に明け暮れる学徒たち。高等科児童をも!
          (昭和19年〜昭和20年)

 昭和19年(1944)からは「学徒勤労動員」が通年実施となり、中等学校3年生以上では本格的な工場勤労動員が始まり、教室における授業は殆ど行われなくなりました。
 


ー川崎航空機工場で働く富田高女生ー

 岐阜市域では、岐阜中・岐阜二中・岐阜商業・岐阜高女・加納高女・岐阜商業・岐阜高女・加納高女・においては授業を停止し、各務原陸軍航空廠や川崎航空機製作所、その他の軍需工場などへ動員されました。
 
 これら学徒は、工員と同じく毎日通勤し、午前8時から午後5時まで勤務しました。昼夜二交代で夜勤もありました。男子も女子も国防色の作業服に神風と染め抜 いた日の丸の鉢巻きを締め、厳しい労働を頑張り抜きました

 昭和20年(1945)に入り空襲が激しくなると、岐阜高女・加納高女・富田高女は工場動員を廃止し、いずれも「学校工場」として雨天体操場や教室で飛行機の部品の製作やタンクの布張り等に従事しました。
 中等学校1・2年生も、農作業奉仕・防空壕掘り・間引き家屋の撤去・軍需工場への手伝いなどに動員されたり、学校農園や空き地などでの食糧増産活動に励んだりしました

 戦局の悪化と共に、学徒兵の徴募も盛んになりました。特に「予科練の歌」の流行と共に、海軍飛行予科練の募集に、各校生徒は競って応募しました。その他、陸軍士官学校や海軍兵学校を目指す者もありました


ー 高等科児童の工場動員 ー

 昭和19年(1944)2月、「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が決定され、動員対象が中等学校1・2年生と国民学校高等科にまで拡げられました。

 昭和20年(1945)に入り空襲が激しくなると、岐阜高女・加納高女・富田高女は工場動員を廃止し、いずれも「学校工場」として雨天体操場や教室で飛行機の部品の製作やタンクの布張り等に従事しました。
 中等学校1・2年生も、農作業奉仕・防空壕掘り・間引き家屋の撤去・軍需工場への手伝いなどに動員されたり、学校農園や空き地などでの食糧増産活動に励んだりしました

 白山国民学校では、昭和19年度1年間に合計86回の作業が行われ、その内容は廃品回収・灰集め・馬糞拾い・開墾・農作業・運搬・防空壕造り、そして高等科生の工場動員でした。
 昭和20年(1945)になると更に恒常化して、4月から8月までで65回に増え、疎開家屋の撤去や整理作業、戦災後は焼け跡整理などに多く動員されました。

 梅林国民学校における勤労作業は、1・2年は「れんげとり」、3・4年は「よもぎとり」、5・6年は「農耕地開墾」。高等科1年は「長良堤開墾や瓦あげ作業等、食糧増産・資源採取」の仕事でした。更に高等科2年においては「長良堤開墾作業」「長森北地区勤労動員」「大日本紡績作業奉仕」「陸軍整備学校勤労奉仕」「軍需産業工場の仕事」等、完全に学業から離れていました。

     「戦時下の小学校生活」   (昭和10年生まれのSさんの話)
 昭和20年、私は長良国民学校の5年生であった。終戦間際の食糧難時代で、学校でも食糧増産のため授業はなく、サツマ芋作り。長良川の川原を開墾して砂地に苗を植え、そこへ肥料をまく。学校の便所から小便を汲み出し、それを肥桶に7分目まで入れ、竹の棒を差し込み二人で担ぐのである。
 暑い日照りの中、学校から現在のグランドホテル下の川原まで肥桶を運ぶのである。竹の棒が肩に食い込み、並大抵の痛さではない。それに二人の呼吸が合わないと大変である。ピチャピチャと小便が跳ね前を担いでいる子の背中に、後ろを担いでいる子の胸の辺りから時には顔の近くまで濡れるのである。(略)


7.「米軍の空襲激化・本土決戦へ」
          (昭和19年〜昭和20年)

 昭和19年(1944)7月日本軍はマリアナ諸島サイパン島で全滅し、この頃には日本の勝利は絶望的になっていました。サイパン島がアメリカ軍の手に落ちたことは、日本にとって大変痛手でした。サイパン島は日本列島から約2400kmありますが、アメリカの爆撃機がサイパン島と日本を往復することができ、関東・東海・近畿の主要戦略目標に爆弾を落として帰ることができました。

 昭和19年(1944)11月頃から、サイパン島を飛び立った爆撃機B29が日本本土の攻撃を開始しました。第1段階は三菱重工業名古屋発動機製作所や中島飛行機武蔵製作所などの昼間精密爆撃でした。そして昭和20年3月からは第2段階として東京・名古屋・大阪な どの大都市工業地区に対する焼夷弾攻撃、6月頃から周辺都市・岐阜市などの地方都市空襲を開始し、空からの攻撃は全国各地に拡大しました。その後は「中高度からの高性能爆弾攻撃」として、兵器廠・石油施設・化学工場、輸送機関などが攻撃対象となりました。

<岐阜市警戒・空襲警報発令回数>
昭和
警戒警報 空襲警報
日数 回数 日数 回数
 19 4〜8  8  8  3  2
9〜12  24  31  16  16
 20 1〜3  24  31  14  16
 12  16  3  3
 18  23  3  3
 18  28  7  8
 17  23  9  11
8(15日迄)  9  15  5  7

ー「岐阜市史・通史編・近代下」ー

 昭和19年(1944)10月アメリカ軍はフィリピン中部のレイテ島に上陸。日本とアメリカの艦隊がレイテ島沖海戦を展開。この頃には多くの神風特別攻撃隊が出撃し、大勢の若者の命が失われました。その後ルソン島の決戦。日本軍は当初激しく反撃したものの周辺の山中に退き、まもなくアメリカ軍はフィリピンのほぼ全域を制圧しました。
続いてアメリカ軍が攻略目標としたのは、本土空襲機の中間基地となる硫黄島でした。約1ヶ月間に及ぶ戦いでしたが、3月26日に日本軍は全滅しました。

 硫黄島を制圧し本土空襲を本格化させたアメリカ軍は、昭和20年4月1日遂に沖縄本島上陸を開始しました。沖縄本島で約18万の兵力を展開させたアメリカ軍に対して、日本軍の守備隊は約10万。学生・女性を含む多くの県民が戦闘・後方支援に動員され、総力戦で抵抗しました。九州・台湾からも特攻隊が次々と出撃しましたが、沖縄の日本軍は6月23日遂に抵抗を終了しました。この沖縄戦では10万人以上の沖縄県民が命を落としました。
 本土では連日のように空襲が激しくなり、「本土決戦」「一億玉砕」(敵が上陸したなれば、大和魂を持つ日本人は一人になるまで戦いぬく覚悟を!)等が叫ばれるようになりました。


ー防空豪を掘る富田女高の生徒達ー

防空演習は、昭和14年頃から度々行われてきましたが、昭和17年(1942)4月の本土初空襲以来さらに切迫感をもって実施されました。

 昭和19年(1944)の後半からは、連日の警戒警報・空襲警報に悩まされ、学校教育は殆どその機能を停止し、全ての教師と生徒は避難と勤労作業に明け暮れました。
 各学校では防空壕掘りに力を入れ、校庭は防空壕と食糧増産のための畑となりました。

                                                               「集団家屋疎開」        (昭和10年生まれのYさんの話)
 昭和20年になると「集団家屋疎開」といって、岐阜駅前から神田町や七軒町付近までの両側の家は、道路拡張のために全部壊されることになりました。これは「空き地・空地帯を造り、空襲から街を守るため」と言われましたが、私の家もその対象で、母の実家の御園の祖母の家に荷物が運ばれました。徹明学校から帰ってくる時に家を壊しているのを見て「なんで壊すんだろうなぁ」と思いました。(略)

 昭和20年(1945)3月、硫黄島を制圧し本土空襲を本格化させたアメリカ軍は、4月1日遂に沖縄本島上陸を開始しました。沖縄本島で約18万の兵力を展開させたアメリカ軍に対して、日本軍の守備隊 は約10万。学生・女性を含む多くの県民が戦闘・後方支援に動員され、総力戦で抵抗しました。九州・台湾からも特攻隊が次 々と出撃しましたが、沖縄の日本軍は6月23日遂に抵抗を終了。この沖縄戦では10万人以上の沖縄県民が命を落としました。
 本土では連日のように空襲が激しくなり、「本土決戦」「一億玉砕」(敵が上陸したなれば、大和魂を持つ日本人は一人になるまで戦いぬく覚悟を!)等が叫ばれるようになりました。

 昭和20年(1945)3月、「決戦教育措置要綱」が発表され、国民学校初等科以外の授業は中止となりました。そして、各地の中学校や女学校への工場移転が推し進められ、教室から追い出された学徒たちは勤労学徒として学校工場に動員され、授業は全く姿を消すことになりました。

岐阜空襲の被害(旧岐阜市域分のみ)
(当時の岐阜市の人口は約17万5千人)
・死者→863人
・罹災者→86197人
・全半壊家屋→20427戸
・焼失した学校→師範学校(女子部)
 岐阜高女、加納高女、富田高女、済美高女、
 私立岐阜女子高、岐阜中、京町国民、
 徹明国民、明徳国民、木之本国民、
 本荘国民、本郷国民、白山国民、
 加納第一国民、加納第二国民

 そして、昭和20年(1945)7月9日、午後9時半頃から翌日早朝にかけて、米軍機B29約70機が焼夷弾約900トンを投下しました。その結果、岐阜市並びに近郊の合渡地区等は焼け野原と化しました。そして、多くの死者や罹災者を生み、旧市街地の殆どの地域・学校が焼かれたのです。

8.ポツダム宣言を受け入れ、終戦

 昭和20年(1945)8月6日・9日の広島と長崎への原子爆弾投下を経て、日本はやっとポツダム宣言を受け入れ、8月15日に戦争は終結しました。この「日中戦争と太平洋戦争」の日本人犠牲者は、軍人・軍属・一般市民も含めて310万人(その内240万人は海外で)を数えました。
 しかし、この大戦で犠牲になった人は、日本人だけではありません。中国や朝鮮半島はもちろん、アジア諸国、中部太平洋諸島、アメリカなどの人々2000万人以上の尊い命を奪ったのです。

9.おわりに…何度も繰り返された教室の風景
          (昭和20年〜21年)

 「先生、昨日お父ちゃんが戦地から無事帰ってきました。」と満面の笑顔で報告する子。…「そう、良かったね。」と声を交わしながらも、他の子の顔を伺う先生…。先日お父さんが戦死されたことを報告したばかりの子は急に泣き出してしまいました。出征された父親や兄の消息がまだ分からない子達は、暗い顔になって廊下の方へ歩き出しました。教室中が「嬉しさ」と「悲しさ・涙」「不安」が入り混じり、重苦しい雰囲気に包まれました。


○この作品は下記の文献などを参考にして後藤征夫がまとめました。なお体験記などを寄せていただいた高橋久孝さん・沢部豪さん・近藤宏さん・山本敏子さん・津田裕子さんのご協力に感謝します。
<参考文献>
・「岐阜県史・通史編・近代下」(岐阜県・昭和47年3月31日)
・「岐阜市史・通史編・近代」(岐阜市・昭和56年3月31日)
・「岐阜市史・史料篇・近代二」(岐阜市・昭和53年9月30日)
・「写真集・目で見る岐阜市民の100年」(郷土出版社・監修吉岡勲・昭和51年1月10日)
・「特別展・市民の暮らし100年」(昭和63年10月22日・岐阜市歴史博物館)
・「おじいちゃんが孫に語る戦争」(講談社・田原総一朗・2015年4月20日)
・「写真集(明治大正昭和)岐阜」(昭和58年3月30日・丸山幸太郎、道下淳・図書刊行会)
・「岐阜県教育史」(平成17年12月26日・岐阜県歴史資料保存協会)
・「岐阜空襲誌」(1978年8月1日・岐阜空襲を記録する会)
・「昭和天皇の時代・鑑賞の手引き」(ユーキャン・品川泰一)
・「学校も戦場だった」(1994年・岐阜県歴史教育者協議会)
・「岐阜も戦場だった」(2015・7、岐阜市平和資料室友の会、岐阜県歴史教育者協議会)

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