「ふるさと岐阜の歴史をさぐる」No.31
明治20年代の度重なる水害と濃尾大地震の被害をもろに受けた美濃地方。…「よくよく濃州の地、なんの祟りあって天災地異禍難の…」と人々を嘆かさせるほど、この岐阜の地は毎年のように続く大災害で苦しんでいました。
かねてから「木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の下流改修はもちろん上流部も含めた治水対策の必要性」が叫ばれ、大正元年(1912)には「三川分流を主とする下流改修工事」が完成しました。そして大正10年(1921)には「上流改修計画」も始まり、大正末から昭和初期にかけては、境川の締め切り、古川・古々川の締め切り、岐阜特殊堤の建設などが行われました。
…しかし、その後は日中・太平洋戦争に追われ中断。そして昭和20年代から30年前半は、戦後からの復旧・復興に追われました。
そんな治水対策が中断されていた中、またもや昭和34年(1959)伊勢湾台風、35年(1960)8月台風、36年(1961)6月豪雨・9月台風と、3年連続で岐阜市周辺はものすごい被害を受けたのです。(→詳細は「ふるさとの歴史を探る・NO30」を参照のこと」)
これらの大被害を受けて、行政当局も従来の方針を見直して抜本的に今後の治水対策の方針を決めました。それは…
@、基準地点忠節の計画高水流量を4500立法メートル/sから8000立方メートル/Sに引き上げ、 大幅な堤防改修・築堤・引堤(注1)ならびに河道の拡幅など着手する。
A、内水湛水(注2)を計画対象に、内水河川のポンプ排水の重視と排水機場の整備する。
そして昭和37年(1962)から順次様々な工事が着工され、長良橋両岸の陸閘、雄総・中川原の築堤、境川や荒田川の排水機増設などが完成していきました。
…しかし、その途中ともいえる昭和49年(1974)7月24、25日の豪雨により、長良川本川と伊自良川の古い堤防などの洗掘(せんくつ)(注3)・崩壊流失と、各支派川の排水不良地域における内水湛水の被害を受けたのです。そして、「記録的な豪雨」「最大級の水害」とも言われる「51年9月集中豪雨」を迎えることになるのです。
昭和51年(1976)9月4日に発生した台風17号はその後急速に発達し、大型台風となっていました。大陸の高気圧と太平洋高気圧に進路を阻まれ、北緯30度付近で足踏み状態となり、日本上空に停滞していた前線を刺激しました。このために、9月7日から13日にかけて岐阜・愛知・三重県を中心に中部地方は多量の降雨に見舞われました。
中でも岐阜市・美濃市・郡上市が位置する長良川流域においては、この間の降雨量が1000oをこえるところも多くあり、特に著しかったのです。9月7日から降り始めたこの記録的な豪雨によって、東海地方の各河川は警戒警報を大幅にこえて、各所で溢流・破堤による被害を受けました。中でも長良川(安八町)の破堤による被害は大規模で悲惨なものでした。岐阜市においても約70%の地域が数日間にわたる湛水による被害を受けました。
岐阜県では9月7日から降り続いた雨が美濃地方平野部を中心に集中豪雨となりました。岐阜市では8日0時から9日9時までに345_という激しい雨に見舞われ、8日21時50分から22時50分の時間降水量は92.5_に及びました。
9日3時50分計画高水位に達する大出水を伝える長良川洪水警報第1号が発令され、9時には墨俣で7.3bの記録的な水位に達しました。
当時の岐阜日々新聞は、9日夕刊で正午現在の県内の被害状況を報じています。
「がけ崩れなどでけが人3、家屋全壊2、同半壊2、床上浸水653、床下浸水4711戸、山崩れ61、道路損壊17カ所。岐阜市内で最も浸水が激しい常磐地区では約400戸の家屋が床上・床下浸水しており、さらに岩野田、早田地区でも200世帯が避難した。」
この他の岐阜市内では、地盤が低い北一色、白山、梅林、上土居などで幹線道路も冠水し、交通が遮断され、市街地での市民生活に影響を与えました。
岐阜県は災害対策本部を設置し、岐阜市、山県郡高富町は災害救助法の適用を受けることになりました。
10日にいったん小康状態となった雨足も11日には台風の北上に伴い、時間降水量50_もの激しい雨が水浸しの県内を襲いました。このため長良川の増水は長時間にわたって続き、11日14時には再び7.15bのピーク水位を記録し、岐阜市内では鏡島地区両岸が危険な状態となりました。
「もう降らないでくれ」と祈るように空を見つめる住民の願いとは裏腹に、岐阜市内では、山崩れにより一人が生き埋めとなり、今回の豪雨で初の死者が出たのです。
11日午前には伊自良川で3カ所(高富町四日市、岐阜市岩利、安食・石谷)、午後に入ると板屋川で2カ所が決壊。このために濁流が黒野地区に流れ込み大被害をもたらしました。
また鳥羽川(戸羽川)は粟野から下岩崎にかけて溢流し、この溢流水は高富街道の旧道沿いに天神川排水路までは南流および西流し、その後西流して下土居から正木・則武・城西・島へ浸水しました。このためにこれらの地域は流入水とそこでの内水とに湛水深2b以上の大規模な湛水域と化し、大被害をもたらしました。
中でも城田寺大正団地のように、支川堤防によって閉鎖された湿地に、新しく造成された団地の湛水被害は悲惨なものでした。また長良川以南では岩戸・白山・南長森地内における浸水被害が著しかったようです。
これらの湛水現象は破堤および溢流など河川水の堤内地への流入が直接の原因ですが、この流入水の流路及び湛水域はそれぞれ後背湿地(注4)及び旧河道であって、さらにこの内水が加わることによりいっそう被害を大きくしたのです。
12日には東濃地方をのぞく県内の被害は10市36町村に及び、県災害対策本部は守山駐屯地の陸上自衛隊第10師団に岐阜、大垣など2市2町1村に出動要請し、自衛隊が投入されました。
長良川の増水は長期間にわたり、長良川はかつて無い危険な状態になり、水防活動を続ける関係者に緊張が走っていました。(洪水継続時間の延べ時間は忠節で79時間と過去最高)
12日早朝の降雨で、墨俣や忠節の水位が4回目のピークを迎え、長良川下流域では緊張が一気に高まりました。この降雨で安八町から岐阜市日野間で、漏水が59カ所、法崩れが81カ所発生していました。
安八町大森の決壊現場では、7時30分頃堤防法面に亀裂が生じ、消防団、地元住民がくい打ち作業など懸命の水防活動を続けました。しかし、10時28分頃ついに堤防が決壊したのです。濁流は安八町を襲い、30分後には森部輪中を埋め尽くし、最高湛水位はほぼ海抜7mの等高線と一致し、安八町、墨俣町の集落の大部分が床上浸水に見舞われました。
床上 | 浸水 | 床下 | 浸水 | 田冠 | 浸水 | 畑冠 | 浸水 | |
校 区 | 世帯 | 人口 | 世帯 | 人口 | 1m未満 | 1m以上 | 1m未満 | 1m以上 |
梅 林 | 454 | 1476 | 1652 | 5891 | 5ha | |||
白 山 | 460 | 1536 | 1014 | 3623 | ||||
華 陽 | 293 | 1010 | 1735 | 6088 | 2ha | 2ha | ||
長 良 | 267 | 1038 | 977 | 3316 | 4ha | 2ha | 5ha | 8ha |
長良西 | 183 | 627 | 863 | 3030 | 11ha | 51ha | 16ha | 12ha |
島 | 1199 | 4720 | 614 | 1812 | 33ha | 6ha | 139ha | |
城 西 | 1149 | 4285 | 682 | 2303 | 3ha | 20ha | ||
三 里 | 105 | 304 | 575 | 2076 | 67ha | 55ha | 5ha | |
鷺 山 | 735 | 2682 | 1677 | 5757 | 12ha | 72ha | 15ha | 36ha |
加 納 | 115 | 382 | 638 | 2253 | 5ha | 1ha | ||
則 武 | 1094 | 3874 | 710 | 2605 | 9ha | 73 ha | ||
常 磐 | 540 | 2034 | 310 | 941 | 29ha | 162ha | 6ha | 30ha |
長森南 | 497 | 1763 | 1163 | 4047 | 58ha | 39ha | 38ha | 4ha |
長森西 | 169 | 543 | 568 | 2038 | 84ha | 21ha | 8ha | |
木 田 | 280 | 1108 | 119 | 388 | 44ha | 66ha | 30ha | 10ha |
岩野田 | 694 | 2538 | 1118 | 3805 | 48ha | 80ha | 5ha | 1ha |
黒 野 | 1042 | 3036 | 1009 | 3373 | 91ha | 151ha | 40ha | 38ha |
茜 部 | 217 | 795 | 507 | 1739 | 108ha | 46ha | 27ha | 8ha |
鶉 | 182 | 613 | 687 | 2428 | 101ha | 44ha | 20ha | 5ha |
鏡 島 | 101 | 361 | 935 | 3265 | 25ha | 15ha | 13ha | 2ha |
厚 見 | 597 | 2140 | 1873 | 6505 | 40ha | 27ha | 24ha | 2ha |
合 渡 | 167 | 695 | 177 | 509 | 144ha | 59ha | 32ha | 22ha |
−「岐阜市史・史料編・現代」第二部・統計より作成−
北部の伊自良川・板屋川の決壊や鳥羽川などからの溢流による濁流水が、岐阜市北部から下流部の南西方面へ流れ、次第に浸水地域を広げていきました。とくに長良川以北では、次々と正木川、則武川、早田川、両満川などの水が溢れ、その水が低地から次第に冠水していき、長良川以北の伊自良川に挟まれた地域は泥海と化していきました。こうして、北西部の黒野・則武・城西・島・合渡地区などでは大きな浸水被害を受けました。この原因として、以下の点などが考えられています。
ア、伊自良川の下流部は、昭和初期の改修前までは長良古川と呼ばれていたが、長良川との分派口閉 切り以後もほとんど改修が行われず、未改修に近い状態で、堤防も弱小な所が多かった。
イ、伊自良川流域などの岐阜市北西部の降雨量が記録的に大きかったこと。そのため長良川、伊自良川 の水位が高く、則武川・早田川・両満川・根尾川などの小河川の水が排水せず氾濫した。
ウ、長良川、伊自良川の水の逆流を防ぐために早田川・両満川・根尾川の水門を閉めたことにより、水が この地域に溜まってしまったこと。水門開閉のモーターが停電のため水門を開けるのに手間取り、長良 川の水位が下がった後も水が引かず、湛水時間を長くし被害を大きくした。
エ、かつての遊水池であったような場所が、宅地造成等による乱開発のために保水力が減少した。
オ、その他
伊自良川の東では最南端にあり、長良川堤防により湛水が溜まり浸水被害が大きかった島地区(およそ海抜11m〜13m)の実際を、「9.12島小校下の水害の記録」をもとに検証してみる。
@ 浸水時間と分布
<9月8日(水)>・島地区の一部(島新町、招光町、北島、菅生、西中島、江口、旦島の一部)で浸水が始まった。これは7〜8日の深夜の豪雨による水が両満川へ集中したため溢れ出し、川沿いの低い土地の家へ浸水したものである。
<9月11日(土)>
・伊自良川流域6時〜9時の降雨量235oという豪雨により両満川の水が再び溢れ、浸水流域が拡大し、
島新町、招光町、北島、菅生、西中島で床下浸水が始まる。招光町住民約30名が10時に島小へ避難。 <11日(土)夕方〜12日(日)午前>
・11日午後6時頃から早田川下流の水が溢れ出し、萱場東町から白菊町にかけて氾濫状態になる。溢れ出た水は北島、旦島地区から国道303号線沿いに東方向南方向へと流入する。そのため両満川の水位は一層上がり、島地区全体が水没状態となる。その時間は12日明け方と思われる。島小学校の運動場へ水が到着したのは9月12日5時25分である。それから1時間に15センチの増水が午前10時頃まで続いた。
A 被害金額(島小学校PTA会員のアンケート結果からの考察)
・被害総額をみると、58.5%の家が100万円未満で、おおかたの家では200万以内の被害にとどまった。一方、301万円以上の被害が11.2%もあり、特に最高被害金額が1000万以上という被害を受けている家もあった。
・特に島新町、招光町、北島、菅生などが比較的被害が大きい。これは浸水時間と推移の高さとの関係があると思われる。
・被害総額が大きかった家は、ほとんどが営業用物品の被害によるもので、特に既製服、農産物、商品、原材料(製造関係、肥料など)が水に浸かり、使用不能になってしまったケースが多い。
・建物の被害は殆ど100万円以内、家財の被害は100万円以上が18.3%あることが注目される。これは平屋建ての家の人で「家財を上へ上げることができなかった。」「早く避難したために家財を水から守ることができなかった。」などである。
B 避難について(島小学校PTA会員のアンケート結果からの考察)
・実に64.2%の家が一時でも避難した。避難しなかった地区を見ると、近島(49/103戸)池の上29/74戸)、島新町(9/16戸)等土地が高く、床上浸水戸数が少ない地区である。これらの地区は島校区の中でも戸数の多い住宅地であるが、これらの地区以外はほとんど床上浸水で避難者が多かった訳である。
・西中島、北島、旦島など浸水が大きかった地区でも、避難しなかった家が1戸、8戸、7戸とそれぞれ見られるが、これらの家は昔からの農家で土盛りをし、水屋を持つなどの家である。
・水の浸水時刻と排水時刻に関係するが、ほとんどが 11日(土)〜12日(日)の午前にかけて避難された。両満川沿いの地区で10日(金)頃から避難された戸数が見られるのに対して、他の地区は11日(土)からの避難者が多い。特に北島や旦島などは12日(日)にも多く見られるが、これは両満川の氾濫が両満川沿いの地区を襲い、その後早田川の水などが萱場方面から旦島、北島へ流れてきて冠水したためである。
・帰宅時間を見ると、殆どが13日(月)である。これは排水が13日の早朝であり当然であるが、平屋建ての人など寝る場所が無い人は、昼間家の片付けをし、夜は避難先で休まれた結果で、これが13日(月)〜15日(水)であった。
・指定外の避難所に避難した人が約半数あった。江口や西中島、菅生、島田、旦島の多くの人が、水が深く指定されていた島小へ避難することができず、堤防や指定されていなかったこじか幼稚園も下水処理場、民家などへ避難された。
・避難先を見ると、避難者の46.7%(最高時1660人=校区総人口の約20%)が島小へ避難し、圧倒的に多い。学校に近い地区が多いのは当然である。
・避難所とされた島小学校自体が床上浸水42センチ、島小までの道の冠水が1.8メートルを超える所もあったことを考えると、避難用の船の常設など、救助対策や避難方法、連絡方法なども考えなければならない。
・こんな中でも、収容人数をはるかにこえる人数を収容した島小では、窮屈で廊下にはみ出し横になることさえできない人もあり、親戚や知人宅、会社寮などへ移る人が多く見られた。
・避難場所を「常時から知っていた」人は30.5%に過ぎず、「直前になって」とか「知らされなかった」人が半数以上あった。
・命令・指示の系統に対しても、「広報会(自治会)から受けた」人が68.8%で、「関係の無い人から」と答えた人が5.6%、「全く受けなかった」という人が10.3%(不明5.3%)もあった。・地域によっては、避難命令が早すぎたり遅すぎたりしたこと、あるいは広報会(自治会)と連合広報会(連合自治会)との連絡の困難さ、避難先での自治的な活動の弱さ、個人的な利益や心配で行動する人などが多く見られた。
・歴史的に見ても水害の多かった島校区でありながら、「事前に避難準備や対策をたてていた」家は27.0%しかなく、殆どの家が対策や準備を考えていなかった。
C 水防団の活動「9.12豪雨水防団奮闘記」
9月6日から降り出した雨は、8日になっても止まず、午後7時頃には長良川が増水し、遂に島水防団副団長から電話連絡を受けた。「本流が増水のため、直ちに出動せよ。」と。午後7時30分第八分団員に連絡し直ちに出動。8名で互いに協力し水門を下ろし始める。自動式の水門であるが、4門あるので一度に操作しても6メートル下げるには30分の時間がかかった。その間水はただ増すばかり。水門を全部閉め終わってひと安心。
午後8時過ぎ、長良川の水位4メートルとなる。水門の外には水位柱が取り付けてあるので、増水の量がすぐ夜にわかる。夜になり、懐中電灯で時間的に水位を見ながら堤防の見張りにつく。1時間に約10センチから15センチ増す。お互いに交替で食事をする。午後11時頃一度全員自宅へ戻ったが9日午前1時再び出動命令。水位は本流7メートル。雨は降り続く。
9月9日午前6時、雨は少し和らぐ。支流水位7メートル。本流5メートルに下がり水門を開ける。午前7時過ぎ、団員は解散。分団長以外は全員会社勤めなので、分団長一人で時間的に見張りながら自宅待機。午前10時過ぎから再び雨が降り出し夜となる。雨は増すばかり。
午後9時30分三度出動。午後10時過ぎ水門全閉。水位は8日に降った雨と全く変わらず増え続ける。今夜は9名集まったが、どうも徹夜になりそうだ。江口と西中島で時間を打ち合わせ、自宅待機。家族の協力も大変だ。
やはり徹夜となる。雨は予想以上に降り、身体は冷え,大層疲労を感じる。午前2時また堤防に立つ。雨は矢のごとく降り続き、身体に震えを感じる。心の中で「雨よ。やんでくれ」と繰り返し唱える。 しかし無情の雨は降り続き、やがて東の空もしらみかけた頃の10日午前5時半、本流支流とも8メートル近くにはね上がる。10日午前8時ようやく小降りとなり、水位下がり始め、10
時に7メートル。水門を4メートルまで開ける。支流水は見事に吐き出され、一度は低地で15センチの浸水も「これで救われた」と思ったとたん、またしても午後から雨が降り出す。各団員自宅待機中。午後2時過ぎ出動命令。水門閉める。
昨日の雨量を上回るので、午後7時過ぎ、家族も近くの堤防高地にある農家へ避難する。三日も降り続く雨で堤防はゆるみきっている。いつどこで決壊するかわからない。市内の道路は各所で通行止めとなり、唯一の堤防上を突っ走る自動車の大群で、万一堤防にひずみでもはいっていたらそれこそ大変だ。色々心配ばかりして、雨ガッパを着ていても下着までズブ濡れだ。堤防下の道路淵も水が吹き上がり、暗くて懐中電灯だけがたより。我々は疲れ切った身体をさらしながらも「雨よ、頼むで止んでくれ。」と必死に祈り続けた。しかし本流はゴオーッと音をたてて流れ、支流も増水するばかり。上流から舟が流されてくる。
(11日)午前2時、寒くてじっとしていられない。水防本部から炊き出しの握り飯が届いた。とても旨い。本当に生きていて良かったと思った。午前4時、見張りのため自宅まで戻ると、道路が見えない。水没道路をさぐって漸く玄関まで来ると、水は胸まで浸かり、家の中は床上50センチののありさまだ。二階の電灯がついていたので心配だったが、暗がりで一階の棚の大事な物を少し二階へ上げ、「家だけは無事に残ってくれ」と祈りながら水の中を再び堤防へ戻る。ようやく朝を迎えたが、雨は依然として降り続き、本流、支流ともに増水の
一方だ。水門の水位柱も7メートルのゲージももう見えない。自宅近くの道路も人でいっぱいとなる。加えて避難の自動車で埋まる。中には家族ぐるみでトラックの上にシートをかけ一夜を明かした組もある。長良川右岸では堤防が崩れ、水防団や地元民が必死で作業しているのが見える。午後になり雨も少し弱まったが、夕方再び強くなる。もう手のつけようがない。自宅あたりは全く海のように化してしまった。平屋建てはとても小さく見える。「もう駄目だ。防が決壊するかもしれぬ。とても駄目だ」と思うと心配していた家のことも忘れ、気持ちが楽になった。
9月11日の長い夜がやっと過ぎ、身は砕ける思いで12日の朝を迎えた。水位10メートル。 もう本流、支流の見分けもつかず、午前5時過ぎ市関係の係員が走ってきた水門の図面を見せてくれた。水位柱が水没して見えないので、長良川の水位が少しでも下がれば水門を上げねばならぬ。もし失敗して水門の戸を開けたら、下げることができなくなる。市の係員はトランシーバーを頼りに、しきりに連絡をとっている。午前7時過ぎ、やっと雨は止み、ほっとする。
午前9時前少し水が引き出した。さぁ、水門が開かれ忙しくなる。やがて通報で”安八町で堤防が切れた”との知らせ。水位は見る見る下がりだしたが、都合悪く停電してしまった。いつもは自動で上げ下げするのが停電とあっては一大事だ。団員9名で必死に開けにかかったが何しろ手動での作業は初めてで、本当に重労働だ。そのうち菅生の広報会より協力。一日市場広報会と次々と協力して下さったので助かった。しかし時間がかかりそうだ。2メートル上がった頃には午後になってしまった。水は音をたてて流れ出す。本流はお昼頃にはうそのように平常近く平水に下がってしまった。ところが両満川はどうだろう!停電の上、支流は針の穴から噴水し、こうして12日も夜となる。午後11時建設省関係からやっと発動機到着。準備が始まり、水門の近くの古い排門が水圧のため音を立てて開いた。みんな驚く!水門と排門から水がはくので一安心し、一度全員解散。
13日午前5時、支流の水位もだいぶ下がる。それでも朝になって、ゴムボートにのりくみ、自宅二階から食糧の取り出しに成功する。午後、ようやく道路が見え出す。13日夜は、待望の自宅で泥臭い一夜を明かす。
D 復旧作業「9.12豪雨による水害復旧の経過」
私の家は、東島地内にあり、島小学校の南東約500メートルにある。平屋建て25坪の家は低地のため浸水水位も床上130センチとなり被害も甚大であった。
集中的に降り続く雨は10日の17時頃より始まった。各地で道路の冠水があり、交通が 遮断される個所が相次いだ。それから徐々に水かさが増し、翌朝11日8時頃、家の周りの畑や道路が完全に水没した。最初に被害を被ったのは自動車であった。庭先で水位が5センチになり木などで車を50センチ程持ち上げた。この時、水はまだ床下まではついていなかったが寸前であった。まず畳を一部ではあるが応接机の上に積み重ねた。そんな矢先に長良川の水位は警戒水位をこえて、10時水防団非常招集となった。それに出動。家財等は殆ど放置状態であった。14時頃家に戻って昼食をとる。依然として長良川は増水の一途であった。このことを妻に告げて避難の準備をさせ、再び長良川堤防に出向いた。尚、これまでの住宅地の水位は、一応小康状態にあったが夕刻より次第に水位は増し、18時頃妻や子どもの万一を考え、島小学校に避難するように勧めた。この時庭先20センチ床下浸水。21時地域を見回った折水位は床すれすれにあった。
翌12日3時頃、長良川の水位はピークに達し、伊勢湾台風同等の水位に達し、朝9時頃に はかなり減水した。しかし反対に○○川の氾濫により住宅地の水位は増した。家に10時半頃戻り、家財の搬出にあたった。その時の水位は床上60センチ、庭先の自動車木窓ガラスを少々残すのみであった。畳はへの字形に浮き、ピアノ、冷蔵庫、履き物などが散乱していた。タンスの上部、二段ベッド等のまだ水がついていない衣類を上げ、損害を免れるべく働いたが水の中をうろうろするのみで思うに任せず、14時途中にてあきらめ、近くの二階建ての家に避難させてもらった。その頃水位は増すばかりで、床上80センチはあった。水の増え方も、一時間に10センチから15センチであったと思う。15時30分、飼い犬と共に学校に避難し、途中道路の水位は180センチを越え、歩くことはできず、ボートぐらいのガンガンに乗ってたどり着いた。学校の窓より水位を観察。22時頃水位のピークを感じ、以後わずかな水位の減少を感じ一夜を明かした。
13日7時半帰宅。庭先5センチ。床下なし。すっかり水の引いたのは8時半であった。壁、建具のしみで記録した水位は床上130センチであった。復旧作業開始。親戚のひとは男2人、女2人、友人は男12人と、私、妻、子供(5年)の計19人と共に、家財・畳(全部)等を庭先の空き地に搬出し、屋内の泥水の排水作業。使える物の衣類の洗濯にて3時半終了。実労働はのべ約60時間、この夜は家にて休むことはできず、親戚に泊まることになった。
14日午前9時、親戚の人男3人、女3人、友人2人、私と妻と子供、計12人。作業内容は洗濯。建具を荒い床板を外し、屋内消毒、消毒液による床板・柱ふきなど多種多様のうちに16時終了。のべ実労働時間60時間。この日一部屋を確保し寝泊まりできるようにする。
15日、親戚の人男4人、女6人、私と妻、計19人。前日に引き続き食器類の消毒、この日乾燥した衣類建具を納める二部屋を確保した。全体作業の三分の二を終えたのが16時、のべ実労働時間100時間。
16日9時30分作業開始。親戚の男1人、女3人、友人4人、私と妻、計10人。前日までは家財の大物を主力に整理されたが小物に主体が移り、ガラスふき、建具のはめこみ、乾燥していない家具などを乾すなど前日の繰り返し作業に終わった。16時のべ労働時間40時間。
E 島小学校の動き=避難場所としての役割
島小学校は9月11日から18日までの間、避難場所として多くの人々を収容し、災害復旧における地域の中心的役割を果たしていた。一方、学校自体の床上浸水による災害復旧作業、児童の休校措置の連絡など早急に解決しなければならない多くの課題を抱えながら正常な授業再開をめざす努力が続けられた。
<9月8日(水)〜9月12日(日)>
・水害による休校は9日(木)、11日(土)、13日(月)、14日(火)の4日間であるが、9日と13日の休校は洪水警報が出ている中での全市的措置である。そして9日から学校職員も分かれて宿直勤務についた。
・10日(金)の措置については、6時10分に洪水警報から注意報に切り替わったことから、PTA会長や交通安全委員長と協議しながら授業実施に踏み切った。PTA交通安全委員の誘導を受け、児童は登校した。この時既に鏡島大橋、両満川付近、北島西から旦島にかけての通学路が冠水しており、西中島、江口、菅生地区は島田方面、旦島地区は国道303号線へ迂回して、遅れて投稿せざるを得なかった。こんな校区の冠水状態がはっきりした8時50分段階で、下校の措置が協議され、5校時で授業を打ち切り集団下校をすることに決定した。
・11日(土)は朝6時に休校を決定したが、10時頃から島新町住民などの避難が始まり、学校職員は避難受け入れのための教室や行動の片付けなどの仕事にとりかかった。また地区の冠水状態を資料として残すため写真撮影に出かけた。避難者の増加により、午後から夜にかけて、この日の宿直員2名は避難所としての勤務についた。
・12日(日)は、11日からの引き続く大雨と浸水家屋の増加により、避難者が大幅に増え、最高時には1660人に達した。そのため日曜日にも関わらず、学校職員10名が登校し、避難所としての勤務に就いた。(長良川の南や伊自良川西に住む職員は橋が渡れなかった。)…情報連絡、食糧や物資配給、病人手当、避難者名簿作成など事務処理、校舎の管理、避難者同士の争いや仲裁や苦情処理など、学校長や災害本部の指示にもとづく活動は、多忙を極めた。学校自体が一回が床上浸水を受けた中で、保健室や理科準備室、家庭科室の備品なども二階へ上げたが、このような学校側本来の仕事が不十分にならざるを得なかった。
<9月13日(月)〜9月20日(月)>
・避難者が18日の朝に全員帰宅した段階で、学校は避難所としての役割を完了した。しかし13日から18日は昼間は各自の家庭の復旧作業に出かけ、夜のみ宿泊するという宿泊所としての性格を持っていたし、救援物資の配給所となったことなども考えると、学校が地域の公共施設としての重要な役割を果たしたと言える。
・この期間は一言で言って、職員、児童がPTAや他校教員や中学生の応援を受けて、全力で復旧作業にあたった期間でもある。
・連日の消毒作業、大掃除、物品の処理、片付けなどで、職員も児童も疲労困ぱいであったが、一致団結してこの作業にあたり、また多くの方の応援も得て、意外に早く授業再開にまでこぎつけることができた。ごみや廃品は山のように積まれたが、これも意外に早く処理された。
・同時にこの期間は、児童の家庭被災状況、欠席理由、教科書や学用品の損失状況なども調査し、授業再開や救援物資配給の準備期間としても重要であった。その資料検討の結果、変則的ではあるが授業再開を16日(木)に決定した。
・また16日以後は、登校した児童はもちろん欠席した児童についても電話などで確認しながら、教科書や学用品の損失状況や疎開先などについても調査した。
16日 | 17日 | 18日 | 19日 | |
欠席者数 | 71 | 47 | 37 | 24 |
災害による欠席 | 61 | 35 | 29 | 21 |
病休 | 10 | 12 | 8 | 3 |
・上の表から分かるように、授業を再開しても欠席者が多かった。この原因は、ア、校区外へ避難していて、通学不能であった。イ、水害の被害が大きく、家の片付けに追われて登校できなかった。また、病休による欠席については、避難生活による下痢、腹痛、休養不十分のため体力消耗が原因と考えられる風邪などの病気が多い。
・17日からだんだん欠席者が減少し、9月20日(月)には全校で24名の欠席になっている。このことは、災害復旧が一応軌道にのり、どうやら人の住める状態になり、校区外の避難場所から自宅へ戻って生活できるようになったと推察される。
<9月21日(火)以後>
10月27日〜11月22日 | 講堂の床張り替え |
10月30日〜11月22日 | 図書館の床張り替え |
12月10日〜2月14日 | 家庭科室の設置 |
1月19日〜6月6日 | 運動場の土盛り工事 |
2月1日 | 砂場増設 |
3月19日〜3月29日 | 遊具増設 |
・21日以後は、ほぼ学校の機能を回復し、平常の授業に入った。特に、職員は50年ぶりと言われたこの水害の痛手から、児童をどう立ち直らせるか、この水害から何を学ばせるかを真剣に考え始めた次期でもあった。
・しかし、やはり9月いっぱいは学用品支給などの事務的な仕事に多くの時間と労力が費やされた。
・水害に伴う校舎内外の復旧工事は、県市当局、教育委員会などの厚情により、以外に早く着手され、52年3月には全て完了し、水害前の学校の状態に戻ったのである。
昔から長良川本流の破堤による洪水と、板屋川・根尾川・糸貫川らの破堤・溢流などによる湛浸水で苦しんで来た合渡地区(およそ海抜8.2m〜12m)。今回も、長良川の高水位が続き長良川堤防の危険な状態になり、左岸堤防(鏡島側)が自衛隊が守り、右岸堤防(合渡側)は「自分たちの手で右岸堤防を守らなければならない」という状況と同時に、伊自良川・根尾川からの湛水対策という二重苦も背負って奮闘しなければなりませんでした。
@ 9.12豪雨被害の様子
昭和51年9月の洪水は、長良川忠節で警戒水位以上が78時間も続く大出水で、伊自良川も長時間にわたる高水位が続きました。そのため根尾川の排水が困難となり、流末の根尾川排水樋門の扉を閉めたため曽我屋の横堤前では湛水し始め、ついに横堤を越え天王川流域へ氾濫しました。
また水田地帯も水深が0.8〜2.5mとなり、根尾川流域と一帯となり湛水し、合渡地域では床上浸水167世帯・695人、床下浸水177世帯・509人を数え、田の冠浸水は1m未満が144f、1m以上が59f、畑の冠浸水は1m未満が32f、1m以上が22fとなりました
床上浸水した家などの人々は、下記のように地区ごとに、近くの施設や寺などへ避難しました。
<避難者と避難場所>
ア、寺田 → ・寺田プラントへ約40人 ・合渡小学校へ約150人 ・円城寺へ約250人
イ、河渡 → ・最乗寺へ15人 ・願明寺へ70人 ・小学校へ20人
ウ、曽我屋 → ・超宗寺、幼稚園、農協曽我屋支店などへ約200人
A 水防活動
@長良川の出水に対して右岸堤防は6箇所の亀裂・ズレ・土の盛り上がりが認められましたが、応急修理 でようやく持ち堪えることができました。
A内水対策として「横堤(曽我屋)で上流から押し寄せる水を防ぐこと」「当地域の西南端で早く 排水し、 湛水させないようにすること」に奮闘しました。
日 | 地域の様子と活動 |
7(火) 8(水) |
・14時半頃から断続的に強く雨が降り出す。 ・8(水)・雨が降り続き、23時には大雨洪水警報、雷雨注意報が出る。 ・20時頃、糸天排水機(一日市場)動き始める。 |
9(木) | ・7時、曽我屋区民を非常招集し、横堤の補強が始める。(曽我屋) ・児童は登校してきたが、すぐ帰宅させ休校とする。 ・昼は曽我屋で焚きだしをする。 ・17時、一日市場で焚きだしをしてボートで配る。 |
10(金) | ・3時、根尾川の水門を閉める。(寺田) ・5時半、全水防団召集。 ・8時、合渡橋南側右岸の内側のズレ補強。(河渡) ・小学校は普通授業。夕方、市教委から宿直命令。 ・一日市場では昼・夕食の焚きだし。 |
11(土) | ・朝、伊自良川右岸の亀裂・ズレの修理(曽我屋) ・合渡橋上流右岸堤防危険となり水防団から出動命令が出る。(河渡) ・7時、横堤の不備をなおそうとするも激流のため不能。(曽我屋) ・小学校が休校し、重要書類を2階に上げる。 ・一日市場焚きだし。 ・10時、長良川右岸(お紅の渡し付近)外側堤防のズレ修理。(一日市場) ・昼、根尾川右岸(処理場近く)と合渡橋上流右岸の亀裂修理。(寺田、河渡) ・曽我屋根尾川左岸外側にズレ。 ・昼頃、糸貫・天王川排水機場の排水機が止まる。 ・一日市場・曽我屋・寺田焚きだし。 ・寺田の一部に避難命令が出る。 ・15時、合渡橋南右岸外側のズレ修理。(河渡) ・長良川一日市場バス停の右岸外側から水が噴き出す(一日市場) ・学校に2名宿直を置くよう市教委が指示。 ・夕方、根尾川左岸外側のズレ修理。(寺田) ・学校の運動場に水が溜まっていない。校舎へ最初の避難者あり。 ・曽我屋・一日市場・寺田で焚きだし。 ・糸貫・天王川排水機場へ、雨の中を自動車で押しかけた。 ・排水機1台動く |
12(日) | ・2時、避難者60人。曽我屋に避難準備命令。 ・市教委から校舎開放の指示。 ・朝、教室に浸水し始める。 ・河渡・一日市場焚きだし。 ・10時半頃、安八町の長良川堤防決壊 ・校舎10時半床上浸水15pで止まる。 ・昼、各集落とも焚きだし。 ・2台目の排水機が動く。 ・15時、古川の水門下の内側の亀裂修理。(一日市場) ・一日市場内の長良川の水は急激に減水し始めた。雨は止み晴れ間が見えた。 ・17時、根尾川の水門を少しずつあける。(寺田) |
13(月) | ・4時、校舎への避難者約10人。 ・一日市場の水がひき始める。 ・6時半、曽我屋のカーブミラーから南は水浸し。 ・朝、校舎宿直室の床下にまだ水あり。 ・寺田の水道がなおる。 ・寺田・河渡焚きだし。(河渡は15日まで) |
<当時の寺田水防分団長・小林宮雄さんの話>
私は寺田地区の水防分団長でしたが、合渡水防団長の指示により消防自動車で4つの分団巡視と指示なども行わざるを得ず、曽我屋、一日市場から寺田、河渡と走り回りました。
8日頃から長良川本川の高水位が続き、10日頃から右岸(合渡側)・左岸(鏡島側)とも危険な状態となっていました。左岸堤防は自衛隊が守っていましたが、右岸堤防は6個所にわたって亀裂
やズレなどが発生。その度に一日市場・河渡分団が中心となり、応急修理でようやく持ち堪えることができました。
一方、内水対策の一つとして、少しでも上流から押し寄せる水を防ぐため曽我屋横堤の補強が9日に始まりました。しかし長良川が増水のため根尾川に逆流して来るので10日午前3時根尾川の水門が閉められると、根尾川の水は落ちて
いかず川部地域が氾濫。そこへ西郷・七郷・木田地区の豪雨は土地改良の進行による水路の直線化によって急速に南下してきました。そして刻々と増水し遂に横堤は長さ490mも越水。横堤を越えた水は曽我屋・寺田・河渡へ流れ込みました。この水のほか当地域にはガマが各所で自噴しました。畑・井戸・古井戸でも激しく自噴し、多量の水が南部に流れ集まりました。その間も、伊自良川や根尾川の堤防にもズレが生じ曽我屋・寺田分団が修理するなど本当に慌ただしく奮闘しました。
内水対策の二つ目は西南端にある糸貫・天王川の排水機場でいかに早く長良川へ排水し、湛水させないようにすること。…この排水機場では3台あり、8日午後8時過ぎ排水機は始動し始めましたが1pの水をひかせるには3台合わせても2〜3時間かかりました。11日昼頃、今まで順調に動いていたエンジンが止まりました。私は「どうしたんだ。なんとか動かしてもらわないと!」と雨の中必死に排水機場へ自動車を走らせました。そして駆けつけた技師の修理により数時間後に1台が、26時間後の12日午後に残りが稼働しました。12日10時半頃安八で長良川堤防が決壊しましたが、その後は長良川の水は急激に減り始め落ち着き始めました。私たちは「地域の住民と水防団の団結と力で、自分たちの地域をなんとか守りきった!」という満足感を感じました。現在は、糸貫・天王川排水機場の排水機は7台になっています。
長良川左岸・鏡島地区の引堤のために、既に昭和47年(1972)に鏡島〜江崎間で築堤工事が着工していました。しかし途中になったままの状態で今回の豪雨に見舞われ、やはり右岸左岸とも破堤寸前の危険な状態となりました。 そのため昭和51年災害の伊自良川激特事業との調整を図りながら右岸・河渡築堤も昭和54(1979)年着工しました。(河渡橋の付替工事は岐阜県が施工→注5)そして平成4年(1992)、旧堤撤去工事も終了するなど、鏡島・河渡の引堤事業の全てが完成したのです。
河道の狭かった右岸下流部の寺田・曽我屋地区、上流部右岸の南柿ケ瀬・北柿ケ瀬地区、左岸の正木・則武地区は、約80mの川幅を150mから160mに拡幅する引堤工事を実施。また引堤工事に伴い、南柿ケ瀬排水樋管・折立排水樋管の改築、寺田橋・竹橋・柿ケ瀬大橋・古川橋・繰船橋の改築も激特事業として行われました。さらに正木川と根尾川に排水機場を新設。…これらの事業は、昭和52年(1977)度から同57年(1982)度までの7カ年で施工されました。
なお県管理区間の伊自良川上流部および鳥羽川についても、補助事業として岐阜県による激特事業が実施され、引堤および掘削が行われました。
@ 境 川
境川が第2排水機場を建設することになり、昭和53(1978)年10月に着工、同55年(1980)6月に完成しました。なお、岐阜県が河道掘削を行いました。
A 荒田川・論田川
両川には昭和8年(1933)に設置された旧荒田川論田川排水機場と昭和36年(1961)6月の梅雨前線豪雨を契機として昭和45年(1970)に設置された荒田論田川排水機場2機場がありました。しかしこの災害で大きな被害を被り、昭和55年(1980)荒田川論田川第2排水機場が建設されました。なお、荒田川の県管理区間についても引堤および掘削が行われました。
B 糸貫川・天王川
昭和36年(1961)の豪雨では糸貫川が決壊するなど流域は広範囲にわたって湛水したため、内水対策としてポンプ7台の排水機設置を計画し、このうち一期計画として昭和45年(1970)9月から同48年(1973)5月に3台のポンプが設置されていました。しかしこの災害で大きな被害を受けたことからポンプ4台の増設がされました。工事は昭和52年(1977)9月に着工、同54年(1979)6月に完成しました。
C 根尾川
根尾川地域は従来からしばしば湛水被害を被ってきましたが、この災害でも大きな被害を受けました。伊自良川下流部が激特事業として採択され、その実施に伴って根尾川下流部の河道が伊自良川の堤防敷となり、合流点を約1.3km上流に付け替えることになりました。そのため排水樋門とともに計画排水量10立方メートル/Sの排水機場が新設されました。工事は昭和55年(1980)9月に着工、同56年(1981)3月に完成しました。
D 正木川
正木川の流末に正木川および鷺山川の内水排除として、約6.7立方メートル/Sの排水機が設置されました。工事は昭和53年(1978)10月に着工、同56年(1981)3月に完成しました。
E その後も…
昭和63年(1988)に両満川排水機場と新堀川排水機場が完成するなど、その後も各地で順次整備されていきました。
○この文章は、下記の文献を下に後藤征夫がまとめました。 <参考文献> 「岐阜市史・通史編・現代」・「岐阜市史・史料編・現代」(昭和55・56年・岐阜市) ・「岐阜県史・通史編・現代」・「わかりやすい岐阜県史」(平成 年・岐阜県) ・HP「清流の国・岐阜県」→災害資料→9.12豪雨災害(1076年 昭和51年) ・「豪雨・1976.9.12水害記録」(昭和52年3月・岐阜市立城西小学校) ・「水禍・9.12島小校下の水害の記録」(昭和52年10月・岐阜市立島小学校) ・「島郷土史」(昭和53年11月・島郷土史編纂委員会) ・「岐阜市合渡の歴史」(昭和61年・岐阜市合渡広報会連合会) ・「木曽川上流80年のあゆみ」(平成12 年10月・建設省木曽川上流工事事務所) <注> (注1)引堤(ひきてい)→川幅を広げるため堤防を引き下げること (注2)湛水(たんすい→洪水時に樋門から内水を排除できず、水が溜まってしまう様子 (注3)洗掘(せんくつ)→流水や波浪により河岸や海岸または河床や海底などの土砂が洗い 流されること。堤防の表法面の土が削りとられること。 (注4)後背湿地(こうはいしっち)→自然堤防などの微高地の背後にある低湿地 (注5)合渡橋(ごうどばし)→昭和54年前の橋(合渡村時代にできた)で、現在は河渡橋 |
学校の機能を回復し平常通りの授業に戻った頃、多くの職員は「この水害の痛手から児童をどう立ち直らせるか。この水害から何を学ばせるか」を真剣に考え、以下のような実践を生み出した。
ア、各担任は子供に体験記を綴らせながら、それを交流し、単に思い出にさせるというだけでなく、何を学んだのかを意識化させようとした。
・「やっぱり逃げてよかった。そんで助かったんや。命が一番大切なんや。」
・「”しっかりつかまって”と引っ張ってくれたお父さん。どうしてもウサギを連れてきたいと言ったら、胸まで水に浸かりながら家に帰って連れてきてくれた。」
イ、これらの実践を学年会などに持ち寄り話し合い、校長作成の「水害に学ぶ」の資料を活用するなど、新たな視点で学級指導や学級会活動、社会科などに取り入れた。さらにはPTAの懇談などでも紹介したりしながら「水害に学ぶ」指導を広げた。
・PTA懇談では「大人顔負けなほど働いてくれました。」「水害で物はなくなったけど、親子が裸になってくたくたになるまで働き、励まし合えたことは本当に良かった」という話が多かった。
ウ、「水害の体験をふまえた教育活動はどうあるべきか」という立場から、全校共通して考えたのは運動会についてであった。具体的には「中止する」のか「小運動会として実施する」のかという点での討議から、「子供たちを早くどう立ち直らせるか」「児童会などを中心に8月から取り 組んで来た動きなど児童活動をいかに尊重するか」という点での活発に討議した。その結果「水 害から復旧した自信や満足感を確かめ合ったり立ち直る気迫を持たせたりするためにも、小運動 会として実施する」旨決定した。子供たちも「水害をのりこえて…全員の力を結集して運動会を 成功させる」とばかりにもの凄く燃え上がり、例年以上の”大運動会”になったようであった。
エ、郷土歴史クラブの児童たちが、当初計画していた調査内容を変更して、島校区の9.12豪雨被害状況調査を実施した。
<5年生担任の「水害に学ぶ教育活動」の感想>
学校でも子供たちは、復旧のために毎日力仕事・清掃の連続でした。でもいやな顔もせずがんばりました。泥だらけにの講堂には水ぶくれしたマットがずしりと積み重なり、水浸しのストーブの出し入れも大変でした。「自分たちの力で学校を美しくしよう。」という気持ちが、うんと根付いていたように思います。卒業式場のあのつややかな床になるまでに、みんなの力と汗と行動が結集されたことを思うと感無量でした。
子供たちは「6年生を送る会」の劇を自分たちの手で作成しました。そしてその素材として取り上げてきたのが「水害と協力」「復旧後のなかよし遊び」でした。水害がいかに子供たちの心に大きく影を落とし、またその復旧は”協力によって見事なし得た”という自信と思い出を生んでいたのです。そして「苦しみは私たちを成長させ、頼もしくさせる」の言葉通り、水害は子供らに強さを与えてくれたのです。