3年連年災害と、その後の復旧対策

34年伊勢湾台風、35年台風11・12号、36年6月豪雨と18号台風

→年表はこちら

はじめに

「あの時は、本当に怖ろしかったな」「私の人生で最も大きな台風だったね。」と、多くの人が今も語られる伊勢湾台風。…しかも岐阜地区では、翌年もさらに翌々年も続けて、大変な水害の被害を受けたのです。…人々の苦しみはどんなだったでしょう?そして、その後の復旧対策がなされたのでしょう?

 

1.昭和34年9月・伊勢湾台風(台風15号) 「岐阜市でも17人の犠牲者が!」


ー伊勢湾台風総雨量の分布ー

 昭和34年(1959)9月22日マリアナ諸島で発生した台風15号は、26日18時すぎ潮岬の西約15qの地点に上陸しました。そして奈良県、三重県伊賀上野を通り、26日22時には揖斐川上流に達しました。この時の中心気圧は945mb、最大風速は岐阜で南南東風32m/sを示しました。
「史上最強」とも言われるこの超大型台風の犠牲者は、全国で5098人(死者4697人、行方不明401人)に達しました。特に大きな被害を受けたのは、愛知県と三重県で、愛知県の犠牲者は3351人(名古屋市1909人)、三重県の犠牲者は1211人でした。これは、勢力を衰えないままの台風が伊勢湾の西側を北上したため、非常に強い南からの暴風による吹き寄せと低気圧による吸い上げの効果で高潮が起こり、名古屋市南部を含む伊勢湾岸に多い干拓地を襲った結果と言われています。
 特に愛知県と三重県に甚大な被害を出したこの台風に「伊勢湾台風」という名前が付けられました。

 この伊勢湾台風(台風15号)の直撃を受けた岐阜県も、各地で風と水による史上最大の被害にみまわれ、岐阜県の犠牲者は104人(死者87、行方不明17人)、岐阜市では犠牲者17人(死者14人、行方不明3人)にも及びました。特に台風進路の右半圏に入ったため強風による被害は大きく、岐阜市・中濃・東濃では家屋などの倒壊が多発し、多数の死傷者を出しました。

 また台風15号の中心が県西部を縦断したために、県内各河川はいずれも近年にない出水となり、長良川・揖斐川は今までの最高水位を上回る大出水となりました。(長良川源流部で27日0時までに約300o、岐阜市における25〜26日の総雨量は198.5oに達した。→岐阜市忠節27日5時には警戒水位を3m上回る5.5mに達した。)
 また大雨は、山間地域においては山崩れ・崖崩れを誘発し、住宅などを破壊・埋没させ多数の死傷者をもたらし、平野部においては広範 囲にわたる浸水被害をもたらしました。
 岐阜市においても強風による家屋の倒壊(全壊392戸、半壊737戸)や倒木の被害が多発し、多数の死傷者が続出しました。
 また水害についても、その状況は悲惨そのものでした。長良川は岐阜市芥見、山県郡三輪地内や関市保戸島地内で破堤し、付近一帯に濁水が湛水しました。


ー長良川の増水で藍川橋が流失ー

▼「恐ろしいことだ。今でも悪夢を見たとしか信じられないと部落の人たちは声をふるわせる。 岐阜市加野部落、ちょうど長良川にかかる藍川橋を北へ渡ったところ。堤防沿いに集落を形づくっている180戸は、恐怖のあの夜、セキを切って襲った長良の濁流にすっぽり姿を消したのである。暗ヤミに乱打される半鐘、渦巻く非情のドロ水、そして屋根伝いに逃れる人の群れ。…こうした当時の恐怖を農業三鴨七郎さん(45)はつぎのように思い起こしている。「半鐘に気づいたのは午前2時頃だったろうか、ビックリして外へ飛び出したらもうヒザまでドロ水が押し寄せている。どんどん増える水かさにせかれて見回り品を持つヒマもない。丁度こぎつけた舟で家族だけは避難させたが、ワシは最後まで家を守るつもりじゃった。とうとう家が傾いてので近くのカシの木にあわててよじ登ったけど、木にしがみついてすぐ目の下の濁水を見たときはさすがに生きた心地はしなかった。

▼一方、対岸の芥見方面でも痛ましい惨事。長良川の左岸堤防があっという間に切れ、これまた加野部落と同じように濁流にもてあそばれたのである。藍川橋寄りの町屋部落をはじめ、南町一帯は軒なみ屋根まで水が浸かり、家財道具を失ったものは数えるだけでもキリがない。ドロに埋まった稲田の上にはあちらに1俵、こちらに1俵と米俵が散乱している。およそ150メ ートルも離れた岐阜米穀共同組合芥見配給所の倉庫から押し流されたものだ。       ー昭和34年9月30日「岐阜タイムス」の記事よりー


ー長良中鵜飼のようす(34年9月)ー

 また岐阜市日野左巻地内・雄総・長良橋付近で溢流水による浸水被害を被りました。
 長良橋付近では、内堤防を越えた濁流が南岸では湊町・玉井町・御手洗池一帯を冠水した後に、岐阜公園の北に築かれた本堤防も溢流し、大宮町・大仏町・松ヶ枝町や梶川町の一部まで浸水しました。
 北岸においては、鵜飼屋から田カ脇の住宅が位置する河川敷が瞬く間に浸水し、濁水はさらに本堤防までも溢流して、長良北町から長良平和通りに至る道路の南に位置する住宅街へ浸水したのです。         
 この他にも、排水不良など内水湛水の被害なども含めて、ほぼ岐阜市全域で家屋流失6戸、床下浸水2941戸、床上浸水3163戸にも及びました。

2.昭和35年8月・11・12号台風 「大雨で伊勢湾台風を上回る大被害!」


ー破堤した芥見・町屋(35年台風)ー

 昭和35年(1960)8月11日室戸岬付近に上陸した台風11号は、四国を北上し、鳥取の東を通って日本海に達しました。また12日には南方海上にあった台風12号も続いて室戸岬付近に上陸し、高松・岡山を通って若狭湾沖に抜け、13日には能登半島沖に達しました。
 両台風の風による被害は岐阜県ではほとんどなかったのですが、雨による被害は甚大でした。長良川上流域においては、11日と12日にはすでに雨量200〜300oの豪雨になっていましたが、13日早朝から午前中にかけて、集中的な豪雨に見舞われました。


ー35年8月・長良中町のようすー

 この時の時間雨量は長良川上流域・中流域で20〜50oで、もの凄いものでした。このために長良川水系は急激に増水し、伊勢湾台風時の出水を上回る出水となり、各地に 大被害をもたらしたのです。特に2年続きの三輪・加野・保戸島・芥見、そして岩田・日野における破堤は、長良川  一帯を濁水の海と化しました。

<特に家屋被害が多かった校区の状況>

 校 区

 流失

 全壊

 半壊

床上浸水

 床下浸水

 金 華

   0

   0

   4

   218

    50

 京 町

   0

   0

   0

     0

   258

 梅 林

   0

   0

   0

    64

    66

 本 郷

   0

   0

   0

    23

   531

 本 荘

   0

   0

   0

     0

   626

 日 野

   0

   0

   3

    61

    44

 長 良

   0

   6

   1

   969

   900

長良西

   0

   0

   1

   670

  900

  0

   0 

   0

     1

    85

 岩

   0

   0

   2

    4

    10

 芥見

  12

   5

 322

    54

   200

三輪

   4

   4

  10

   170

    71

 また岐阜市とその周辺地域においては、長良川堤防の低い所は全て溢流したか又はその危険にさらされました。中でも長良橋付近の両側地域やこれより上流部における溢流は顕著でした。このために13日午前9時12分には長良橋両詰の堤外地に住む約400戸の人々を初め、これより上流部の志段見・古津などの人々にも避難命令が発令されました。

 この溢流で古津・雄総・長良南町や長良橋南詰一帯は軒下まで浸水し、またこの溢流水と内水で、川北地区は広範囲にわたって浸水しました。
 さらに長良川増水のともなって、岐阜市各地で排水不良のための内水湛水の現象も発生し、被害を大きくしました。

3.昭和36年6月・梅雨前線豪雨 「芥見・加野は3年連続破堤、岐阜市の80%が浸水!」

昭和36年(1961)6月下旬、梅雨前線が急に活発化し、24日から豪雨が降り始め、26日には記録的な豪雨となり27日まで続きました。岐阜市における6月中の実測降雨量は789oで、平年値の降雨量(254.4o)と比べて3倍以上にあたります。また6月23日から30日までの実測降雨量は618oで、平年値の106.7oに比べると約5.8倍になり、この降雨量がいかに多かったかが分かります。 この大雨で、芥見では27日16時40分9.45m、同19時 穂積では6.87m、墨俣では7.15mの水位を記録し、前年の11・12号台風時の洪水以上の出水となりました。
 このため、芥見・加野・及び関市保戸島では、34・35年に続き「3年連続破堤」し被害に見舞われました。また長良橋付近でも、長良川の左右両岸より濁水が溢流し、付近一帯の地域が浸水に見舞われました。


ー上空より三里・鶉・日置江を見るー 

 岐阜市内においても、その支川が本川の水位上昇のために排水能力を失い、支川流域に降った雨はそこにため込まれることになりました。このために、鳥羽川・伊自良川・板屋川・境川・荒田川・論田川などの各支川はすべて溢流・氾濫しました。従ってこれらの支川の下流部ほど溢流および内水による湛水深も大きく、洪水面積も広がる結果となりました。
 中でも岐阜市南部の論田川・荒田川・境川下流部・岐阜市西部の天王川下流域では7日以上、岐阜市東部の境  川流域では5日以上の湛水被害を被りました。また伊自良川は石谷地内で決壊し、交人・折立・黒野地区一帯に泥水が浸入し、5日間以上にわたる湛水被害を受けました。この他にこれらの中小支川へ自然排水によって雨水および生活排水を排水している地域は、ことごとく内水湛水による被害を被りました。
 このように、本川及び支川の破堤・溢流による湛水・内水湛水による浸水現象は、岐阜市の約80%の地域に広がり、罹災世帯は24126、罹災人員9万4529人に及びました。

4.昭和36年9月第二室戸(18号)台風 「速度が早く降雨も少なく、少ない被害。」

9月12日、超大型台風に発達した台風18号(室戸第二台風)は、13日午後には大東島南方海上に達しましたが、この時の中心気圧は885mbでした。一方、北の方では気圧の谷に伴う寒冷前線が次第に南下し、14日には日本海中部、15日には本州内陸部に達し、台風の北上にともなってそのまま停滞しました。このため県下では、14日夜半から強いにわか雨が降り始めました。
 岐阜市では14日夜半から雷雨に見舞われ、特に15日未明の雷雨はすさまじく、1時間雨量89o観測しました。  

   
 ー(36年9月)岩戸・梅林方面ー ー(36年9月)加納・三里のようすー 

規模的には伊勢湾台風に次ぐ超大型台風の18号(第二室戸)台風でしたが、上陸後の速度は早く、平野 部では降雨量も少なかったので、岐阜市におけるこの台風の被害は、比較的少なくすみました。とはいえ、死者2人、負傷者18人、全壊24戸、半壊182戸、床上浸水258戸、床下浸水2419戸などの被害が発生しました。

5.3年連年災害からの復旧→計画高水流量を8000立方メートルに!そして更に…

(1)計画高水流量を改訂して、破堤した箇所の復旧工事

 工区 

 場所・左or右岸
・工事の長さ

                工 事 の 概 要

第1工区 

 日野新田・左岸
・延長630m

堤防全体をかさ上げして、石積で補強。かさ上げできない所はコンクリート壁で堤防高不足を補う。

第2工区

古津・右岸
・延長800m 

ここでは堤防が県道と併用しているため、かさ上げすることは不経済。主としてコンクリート壁で高さの不足を補い、これに水叩工を施工する。 

第3工区 

 岩田・左岸
・延長77.7m

 堤防全体に石積を施工して補強する。

第4工区

 加野・右岸
・延長809m

 堤防両面を石積みで補強し、高さの不足している部分は県道併用のため、コンクリート壁を施工し、水叩をアスファルト舗装する。

第5工区 

 芥見・左岸
・延長2024m

 破堤箇所の本堤築立と、全般にわたり堤防両面を石積とコンクリートブロックで補強。水衝部には大聖牛による水制工および捨ブロックによる根固工を施工、洗掘箇所にはコンクリート方法枠工、または木工沈床、捨ブロックなどを伏設する。堤防高の不足部分は、他と同様、県道併用部はコンクリート壁とし、水叩工としてアスファルト舗装をする。

第6校区

 関市戸田・左岸
・延長3042m
関市保明・左岸
・延長1236m

破堤箇所の築立と水衝部の水制復旧ならびに低水護岸の補強を施工し、武儀川合流点以下は堤防裏表法面を石積またはコンクリート張りで補強し天端に水叩工をを施工する。長良川、今川の分流点付近は、本堤法先が低いので約60000立方メートル土盛りして、保戸島先端部を補強する。今川では堤防護岸の補強のほか、床固工、水制工の復旧整備をする。 

第7工区

世保・右岸
・延長2744m 

全般に堤防護岸を石積、コンクリートブロックなどで補強し、水衝部には大聖牛水制と根固沈床を施工し、下流部の小堤はコンクリート壁で不足高を補い、水叩にアスファルト舗装を施工する。 

第8工区

 関市千疋・右岸
・延長988m

 堤防護岸ののかさ上げおよび石積による補強と、根固工として木工沈床を施工する。

第9工区

 同上・武儀川左
岸・延長920m

 堤防の拡大と護岸の補強

           ー昭和40年12月岐阜県発行「昭和34.35.36年連年災害復興誌」から作成ー 

 当初34年(1959)の伊勢湾台風による被害を復旧させるため、それぞれ独立した関連事業が計画されていましたが、引き続く35年災害で大きく被災したことから、一層大規模な計画が必要とされました。つまり、従来からの長良川本川の計画高水流量(忠節においては4500立方メートル/s)を根本的に修正しなければならなくなり、計画高水流量を8000立方メートル/s)に改訂して、それに伴う改修工事に着工しました。

(2)長良橋付近の特殊堤防及び防水鉄トビラによる溢流防止対策


ー長良ケ丘の陸閘・防水扉ー

 長良橋付近の両岸地域は、以前の洪水時からも溢流浸水による被害を被ってきました。そのため昭和26年(1893)から建設省木曽川上流工事事務所は、この付近の堤防改修工事に取りかかりました。しかし民家の移転問題で工事は中断し、伊勢湾台風、11・12号台風よる連続台風水害に見舞われたのです。
 この連続災害を契機に移転問題も解決し、急ピッチで工事が進められました。高富街道の新旧道路を東西に長良丘地内216m、長良中町地内46m、鵜飼屋地内66mにわたる全長328mの区間です。堤防のかさ上げ及び石積みによる特殊堤防が昭和36年4月に完成し、また翌37年3月には新旧道路の交差点にそれぞれ防水扉が設置されました。さらに左岸の新道にも、昭和37年6月には幅11.26m、高さ3.36mの防水扉が設置されました。

 長良川の北岸、岐阜市長良の1800戸を水魔から守る鉄トビラの防水壁の工事が始まった。今夏の特殊堤防の完成にともない、今度は一滴の水も住宅街へ流さないため鉄トビラの防水壁を造ろうというもので近代的科学のスイを集めた全国テスト工事として注目されている。…(中略)…両方の特殊堤防をつなぐものでふだんは両側の特殊堤防の中に戸袋をつくりトビラを入れ、いざ出水の時、ボタン1つで締め切るようにする。とくに線路上にトビラが開くため、線路のスキ間から水野もれる心配もあったが、この点はトビラの底にゴムのパッキングをとりつけ解消、一滴ももらさない精密な計画をたてているほか、洪水の水圧に対しトビラの後から鉄の支柱をつくり、十分耐えるようにするという。…(略)…   
                                ー昭和36年12月13日「岐阜日日新聞」よりー

(3)雄総・中川原の築堤

 雄総・中川原地区は、雄総から岩舟川合流点までの1800mの区間では無堤状況となっていました。昭和30年代の度重なる浸水被害により地元からの堤防新設の要望が強く、区画整理事業と併行して改修工事が行われることになりました。


-長良川・雄総・中川原地区の工事箇所-

 工事は昭和38年度に着工し、昭和48年度までに延長1800mの築堤が施工されました。堤内地となった雄総排水樋管と中川原排水樋管を新設し、岩舟川にかかる日野橋を改築、また岩舟川の180m区間も背水堤も施工されました。

(4)長良川左岸地域の内水対策(境川・荒田川・論田川) 


ー荒田川・論田川排水機場ー


 本川の一連堤の改修が進むにつれ、また整備の進んだ内水河川のポンプ排水の必要性がさけばれる中、昭和26年以後には、岐阜県内で順次、排水機場が整備され始めました。
 そんな中、 昭和36年(1961)6月の梅雨前線豪雨出水を機に、その内水湛水を計画対象に、昭和39年、境川・荒田川・論田川の内水対策事業(排水機場の土木工事、排水機2台の設置工事)が始まり、昭和45年5月末に完了しました。





(5)その他 …

@ 昭和43年「左岸(鏡島)の引堤計画」 

  昭和41年の岐阜県庁移転後ますます発展する岐阜市南部の地域開発にも相まって、河川改修が必要になりました。同時に、3年連年災害以後の「流量改訂」(4500立方メートル→8000立方メートル)に伴う築堤・護岸などの整備が各地で進むにつれ、一層その必要性が高まってきました。
そこで計画されたのが「鏡島の引堤計画」ですが、建設省木曽川上流工事事務所発行の「鏡島引堤計画について」の理由などが、次のように書かれていています。

昭和41年の岐阜県庁移転後ますます発展する岐阜市南部の地域開発にも相まって、河川改修が必要になりました。同時に、3年連年災害以後の「流量改訂」(4500立方メートル→8000立方メートル)に伴う築堤・護岸などの整備が各地で進むにつれ、一層その必要性が高まってきました。
そこで計画されたのが「鏡島の引堤計画」ですが、建設省木曽川上流工事事務所発行の「鏡島引堤計画について」には、その理由などが次のように書かれています。

 昭和35年8月11日から13日にかけて台風11号及び12号が相次いで襲来し…(中略)…もし上流で堤防が切れていなかった場合は毎秒8000立方メートル程度の流量となり、岐阜市を始めその下流地域では一層甚大な被害を被ったものと想像されます。続いて、昭和36年6月洪 水においても三度岐阜市上流において大きな被害が発生しました。
 その後、上流部は災害復旧や中小河川改修が進み、岐阜市周辺の堤防も相当強化されて来ましたので、当時の洪水が起これば下流部の河道に相当の負担がかかり、現在の施設だけでは非常に危険な状態にあります。…(略)…

「左岸(鏡島)引堤計画ー昭和43年度から早期完成の必要性ー 」
  前述のように上流の改修が進んだ現在では今まで以上に危険な状態であり、岐阜県の中心である県庁を核としてますます発展する岐阜市南部の地域開発と相まって強固な堤防が必要となってきました。……(中略)…土地改良事業の協力を得て引堤による潰地約44000平方b移転家屋約100戸の内移転先の…(略)また、この引堤計画の実施と合わせて県においては新しい合渡橋の架替え計画を…(後略)…

実際は、鏡島地区(用地買収4.5ha、家屋移転101戸)の用地交渉は、昭和42年度から始まり、築堤工事は鏡島から江崎までの延長1550m間で昭和47年度から着工されました。 
 

A 昭和48年「岩戸川の改修計画」 

 雨のたびに水浸しになる岐阜市梅林地区の内水対策として、昭和48年度から7ヶ年計画で、河川管理者の県にかわって岐阜市が、湛水のもとになっている岩戸川の改修事業に乗り出しました。
 排水をよくする河川断面の拡大をめざす工事ですが、これに合わせて岐阜県が行う本流の荒田川の改修事業が完成すれば、梅林地区の浸水の悩みは完全に解決できることとなり期待されました。

 これらの計画が進められていた昭和49年7月そして51年9月に、またまた大きな被害を被る水害が起きたのです。

○この文章は、下記の文献を下に後藤征夫がまとめました。
<参考文献>

・「岐阜市史・通史編・近代」 
・「岐阜市史・史料編・近代」(昭和55・56年・岐阜市)
・「岐阜市史・通史編・現代」
・「岐阜市史・史料編・現代」(昭和55・56年・岐阜市)
・「岐阜県史・通史編・近代下」
・「岐阜県史・通史編・現代」(昭和48年・岐阜県)
・「わかりやすい岐阜県史」(平成 年・岐阜県)
・「木曽川上流・80年のあゆみ」(平成12年・建設省中部地方建設局・木曽川上流工事事務所)
・「岐阜県治水史・上」「岐阜県治水史・下」(昭和28年3月・岐阜県)
・「ふるさとの想い出・写真集・岐阜」(昭和58年・国書刊行会・丸山幸太郎・道下淳共編)
・「写真集・岐阜百年」(昭和61年11月・中日新聞社)

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