長良古川と古々川の締め切りと岐阜特殊堤

1.締め切り工事が始まるまで


昭和の初めころの長良川

 長良川は、昭和の初めまで、長良橋の下流で3つに分かれて流れていました。
 左の写真はその時のようすを写したものです。まん中を流れるのは長良古川で、早田と則武の間を流れました。右側の川は長良古々川で、則武と鷺山の間を流れました。そして左側を流れるのが今の長良川 で、以前は井川と言われました。(註1) 
 大雨が降ると、古川・古々川にも水が流れ、ときには水が堤防を乗り越えてあふれ出し、家や田畑を荒らすことがたびたびありました。そのため古川・古々川の周辺には川原や荒れ地が広がっていました。また川岸には竹やぶや松林がありました。

 

ー長良川上流改修工事記念碑ー

 毎年のように水害に苦しんできた則武・島・木田・鷺山など川北に住む人たちは、水害の一番の原因である長良古川・古々川のしめ切りを願い、運動しました。
 明治の初めまでは、長良や福光、川南の加納輪中の人たちの反対にあってできませんでした。しかし1900年(明治33)頃からは、川北の人たちが共同で締め切り工事が実現するように訴えるようになりました。
 その結果、1900年(明治33)に木曽三川の下流改修工事が終わると、国会で上流改修工事が取り上げられました。しかし国はなかなか工事に手をつけようとはしませんでした。たまりかねた川北の村の人たち(川北水害予防組合)は、1916年(大正5)川南の岐阜市や稲葉郡の村の人たちの協力、県知事や県議会・国会の議員の応援なども得て、早く工事を行うよう国に働きかけました。そしてようやく1933年(昭和 8) 国は長良川右岸(川北)工事にとりかかったのです。


ー年表「上流改修工事が始まるまで」ー

2.締め切り工事のようす


ー昭和の初め頃の旧忠節橋と長良川堤防ー

 長良川上流改修工事の中心は、長良古川・長良古々川を締め切る工事と、右岸の江口から福光までの約6キロメートルの新しい堤防づくりでした。
早田馬場と福光の間で、長良古川・長良古々川をしめ切って堤防をつくるにあたり、長良川本流の掘削・新堤の築堤と同時に、川幅を北に拡げることになりました。
 川幅を北に拡げて新しい堤防を築くためには、早田と島地区で約300戸ほどの家が立ち退かなければなりませんでした。特に島田、池の上、橋本、岩倉、馬場の人達の多くは、宅地や耕地が川底になってしまうということからとても深刻でした。水害を取り除くという点では賛成したくても、宅地・耕地の減少、新しい土地への移転、今後の生活への不安がつきまとうのです。

 そんな中、昭和7年(1932)10月稲葉郡川北水害予防組合は、「…廃川堤敷地ヲ川北組合ヘ払下ケラレタル場合ハ、其ノ儘島村ヘ払下クコト…家屋移転ニシテモ適当ノ補助ヲ支出スルコトニ委員一同努力スヘク候也」という覚書を確認しました。そしてその4日後に島村村議会は「……長良川本川改修工事本村犠牲者ニ対シハ同組合ヨリ払下ノ儘払下ヲナスモノトシ…支派川改修犠牲者モ亦右ニ準ズルモノトス」と決議したのです。


ー早田地区の移転のようすー

 


ー東島地区の堤防改修工事のようすー

 こうして、翌年の8年(1933)から改修工事が始まりました。工事に必要な土や石を運ぶのに、外国からとりよせた機械や蒸気機関車を使いましたが、馬が引くトロッコのほかに、多くの男の人たちがもっこで土や石を運びました。完成するまでの6年間でおよそ20万人の人びとが働きました。 

「改修工事ようす」(岩倉・Mさん)

昭和8年改修工事が始まった。西は島田の方から東は馬場から古い堤防を壊し、川幅を拡げ堤防を広く高く築きながら、下からは池の上・橋本、上は馬場・岩倉の順に進行していった。その間、実に6年の歳月を要した。忠節橋の所で、もとの川幅が173mを266mに拡げた。およそ10│0mも広くなった。金華橋の所で220mの所を302mに広めた。堤敷は24mを55mに、堤の高さは約6mを9mに、それぞれ大きく作り直したわけである。…(中略)… …堤防の土は、長良古川の川原、今のグランドのあたりから電話局、そして川崎アパート、西は伊奈波中の所までの川原の土を掘って運んだ。川舟が砂をとるときのような機械で、スコップが輪のような所にいくつもついたものをぐるぐるまわして土を掘った。深い所は3mから4mもあった。その土を10台ぐらいのトロッコに積んで、小さい機関車で引っ張って運んだもんや。馬もトロッ コを3台ぐらいは引っ張った。毎日だいたい、百人ぐらいの人が働いとった。一部、北堤防や尉殿堤(じょうどのつつみ)の土も使ったが、殆どは古川の川原の土を使った。…(後略)…

以前は、忠節橋の所で173mだった川幅が266mに広げられ、堤防は堤防敷で元の幅の約3倍、高さも1倍半ほど高くなるなど、強固な堤防に生まれ変わったのです。
 こうして、川北の人たちが願ってきた締め切り工事は、1939年(昭和14)、ついに完成しました。

3.岐阜特殊堤を築く


ー以前の川南の堤防(東を臨む)ー

 川北の堤防工事と合わせて、川南の堤防も今まで以上に強くしなければならなくなりました。長良橋のあたりから忠節橋までの堤防が切れると、岐阜市中心部から加納までが水浸しになってしまうからです。
 この地域は市街地で、堤防に沿って家屋が連なっているため堤内側への堤防拡築は困難でした。また水深が深く川側への堤防拡築もできない事情がありました。


ー現在の岐阜特殊堤(西を臨む)ー

そこで、1933年(昭和8)から7年の年月をかけて、特別にたくさんの鉄骨やコンクリート・玉石を使った堤防工事が行われました。これが「岐阜特殊堤」と言われているものです。石垣は、水の力を弱めるために曲線で造られ、水かさが増えてくると、手すりの溝にたたみを1枚ずつはめこんで、少しでも高くなるようにしました。




4.古川(伊自良川)の付け替えと旧合流点の締め切り


ー締め切られた堤防(島大橋付近)ー

ー古川改修記念碑(西中島)ー

 長良古川(伊自良川)は、従来、一日市場において本川に合流していました。そのため大水になると長良川の水が逆流し、古川流域の木田・島・則武・黒野・方県・鷺山などが大きな水害を被ったのです。改修計画では、これを約1200m下流の寺田に付け替えることとし、下流部は延長約2000mの新水路を開削、両岸に新堤を築堤し、上流部は尻毛橋まで在来堤を拡築することになりました。
 昭和9年(1934)から工事に着手。掘削と並行して護岸・築堤を進め、昭和15年(1940)新川の護岸も竣工し新堤築造も大部分完成しました。
 しかし、その後は第2次世界大戦のため進みませんでした。終戦後の昭和25年(1950)新川付け替え箇所の上流部締め切り工事に着工し、護岸と並行して施工して翌26年にようやく古川合流点の付け替え工事を完成しました。また 旧合流点の締め切りに着工し、27年度までに完成しました。


5.川のあとの開発と今


ー古川跡地のいろいろな施設ー

 川の締め切りによってできた川や堤防のあと地がいろいろなことに利用されました。初めにつくられたものは、県や市の公共施設でした。
 1944年(昭和19)に岐阜市立中学校(昭和16年創立。今の岐阜北高校)ができ、その後、岐阜県総合運動場などができました。長良古々川のあとの鷺山方面は、1955年(昭和30)頃から、消防署や保険局、市営や県営住宅などが建ち、それにつれて商店が並んでいきました。また長良古川のあとの近島付近は、県営の住宅やアパートが次々と建ち、住宅地となりました。
 それまで畑だった所も区画整理が進むにつれ、さらに多くの住宅や商店ができました。そして今では、農家が多かった川北の地域では、専業農家の家はわずかになってきました。現在、川北の地域に、メモリアルセンターや国際会議場、未来会館、そして早田小や清流中、県岐商、北高校、希望ヶ丘学園などの学校などが並んでいるのは、こんな理由があったのです。


<これを読まれた皆さんへ>
 この文章を参考に、実際に川北や川南の地域や堤防を歩いてみましょう。水害に関係したもの、工事のあとや記念碑、川原のあと(やや低くなっているはず)や堤防のあと(高くなっているはず)を発見できると思います。

<註@について>
「古川」「古々川」の記述については、以下のように2説があります。ウは川の流れができた年の順に北から「古川」「古々川」「井川=現長良川」としている。しかしア、イ、エは年の順とは関係なしにそれぞれを固有名詞として北から「古々川」「古川」「井川=現長良川」としている。


ア、→「方県郡長良村の南を流れ、長良川と称し(古川)厚見郡早田村を経て木田村で伊自良川に流 入していた。…天文3年(1534)洪水で一大河川となり、長良村の南を経て早田村馬場で井水口を  破って新しい川筋(井川と称し、現長良川)を作り、……さらに、慶長16年(1611)の洪水で長良村崇 福寺前へ新川(古古川)を分派し、方県郡鷺山村・正木村の南を通って木田村で伊自良川にはいる ようになった。この結果、北から古々川・古川・井川となった。平常、水は井川(現長良川)を流れ、 増水時には古々川・古川にも流れた。」(角川・日本地名大辞典・岐阜県)

イ、→「天文3年(1534)9月の洪水により、…芥見村に於いて津保川と合流し古川筋を流れ、又慶長 16年(1611)の洪水で本流は古古川の地点を流れる至り。さらに元禄宝永(1688〜)の頃より水は  主に井川即ち今の長良川を流れるに至ったもので…」(岐阜県治水史・下巻)

ウ、→「長良川は、厚見・方県両郡の境界としての中大川通(古古川)。慶長年間(1611)洪水で生じ  た古川通り(崇福寺前〜鷺山南〜正木)。それに川南の厚見郡へ水を取り込む井川通があった。  慶長以前は、本流の郡境川に対し井川(現流)があったと推定される。」(VIVO41号・地名をあるく  ・シリーズ8回・丸山幸太郎)

エ、→北から「古々川」「古川」「現河川」の記述(木曽川上流80年の歩み・木曽川上流工事事務所)

<註Aについて>
「工事に着手・完成」などの文中および年表の年号については、文献によって違いが見られます。私は木曽川上流工事事務所(国土交通省)の「木曽川上流80年のあゆみ」の記述に基づきました。



○この文章は、下記の文献をもとに、後藤征夫がまとめたものです。

<参考にした本・資料>
・「わたしたちの岐阜市」(岐阜市小学校社会科研究会:平成5年4月1日発行)
・「わたしたちの岐阜市」(岐阜市小学校社会科研究会:平成16年4月1日発行
・「岐阜県治水史・下巻」(岐阜県)
・「岐阜県史・通史編・近代下」(岐阜県)
・「岐阜市史 通史編(近代)」(岐阜市)
・「島郷土史」(島郷土史編纂委員会)
・「ぎふ早田郷土誌」(早田郷土誌編纂委員会)
・「岐阜市合渡の歴史」(合渡広報会連合会)
・「ふるさとの思い出・写真集・明治・大正・昭和の岐阜」(図書刊行会)
・「特別展・岐阜市民のくらし100年」(岐阜市歴史博物館)
・「木曽川上流・80年のあゆみ」(木曽川上流工事事務所)

Copyright (c) 2010 「お話・岐阜の歴史」サークル All Rights Reserved.
inserted by FC2 system