満蒙開拓青少年義勇軍

−多くの青少年を満州・戦地に導いたものは?−

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1.はじめに

-満蒙開拓慰霊塔(栗田中隊)-   -拓友之碑(旧横山中隊)-    -拓魂(田中中隊之碑)-   .

 岐阜公園の北部に日中友好庭園があります。この庭園は岐阜市と中国杭州市が友好都市提携10周年を記念して1989年(平成元)に造営されたもので、岐阜・杭州友好盟約記念碑などの他に、満蒙開拓青少年義勇軍関係の3つの石碑が立っています。
 石碑の碑文を読むと、栗田中隊は昭和16(1941)年美濃地方の若人265名で編成された義勇隊、横山中隊は昭和18(1943)年に全県の青少年267名で編成された義勇隊、そして田中中隊も昭和19(1944)年に14歳ほどの232名で編成された義勇隊の石碑でした。そして、いずれも、生き残った人びとが異国の土と化した亡友の冥福を祈りその拓魂を後世に残そうと建立されたものでした。
「いったい満蒙開拓青少年義勇軍とは何だったのだろう?」「70〜80年前、多くの若者がなぜ満州へ開拓に行くようになったのだろう」「終戦によってどうなったのだろう?」などと疑問が出てきました。

2.「満蒙開拓・日中戦争」へ走った日本の状況

 昭和初期の世界恐慌の影響は深刻で、とりわけ農村住民の生活は困窮をきわめていました。米その他の農産物価格の暴落、養蚕は繭価格の下落によって打撃を大きくしました。さらに産業の不振は失業者を増加させ、小作争議が頻発するなど、社会情勢はますます悪化の傾向を示していました。
 そんな中、日本政府と軍部は、不況脱出のはけ口を大陸侵略に求めようとしました。

 昭和6年(1931)の満州事変、そして昭和7(1932)年の満州国建国を契機に満州国への移民が本格化し、「五族協和・王道楽土」などをスローガンにキャンペーンが大々的に行われました。それは、「日本の天皇制のもとに、日本民族、漢民族、朝鮮民族、満州民族、蒙古(モンゴル)民族の5つの民族がともに暮らそう」とするものでした。その中核が「満蒙開拓移民団」です。
 開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」(現地の盗賊などが襲ってくる)を理由に、既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、新たに設定した「集団部落」に強制移住させるのです。そして、満州拓殖公社がこれらの「無人地帯」を強制的に買い上げ、日本人開拓移民を入植させる政策が行われました。
 現地農民のほとんどは、自らの耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗したため「匪賊」の対象とされ、これを抑えるため関東軍(満州に駐留した旧日本陸軍の部隊)が出動しました。そして、満州移民は軍隊や官公署との連携をとりながら満州国内の治安維持を担うことからも「自衛移民」と言われ、軍隊に準じた編成で武器を装備していました。


ー県庁前で出発式(昭和17年)ー

 その後、昭和11(1936)年、日満両政府は「20ヵ年100万戸」の大量開拓民計画を立て、実施に着手しました。昭和11(1936)年には2万人の家族移住者を、昭和13(1938)年から昭和17(1942)年の間には20万人の農業青年を、それぞれ送り込みました。
 岐阜県からの満州への送出は、昭和11(1936)年以後、38回・延べ9600人ほどもあり、全国で7番目の送出県となりました。その内、戦後の引き揚げ人員は5683人で、死亡人員3589人と未帰還人員357人を合わせると41%の人が日本に帰ることはできませんでした。

 戦局の悪化や拡大による兵力動員で、昭和15(1940)年頃からは成人男性の入植が困難となり、14歳から18歳ほどの少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となっていきました。
 少年らは茨城県水戸の「内原訓練所」で2ヶ月間訓練され満州へ送られました。その後さらに現地の「満州開拓青年訓練所」にて3年間軍事訓練を受け、各地へ開拓 移民として配属されました。対ソ連への戦略的観点から、主にソ連国境に近い満州北部が入植地に選ばれました。

3.岐阜県における送出青少年義勇軍


<岐阜県の郷土中隊(県内出身者だけで編成)一覧表>
年 度  中隊名
 指導者
隊員数(主な出身地など)
・内原訓練所入所日
 昭和15年
 (1940)
 脇田中隊
  脇田他4名 
 隊員230名(全県)
   ・15年5月1日入所 
 昭和16年
 (1941)
 英 中隊
    英他4名
 隊員235名(飛騨・東濃など)
   ・16年3月7日入所 
 昭和16年
 (1941)
 栗田中隊
  栗田他4名 
 隊員231名(岐阜・西濃など)
   ・16年3月8日入所 
 昭和17年
 (1942)
 伊藤中隊
  伊藤他4名
 隊員312名(全県)
   ・17年3月5日入所 
 昭和18年
 (1943)
 横山中隊
  横山他4名 
 隊員267名(全県)
   ・18年3月4日入所 
 昭和19年
 (1944)
 田中中隊
  田中他4名
 隊員241名(全県)
   ・19年3月15日入所 
 昭和20年
 (1945)
 松永中隊
  松永他4名
 隊員240名(全県)
   ・20年3月21日入所
−「岐阜県満州開拓史}p478より−

 岐阜県における満蒙開拓青少年義勇軍の送出は、昭和14(1939)年が最初でした。全国 の他県出身者と一緒になって編成・送出された人員は、合計29回・923人でした。
 そして岐阜県だけで編成した郷土中隊は、15年から終戦の20年までで、7中隊合計1782名でした。
 
義勇軍の編成あたってはまず幹部の確保が必要ですが、年若い250名程の隊員(青年学校、小学校の卒業生)を託すには、やはり教育に従事している者が最適任者とされました。そのため多くの郷土中隊長は、中堅訓導(当時の教育職名)から選出されました。
 
だいたい3月中旬までに中隊が編成され、送出の壮行会が主として岐阜市公会堂(現在の岐阜市市民会館)で行われました。知事の壮行の辞、来賓の祝辞などを受け、伊奈波神社で前途多幸を祈念して、市中行進を行って、岐阜駅から茨城県・内原訓練所に向かいました。


4 「青春の追憶」から
     ー満州開拓義勇隊・栗田中隊岐阜開拓団の記録ー

(1)志願・入隊まで(昭和15年〜昭和16年3月7日)


−付知町青少年義勇軍−

●昭和16(1941)年といえば日中戦争の緒戦の勝利に沸きながら、旗行列、提灯行列、英霊の出迎え、またバケツリレ−による消火訓練が盛んに行われ、紀元2600年の祝賀行事が行われた翌年である。
 一方、世界の経済封鎖と戦費調達のため、国民総耐乏生活を余儀なくされ「欲しがりません勝つまでは」と叫ばれていた。当時14歳の少年達には否大人達でも世界の情勢など大本営発表を伝える新聞でしか知る術はなかった。


−県庁前に勢揃いした郷土中隊−

我が家はまた極貧で新聞配達や箱屋の小僧、内職の手伝いなどでどうにか義務教育を終えるのが精一杯であった。また世間の農業も同様二三男の口減らしに躍起になっており、義勇軍志願は格好の場として宣伝された。
 当時の満蒙政策に私達少年は何ら知る術もなく、ただ五族協和・王道楽土建設の旗をかざし、将来は10町歩の地主になることを夢見て勇躍渡満した。あとに続く苦難の道など誰一人知るよしもなかった。
 (大垣市出身・Kさん)


−岐阜駅から出発−


●昭和16(1941)年3月7日、赤いタスキをかけて、日の丸の旗で見送られて、我が家を後にする。14歳と3日であった。8日に茨城県の義勇軍内原訓練所に入所する。
 今でも小さいが、当時1m40pなかったと思う。人は言う「よくも小さな時に行ったものだ」「偉いもんだ」等々。本人にしてみれば、世間のことを何も知らない子供だから行ったのだと思う。何も深く考えて行った訳ではなかった。満州行きを勧めた先生が、後日同窓会で会うと侘びを言われることがあったが、先生を恨んでいる訳でもないし悔やんでいる訳でもない。その当時、家ではずいぶん反対もされたし、母親の悲しげな顔も見た。上の学校に行くことにあまり意欲がなかったし、「義勇軍に行けば学校へ行ったと同じ資格がもらえる」などと言われて、家で相談する前に先生に「行く」と言ってしまい、引っ込みがつかなくなってしまったところへ家で反対されて、つい突っ張ってしまったのだと思う。当時兄が満州に行っていたことも一部あったかもしれない。最終的にはあきらめてもらって、送り出される時、氏神様の貴船神社で小さな石を1個ポケットに入れて、心の中で「さようなら」を言う。村長さんはじめ、学校生徒、村人に出征兵士と同じようにして送ってもらい、岐阜公会堂で岐阜県出身者415名が勢揃いして2個中隊となり壮行式が行われた。
(揖斐郡出身・Kさん)

(2)茨城・内原訓練所(昭和16年3月8日〜昭和16年6月2日)


−内原訓練所・日輪兵舎前−

●内原では最年長18歳までの者が同一行動・非常招集・駈け足・行軍など、体の小さい自分にはきつかった。初めて見る日輪兵舎という丸い家。内部は一階と二階になっていて二階に入れられる。上り下りは垂直に立てられたハシゴが二つ。
 ふだんには不便はないが疲れて眠っている夜中に非常招集。暗い中で服を着てハシゴを下りる。手探りで靴を探しゲ−トルを巻いて外で整列その間3分間。下の階の者は足下の靴を履いてすぐ外だから良いようなものの、自分ら二階に入れられた者は大変だ。一度に狭いハシゴに大勢が殺到する。時間が切れたら入口の戸を閉められて、内部に残った者はしぼられる。すぐ覚えたのが先ず服を引っかけたらゲ−トルを持ってハシゴを下り、靴を手に外に飛び出す。外で服を着て靴を履き、片足ゲ−トルを巻いたら、もう片方は巻きながら並ぶ。それでどうにか時間一杯。足の太い短い自分にはゲ−トルは不向きだ。駈け足の途中で、ずれて困った。
(揖斐郡出身・Kさん)


(3)郷土訪問・家族と面会・別れ(昭和16年6月3日)



−郷土訪問・市中行進−

●16年6月2日、渡満のため内原訓練所を出発。3日は岐阜でラッパ鼓隊を先頭に市中行進。伊奈波神社参拝、西別院で久しぶりに家族と面会。心づくしのご馳走も「手を付けるな」との命令で見るだけにして、わずかの時間で別れを告げ、岐阜駅での別れは全員着席。「御霊静め」の号令で目を閉じて、手を組んで、一言も口をきかず、汽車の中と外。汽車の動きと共に親・兄弟との静かな別れであった。
 伊勢神宮に参拝。6月5日敦賀港から熱田丸で出港。初めての船旅。波の荒い日本海その上に嵐、船は大揺れ、船底でごろごろと転がっていた。青津に上陸した時は、しばらく陸地が上下にゆれる感じでうまく歩けなかったことを覚えている。
(本巣郡出身・Aさん)

(4)満州・一面坡(いーめんぱ)、鉄驪(てつれい)訓練所
     (昭和16年6月11日〜昭和19年3月?日)


−道路工築−

●渡満第一歩が一面坡訓練所であった。入所一ヶ月で関東軍特別大演習に徴用され勤労奉仕として、砲兵部隊に勤務。その後東安停車場の飯炊き・炊事をするのが役目となる。大東亜戦争(太平洋戦争)夜明け前のできごとである。
 ここは、ソ満国境に日本軍の大集結で、輸送列車で送り込まれる兵隊の食事とお茶の配給所である。早朝といわず夜といわず、間断なく送られてくる兵隊・馬。何時到着列車・何百人と、時間とのたたかいで食事を作る。その次が何号車・何人と飯びつに入れ、列車が着くたびにホ−ムに運ぶ。受領する兵隊が降りて来て敬礼して「何人分受領しました」と言って持って行く。
 客車もあり貨車を二階に作った列車もあり、満鉄の列車も総動員であった。馬の輸送列車が来ると大変であった。水を汲んで何百杯と運ぶのであるから…。


−栗原中隊・畜産部−

 兵隊達も召集されて満州の地に来て、輸送中の列車内の食事はあまり良くなかったが、東安ではどの列車にも「みそ汁」タマネギとばれいしょと魚の缶詰を入れた煮付けを出していたので、見て は喜ぶ様を我が事のように思い、また「郵便を出してくれ」と頼まれた事も度々あった。15歳の我々少年を見て、年輩の召集兵達も話しかけて来た。「ご苦労様」と言い交わして別れる。それでもここの勤労奉仕は内原、一面坡訓練所と違い、毎日が腹一杯食べられたことが育ち盛りの我々には嬉しいことであった。
(揖斐郡出身・Hさん)
 


−鉄驪訓練所・昭和17年ー

●開拓・村づくりには多種多様な開拓技術が要求される。従って現地訓練所は各種の専門的技術者養成を目的として行われ、団移行の即応体制を3ヵ年で習得しなければならない。鉄?訓練所本部は各中隊より派遣された特技生で各小隊を編成し、特技班ごとに別れて訓練を受けることになる。また中隊においても独自の特技班を置き、特技班の交代が行われた。
(岐阜市出身・「栗田中隊記録」Aさん)

●北満の9月は朝夕の冷え込み厳しく薄氷が張る。警備、完全越冬準備作業が始まる。長い冬を越すために何をするか。幹部も我々も初めてであり、第一が完全防寒地下室の野菜貯蔵庫の建設に取りかかる。幅4m・奥行15mの穴掘りから始める。軍勤の時戦車号令掘った経験があり、仕事がはかどる。材木の切り出し運搬も、原生林があり、洋草刈りは前の湿地帯で各班に分かれての作業である。切りだした丸太を組み柴を乗せその上に洋草を敷き土を盛り中央に換気口を作り完全防寒地下室である。
(岐阜市出身・「栗田中隊記録」Aさん)

●昭和17年大陸の春を待ちかねて、単調な学科や軍事訓練、たまの伐採作業と長い長い冬の生活から一挙に農場へと解放された。訓練所本部から大隊長に示された営農自給方針は単に農業に関する知識・実地技術指導に止まらず、人間の食糧・家畜の飼料確保を目的として、自給自足を原則とする厳しいものである。……戸惑いながらも4月下旬より凍土の地表20センチぐらいがようやく耕地可能となり全員が農場に出勤する。大陸の実地農耕の成否は、この解氷期を利用して適期蒔き付けの如何により決するのである。…我々中隊では冬の野菜不足のため、蔬菜作りから始めた。
(岐阜市出身・「栗田中隊記録」Aさん)

(5)開拓団に入植、敗戦、そして引き揚げ
     (昭和19年3月14日〜昭和20年10月5日)


−後輩に見送られて開拓団へ−

●昭和19年3月所定の訓練を終え、いよいよ自分たちの永住の土地、北黒馬劉に先遣隊が入植。私は事情があって入植が遅れ9月の入植であった。大東亜戦争(太平洋戦争)の戦況は日に日に暗さを増して行く。情報は悲観的な事ばかりである。年輩者は次々と召集を受け入隊していった。         (本巣郡出身・Oさん)

●天地根元造りと称して土の中に草屋根を作り、床は土の上に草とアンペラ(ムシロの一種)を敷いて、その上での生活であった。作業は開墾と畑仕事であったが、秋口には年長者から兵隊に行った。少ない支給品の衣服を売って煙草や酒を買う者が多いため、中隊長が全員に煙草の配給を受けるようにした。10月から11月にかけて本建築が完成して入る。風呂はまだ外で体は湯の中でも頭の髪は凍ってシャリシャリしいてた。
(大垣市出身・Kさん)


−収穫の喜び−

●農事に追われる折柄、戦況は悪化。同志の大部分は現地召集により北へ南へと残り四十余名で開拓団を守ること一年余り、8月ソ連との参戦と同時に我々にも召集令状が来た。当時18歳、開拓団の整理もそこそこに残留組5名を後に8月15日ハルビン部隊に入隊と同時に敗戦の報告を聞いた。当日に入隊解除となり、再び開拓団に戻った。
 敗戦後は帰国準備にあわただしい日々だったが、毎日のように受ける襲撃に同志が次々と傷つき倒れていった。10月2日早朝一千余名の大集団による襲撃にあい、私も左手腕に3発右足に1発の散弾を受けましたが同志に助けられ、この日を機に第二の故国岐阜義勇隊開拓団を後に帰国の途についたのだった。
(岐阜市出身・Yさん)

●9月末頃には、本部の西方にあった八紘部落が襲撃されたと報が入り、二人で様子を見に行く。被害は小さかったが土匪の引き上げた直後。帰ろうとしても異様な雰囲気に馬が怖じけ付いて動かない。やむを得ず歩いて帰ることにする。自分一人拳銃を何時でも撃てるようにして、暗い中本部に向かう。途中、道際の畑の中で葉擦れの音がカサッとする。とっさに道に伏せる。両方とも全然動かない。しばらく長いような短いような時間が過ぎる。畑の中から「誰か」と誰何(すいか)してくる。日本人だ。ホットする。…Yさんだ。槍を持っている。部落が心配で様子を見に行くところだと言う。一つ間違えれば同志打ち…。
(大垣市出身・Kさん)

(6)シベリア行き、そして引き揚げ・帰国(昭和20年10月5日〜昭和24年)


−仲間とともに−

 ●力の限り荷物をもって10月5日黒馬劉四国村を後にする。道中二カ所で匪賊が出たが保安隊の交渉で難なくすんだ。…とうとう裸一貫になり食糧もなく営林署の材木工場が難民収容所となり難民生活が始まる。こんな生活はしたことがない。何もやることがなく鉄道の近くだから毎日毎日ソ連行きの列車ばかりで南に行く列車はない。…
…しばらくして南下できることになり、ハルピンの花園小学校に収容、落ちつく。花園小学校ではソ連兵が「駅前に建立する記念塔に難民を使役に」と自動車で迎えに来る。重労働であったが敗戦国では仕方がない。また12月になり寒さと食糧不足でのため15歳未満また40歳以上の人たちが次から次へと死んでいく。トキワ百貨店収容所では毎日30人ほど死んで、その遺体運びに使役として行くことが数回あった。発疹チフスが流行しだしたのかも知れないが、我々誰かが感染してきたのか皆の者が発熱し病魔に倒れていく。
(揖斐郡出身・Tさん)


●綏稜の営林署公舎に収用されているうちにソ連兵が来て、我々男の身体検査をして、少しでも良い物を着ていれば脱がせて持って行く。婦女子に対しては強姦する。女の人は髪を短くしたり顔を汚したりして男の服を着て、我々の所に来ている人もあった。腹が立っても手の出しようがない。…
 駅に着いたら丸腰の日本兵が列車に一杯乗っている。聞いたらこれからシベリア行きだと言う。何とか逃げ出そうと試みるが、ソ連兵が見張っていてダメだ。…拉致されると直感。皆急に動かなくなる。すると、一人一人に、何という銃か知らないが続けて何発も撃てる銃の口を突きつけて、無理矢理乗せる。のろのろと一人ずつ乗っていく。
…そのうち、白系ロシア人の家へ働きに行く。収容所の方には、時々ロシア人の神父がパンクズを袋に入れて持ってきてくれるが、子供たちが寄ってたかってもらっている。我々は、一日にコウリャンかアワのにぎり飯2個だ。寝るのは板の上かコンクリ−トの上だ。屋根があるだけ良い。着る物は着たきり雀だ。そのような状況だからシラミは湧くし、寒さと栄養不良で弱ったところへ発疹チブスは蔓延し、年寄り・子供・女の人が毎日何人か死んでいく。比較的元気な我々は、埋葬使役にかり出されるが、働きに行っていて呼び出しを受けても不在の事が多い。ついに収容所から追い出される。
(大垣市出身・Kさん)

●8月29日貨車に乗るが、日本に帰れると思ったのも束の間、列車は北に向かって動き出す。ソ連軍の俘虜となって連行されている列車には銃剣のソ連兵がおり、列車が止まると歩哨に立ち逃亡者を監視する。シベリア鉄道に入り、ハバロスク地区に9月1日早朝到着、下車。一面銀世界である。夏物の軍服の着の身着のままで寒いこと。今日中に宿舎を作って今夜寝るようにせよと命令が下り、40人用の堀穴式の宿舎を作る。食事は粗末なで空腹を満たすものではない。その上に仕事は「ノルマ」の連続で働かざる者は食うべからずというが、日本人の俘虜や日本軍の兵隊を芥のように扱い、伐採・運搬・鉄道工事と一週間ぶっ通しの作業現場での食事やら野宿をさせられ、銃剣でおどされ、鬼畜の重労働に40歳前後の人は体の回復もなく疲れ果て死んでいく。若い者も病気に苦しみ、明日は我が身とと思って、生きる希望だけの闘いであった。
 昭和20年11月23日ナポトカ収容所に入る。それでも生きて帰れる日を待った。そして、昭和23年12月1日、昭和16年6月敦賀港を後にしてから7年半ぶりに見る舞鶴港を囲む山々に涙がにじみ出た。
(揖斐郡出身・Mさん)
     

5.おわりに

 岐阜県郷土中隊・栗田中隊(昭和16年3月)だけで、隊員231人のうち30人(戦死21人、未帰還1人を含む)が現地で死亡され、生きて日本に帰ることはできませんでした。そして「満蒙開拓青少年義勇軍」郷土中隊7団全体では約230人が死亡されたようです。

 その他にも満州開拓団が、「集団○次開拓団」「分郷集合○次開拓団」「分村集合○次開拓団」などいろいろ形態で編成されましたが、これらの満州開拓に参加した岐阜県人は、全部で40回・合計で約1万人にものぼりました。
 そのうち5683人が日本に引き揚げて帰られましたが、未だ4000人ほどが未帰還の状態です。戦死されたり現地で死亡されたりしたのでしょうか?

付記 ● 岐阜公園にはもう一つ、日中友好庭園の東、岐阜護国神社鳥居北に「満蒙開拓青少年義勇軍伊藤中隊の石碑」があります。(2012年3月に岐阜公園整備・発掘調査により千畳敷から移転)

○この文章は、下記の文献・史料などをもとにしながら後藤征夫がまとめました。
 このテ−マは、私が小学生の頃「どうして『征夫』という名前をつけたの」と父親に尋ねた時から、心の中に課題として残っていたものです。…急に表情を変えた父親は、私が生まれた頃の世相、戦時中の世の中の様子や教育の内容などについて話し始めました。「男の子が生まれたら戦地に兵士として行く」「とくに次男・三男などは…出征する夫」…そして教員だった父親自身が多くの子供を戦地に送ったこと、満蒙開拓青少年義勇軍に志願するように勧めたこと等々……。
 それ以後、いつかは詳しく調べたいと思いつつ年月を経てしまいましたが、今回思い切って史料を集め本を探しながらまとめてみました。
 直接体験された人を紹介していただいたこともありましたが、高齢になられているので遠慮させていただき、栗田中隊の記録「青春の追憶」を紹介する形でまとめました。ご協力いただいた方々に、厚くお礼を申し上げます。

<参考文献>
・「岐阜県満州開拓史」(昭和52年10月30日・岐阜県開拓自興会・編集発行)
・「岐阜県史・通史編・近代上」(昭和55年9月1日・岐阜県編集)
・「岐阜県教育史」別冊1ビジュアル版(平成17年12月26日・岐阜県歴史資料保存会)
・「満州開拓第四次義勇隊(栗田中隊岐阜開拓団)青春の追憶」(平成3年9月22日・栗田会)
・「満蒙開拓移民」(フリ−日百科事典「ウィキペディア」)
・http://minoworld.web.fc2.com/manchuria26.htm「満蒙開拓団・青少年義勇隊」とは
・http://www.geocities.jp/sh_nihon5_club/jpclub27_071110_kato001.htm「帰国前、帰国後の諸々」
・http://www.geocities.jp/bane2161/manmoukadtakuseisyounengiyuugum.htm「満蒙開拓青少年義勇軍

<付 録> 朝日新聞(2013年1月15日の朝刊)「voice声、語りつぐ戦争」に、3人の方の開拓・引き揚げ等の体験記が掲載されていたので、併せて紹介します。


 「運と体力がある者が帰還した」 ──── 名古屋市緑区 無職・KSさん(88歳)  

 北朝鮮の大都市・ハムフンで生まれ育った私は、高等女学校を卒業後、ソウルの日赤看護学校に進んだ。夏休みで自宅に帰っていて、そこで敗戦を迎えた。朝鮮の人々はみな善良だったが、「マンセイ」の歓声と共に我が家の財産は没収され、知人の住む8畳の部屋で2世帯の生活が始まった。日本人会をつくり、わずかだがコメの配給も始まった。
 開拓団の人たちが大挙してハムフンに来た。神社やお寺にごろ寝し、瞬く間に発疹チフスが流行した。死者は、掘った穴に三段に積み重ねて埋葬された。やがて進駐したソ連兵と朝鮮軍が、町はずれの商業学校を避難病棟にした。私にも声がかかった。バケツで水を流し、縄で磨く。陸軍病院から運び込んだベッドでは足らず、婦人会がわら布団をつくった。
 入院した患者は、体を洗い、全身の毛をそられた後、タラのス−プと黒パンが与えられた。運と体力のある者だけが春を迎えて帰国できる世界だった。


  「中国・大連から引き揚げた日」 ───── 宮崎市  主婦 OTさん(79歳)

 戦争が終わって二度の正月が過ぎた1947年2月、ようやく中国・大連から引き揚げる日が来た。朝5時、35歳の母の背に2歳の弟、14歳の私の背に障害のある6歳の妹。さらに10歳の妹の5人が近所の人たちと、集合地の校庭に急いだ。持ち物は布団袋一つのみ。寒風と足元に残る雪に凍えながら12時間待ち、暗闇に沈む街をトラックで通り、検問所へ。入浴と衣類消毒の後、またトラックで税関へ。埠頭に着いた。倉庫の垂れ幕をくぐる。ソ連兵の脇を全速力で出口に走る。母ら大人の女性が引き留められ、隠し持っていた軍票や宝飾品を没収された。
 私も少年兵に遮られ、布団袋をあけろと言われた。とっさに胸ポケットにあった絹のハンカチを渡した。少年兵は鼻先で笑い、投げて返した。何とか出られたが、おむつと着替えをくるんだ風呂敷包みを盗まれていた。引き揚げ船信洋丸で帰還して65年。100歳の母の祝いに来た弟に話していたら、泣けてしまった。


  「開拓民の辛苦 幼な心に記憶」 ─────石川県白山市 無職 ASさん(76歳)

 父は旧満州・ハルビンの貿易商で、僕たち6人兄弟は全員ハルビンで生まれた。終戦は僕が国民学校3年の時で、ハルビンに旧満州北部やソ連国境にいた満蒙開拓団の人たちが逃げてきた。約2週間後、公園でやせこけた彼らの姿を見たが、しばらくして見なくなった。
 極寒の冬、荷馬車が異様な物を満載して通った。父は僕に見せまいと立ちはだかったが、その荷はかちかちに凍った裸の死体で、千手観音が横積みされたようだった。開拓団の人だったのだろう。国策で中国東北部へ送り込まれた満蒙開拓団は約27万人。1945年8月にソ連が参戦、関東軍に置き去りにされ、悲惨を極める逃避行をして来たのだった。
 1946年秋、両親と僕たちきょうだいは、団体での強制引き揚げとなって帰国した。苦労もあったが、開拓団の方々の苦労を思えば何とも言えまい。



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