近代の長良川舟運(明治・大正・昭和)   

−桑名・名古屋と岐阜を往復した川船…そして石船や灰船など−

はじめに

 舟運は陸送に比べ、経費が安く一度に大量の荷物を運ぶことができます。とくに木曽川・長良川・揖斐川の三川とその支流が網の目のようになっている濃尾平野では舟運が盛んで、地域の産業や生活を支えていました。
 明治時代に入り、従来問屋が持っていた特権や統制が撤廃されたことにより、さらに舟運による物流が伸びていきました。

1.長良川筋の川湊(河岸場)と舟運のようす

 左の図は、明治14(1881)年に現在の岐阜市域で荷船・乗客船を出していた川湊(河岸場)を示したものです。
 これを見ると、長良川本流はもちろんですが、支流の武儀川、伊自良川、板屋川、荒田川の川沿いの村々からも、それぞれ川船が出ていたことが分かります。

→詳しくは、この資料(表)を!
 「明治14年・現岐阜市域  の川湊と乗客船・荷船  (渡船は除く)」


 船の形は全て鵜飼形船で、長良川本流を行き来する船の大きさは長さ10mから14m、幅1.2mから1.8mのものがほとんどで、最大の船は長さ16m幅2.8mでした。

 水量の少ない支流の武儀川、伊自良川、板屋川や、浅瀬が多い長良川上流域など近距離間を行き来する船は、長さ7m幅1.2mぐらいのものが多かったよう                                              です。

 川湊の地域や行き先によって積み込まれる物資も様々ですが、山間部や支流沿いの湊からは米、薪(割り木)や炭、竹や木材、柴木(燃料)川石、茶などが、都市部の岐阜、竹鼻、桑名、四日市、名古屋(熱田)などへ運ばれました。
 また岐阜や加納(長刀堀)などからは、上流の上有知などから運び込まれる物の他、それらを素材にして加工された特産物(和傘や提灯など)も下流の桑名、四日市、名古屋などへ積み込まれました。

 上流の上有知湊(美濃市)などの川湊からは、明治以後も、美濃和紙や曽代糸(生糸)、茶、林産物などが積み出され、桑名や四日市、名古屋(熱田)など伊勢湾の湊町と往来を頻繁にしていましたから、岐阜市域の川湊からの川船を入れると、長良川を行き来する川船は、ますます多くなりました。


ー忠節橋付近から上流を望むー

 別表「明治14年・現岐阜市域の川湊と乗客船・荷船」をよく見ると、長良川筋だけでなく、揖斐川筋の大垣や木曽川筋の笠松などとも行き来していることが分かります。…長良川から木曽川・揖斐川へどのように出入りしていたのでしょう?

 三川分流工事前の時点では(明治20年まで)、木曽川と長良川は現在の東海大橋のやや上流で合流し、国営木曽三川公園の付近で揖斐川と合流するなど、つながっていました。そして物資を運ぶ川船が三川を行き来していました。

 川沿いには犬山、笠松、岐阜、大垣、桑名などの多くの市場が控えていて、名古屋や四日市とも結ばれていました。とくに桑名は舟運の要所で米穀市場や貯木場などもあり、その市場を経由して全国各地に送られていたのです。
 その後、明治35年(1902)、三川分流の扉・船頭(せんどう)平(ひら)閘門(こうもん)が完成し、木曽川と長良川を行き来する舟運に重要な役割を果たしました。 

ー県内のおもな輸出・輸入品目(「岐阜県勧業課年報第3回」明治14年刊)よりー

 上の資料は、木曽三川などの舟運を利用して行われた「県内の輸出・輸入品目」を表しています。
 輸出品では、生糸や太物(衣服の布地)、米、紙、傘などの金額の割合が多く、また輸入品として太物や生魚、小間物、食塩、砂糖などが見られます。

 上流の上有知湊から岐阜・中河原湊、長良湊への所要時間は下り3時間、上りは9時間でした。また千疋から岐阜への通運は下りで約2時間、帰りは3時間ぐらいは必要でした。上流へ向かう時は帆を張って風の力も利用するのですが、人力で引き上がることも多くありました。
 武儀川沿いの中屋から桑名へと行き来した川船については、「午前6時に発し、翌午後4時頃達す。帰船は5日間経る」と記されていることからも、特に上りが大変だったことが分かります。

<芥見・町屋と名古屋の間を往復した荷船の船頭さん(明治26年・1893生)の話>


ー芥見・町屋の川岸ー

 …私が船に乗り始めたのは14歳の時で、名古屋へ初めて行ったのは15歳の時でした。それから38歳の昭和6年(1931)まで、町屋(芥見)と名古屋の間を何度往復したでしょうか。
 その当時使った船は、だいたい3種類ありました。
1.大船で、長さは7間3尺(約13m)、
  幅は約1間(1.8m)
2.中船で、長さは6間3尺(約12m)、
  幅は約4尺(1.2m)
3.小船で、長さは5間3尺(約10m)、
  幅は約3尺余(1m弱)
 中船のことを「瀬取り船」といい、同じ大船でも下流の長良のは9間半(17m)位ありました。芥見から大船に荷物を積むには、二箇所ほど浅い瀬があり底がつかえるので、ほとんど瀬取り船で下流の河渡の湊まで運び、そこで大船に積み替えて名古屋まで運びました。

 千本松原の下の福原で三川分流の扉(船頭(せんどう)平(ひら)閘門(こうもん))を開けてもらい、木曽川に入り木曽崎村から海に出ました。時には長良川をそのまま下り、桑名から海へ行ったこともあります。
 木曽崎から和泉を通り、今の尾張大橋の下から鍋田へ入り、名古屋港へ行きました。それから、さらに堀川運河を上り、お城(名古屋城)のすぐ下、明堂橋まで行っていたのです。
      
 芥見から4日かかりました。帰りは荷の都合で多少は違いましたが、だいたい10日位かかりました。
 船には野菜、醤油(その時分は溜といっていました)…それから、味噌に漬け物、炭、薪、酢となんでも一通りは積んでいきました。米は1斗2升、水まで積んで、船の中での生活でした。途中では、水を補うことと野菜をちよっと買うぐらいでした。三度の食事はもちろん、自炊でおかずの少ない時代でしたから、一日8合の米をペロリと平らげました。
 積み荷は色々でしたが、冬場は割り木(薪)が主で、関、美濃方面から、もちろん地元の物もあり、河原や土堤(堤防)は見わたす限り薪が積み上げられ、見事なものでした。この割り木は、名古屋からさらに瀬戸まで運ばれ、焼物用の燃料として使われたのです。……(中略)……
帰りは干潮を利用して、一斉に運河を下り、海へ出ると安心したものです。
 帰り荷は名古屋で頼まれたものを積むこともありましたが、主に肥料の藁(わら)灰を積みました。木曽崎、長島、和泉あたりでよく積みました。このあたりでは、灰を作る人がたくさんいました。灰ができるまで何日も待つこともありました。船が一杯になるまで待つのです。
 灰を集めて歩く人のことは「灰込み」と言っていました。米俵より目の粗い俵に詰めるのです。灰は芥見まで運んで売りました。関、倉知方面からも、荷車を引いて買いに来ました。
 帰りは、帆(ほ)、竿(さお)、櫓(ろ)などで上ったのですが、瀬の多い所には船を引っ張る人がいました。たいていは百姓の片手間で、三人一組で墨俣から長良までの引っ張り賃は3人分で1円20銭でした。
 長良からは人が交代し、今度は五人一組で4人が引き、1人が船に乗って竿で助けてくれました。引っ張り賃は、5人で1円50銭でした。

2.川船を利用した美濃の人びと


  ー大正中期の奥長良の風景ー 

 明治から大正の時代は、川船は重要な運搬手段だけでなく庶民の便利な足でもありました。「山と水に生きる」に掲載されている人の証言や当時の世相報道から考察することができます。

 まだ鉄道が開通していなかった明治19年(1886)、上京することになった県知事・小崎利準は、笠松から船で桑名に下り、四日市から汽船で東京へ向かいました。
 また恵那郡高山村役人が岐阜出張の際は、高山村から八百津へ出て、黒瀬湊(現・加茂郡八百津町)から川船で岐阜まで一日で来たそうです。

 明治26年(1893)、岐阜中学(現在の岐阜高校)が奈良・京都へ修学旅行に行った時は、「同行者百三十人五月四日岐阜揚げ門(忠節橋の上・現在の金華橋付近)より乗船、桑名上陸。四日市より列車で上柘植下車」。そして伊賀上野から奈良に出たようです。
 
<明治26年・岐阜市日置江生まれの人の話>
 一般の人もその船(荷船)に乗せてもらったもんですわ。岐阜あたりから大藪(輪之内町)や小薮(羽島市)のあたりへ行こうとする人は、ちょっと船に乗せてもらえば簡単に在所や親せきへ行ける。”こころざし”でいいんですよ。人力車でたんとお金出いては容易じゃないでしょ。荷物の横にちょっと乗せてもらうだけやし…。

<明治25年・岐阜市芥見生まれの人の話>
 明治44年岐阜・美濃町間に電車が開通しても、芥見から岐阜へ行くのに船で行くんです。その方が安いんです。石船っていって美濃町から石を積んで下ってくる船に乗せてもらうんですよ。(当時の電車賃は美濃町・岐阜間15銭か18銭であったが、船ならば9銭であった。=明治19年美濃市生まれの人の証言から)

<明治26年までの交通状況の報道から>
 岐阜・郡上八幡間物資は上有知(美濃市)まで舟行、それより荷車または馬車で運ぶが、通路壊れれば途絶する。今回八幡町運送業者宮川氏らが発起、八幡より岐阜へ毎日2回ずつの荷船を出したが、試験結果良く、八幡・下田間1時間、下田・上有知間2時間、上有知・岐阜間3時間で運賃も荷車の5割減、認可を受けて客も乗せるはず、人力車の三分の一なるべし

3.川石を運んだ川船

 江戸時代の頃からも、川石は、長良川上中流域で採取され、下流域まで運搬され、売り買いされていました。…それは、長良川下流に広がる輪中地帯の家屋・水屋・助命壇(命塚)などの建設や護岸工事などには、川石が絶対的に必要な資材だったからです。
 明治以後、三川分流工事や長良川本流・各支流の改修工事などが進められると、その需要はますます大きくなりました。下流域の輪中地帯では見ることができない川石は、中流域の川船の船頭たちによって採取され、下流域の石問屋や工事現場まで運ばれたのです。

<大正10年(1921)生まれ・芥見町屋の石船船頭さんの話>
 石船は昔からありましたが、本当に栄えた時期は、大正から昭和10年頃までのほんの一時期だけだったと思います。当時、町屋には船頭の家が50軒ほどあったと思います。船も50杯ぐらいありました。一軒で2杯持っている家も2、3軒はあったように記憶しています。

 石船は主に長良川の上流の美濃町(現美濃市)曽代あたりまで石を拾いに行きました。拾った石は長良や揚げ門(現在の金華橋あたりに忠節用水の取り入れ口があり、水門があった)の問屋へ運ぶのが普通でした。
 日置江、墨俣方面まで売りに行くこともありました。このあたりでは、水害から家を守るために石組みを高くしてその上に家を建てるので、土台石と共に石垣用の石が大量に必要だったわけです。そんな訳でこのあたりへは、直接売りに行きました。これを「振り売り」と言いました。船を下りて一軒一軒訪ね、「今日は、石はいらんかな?」と……最近このあたりへも庭石をトラックで売りに来るように、売って歩いたものです。

 昭和初期になると犀川(墨俣の一夜城跡のあたりで長良川に注ぐ川)の改修工事が始まり、芥見の石船の全盛期を迎えました。ゴロタ石といって、だいたい1個10kgくらいの石をどんどん運びました。ごろんぼ積みの石垣や蛇篭に入れて護岸に使う石です。
 この頃には船頭もどんどん増えて、長良川筋の美濃から長良までに約180杯の石船がありました。……(中略)……石船の大きさは長さ5間3尺(約10m)、舟べり=深さは尺8寸(約54cm)、3枚板、幅は中央で2尺8寸(約84cm)ありました。

 船の扱いは、まずたいてい一人でした。石を拾う時は石鍵といって、2間半ほどの柄の付いた道具で石をすくい上げるのでした。水の中は相当重い石でも浮力があるので軽いが、水を切って船に乗せるときの踏ん張り、腕腰の要領がむずかしかったです。また、石鍵だけでは上がらない石はドンコという道具を使いました。揺れ動く船の上での仕事ですから、なかなか重労働でした。積み荷は約2トンで、これを拾うのに2、3時間はかかりました。
 朝早く出かけ、石を拾い、長良や揚げ門まで下り、石を下ろして帰る。翌日の準備をする。…の繰り返しで、農繁期以外は川の水の都合が良いかぎり続けました。

 犀川の改修工事の頃で、船1杯の石代が2円20銭から2円30銭ぐらいだったのですが、その頃、土方の日当が1円70銭ぐらいでしたから、多少石船の方が良かったようです。……(中略)……
 芥見の石船も犀川の改修(昭和5〜6年)、鳥羽川の改修(昭和2〜3年)の頃に全盛を極めましたが、順次少なくなり、昭和10年頃で40杯ぐらい、終戦頃でも30杯ぐらいあったと思います。伊勢湾台風頃までは、多少の石の需要がありましたが、その後はコンクリートのブロックとかテトラポットに押されてしまいました。昭和42、43年頃には誰も石船に乗らなくなりました。

4.藁(わら)灰や土管・瓶(かめ)などを運んだ川船

 炊事や風呂沸かしなどで藁(わら)を燃やしてできる藁(わら)灰も、近世中・後期を通して、貴重な肥料として流通していました。近代に入ってからも長良川下流域で多く生産され、川船によって中流域の岐阜近辺まで運搬され、「灰屋」と呼ばれる問屋や農家に買われ、各地で利用されました。(下流域の藁灰は、もともと海水を含んだ水で育った稲だけに、塩分が含まれているからよく効くと言われた。)


ー小熊野湊があった付近ー

  長良川大縄場大橋の下流・左岸に小熊野湊があり、「灰屋」と呼ばれた河岸問屋がありました。この問屋は、上流の村々から運ばれて来る薪や炭を預かり、多少の水が出ても流される心配のない川原や堤防の坂に揚げられました。そして下流に向かう大型の船に積み換え、名古屋や桑名方面に薪や炭を運びました。そして帰りは、長島町周辺や海部郡周辺、海津市周辺で仕入れた40〜150俵の藁灰を積んで、小熊野湊に上って来たのです。それらは武儀郡や稲葉郡、山県郡の村々に 馬車や荷車で運ばれていきました。

  長良川中流域の多くの川湊でも、桑名や名古屋など伊勢湾方面まで物資を運んだ川船が帰ってくるところを見計らって、それぞれの土場に、農家の人たちが集まって来ました。そして一人で20俵あるいは30俵と船頭から藁灰を購入しては、荷車に積み込んで帰って行きました。

  金額としてはそんなに多くはない生産物でしたが、下流域の農家で生産される藁灰は、下流域における産地回収業者や「灰屋」と呼ばれた中流域の中継問屋、運搬を受け持った舟運に携わる船頭を通じて、中流域の農家に貴重な金肥として渡っていったのです。

  藁灰の他にも、下流域から上ってくる川船に積まれた物がありました。長良川の支流伊自良川沿いに位置する尻毛湊には、石炭や粉炭(家庭用の燃料として名古屋港から)、土管や瓶(常滑より)、万古焼(四日市より)、ニガリ(桑名より)、塩などを運搬して来ました。瓶には赤瓶(田のコエダメ用)と水瓶(家庭用)の2種類があり、土管には13種類がありました。また万古焼には、土鍋、釜、シチリンなどがありました。これらの物資は墨俣湊や下尻毛湊などに運搬され、下尻毛湊からは本巣郡や揖斐郡の村々へ馬車で購入されて行きました。また本巣郡北方町、稲葉郡黒野村(現・岐阜市黒野)の小売店に送ったり荷車で運搬したりしました。

 このように盛んだった長良川の舟運も、鉄道や電車の敷設、道路網の整備やトラックの普及、川床の上昇などが要因となり、次第に衰退していきました。

○この文章は、下記の文献をもとに後藤征夫がまとめました。
<参考文献>

・「岐阜県史・通史編・近代下」(昭和47年・岐阜県)
・「わかりやすい岐阜県史」(岐阜県)
・「岐阜市史・史料編・近代1(昭和52年・岐阜市)
・定本「長良川ー母なる川、その悠久の歴史と文化」(2002.11.1・郷土出版社)
・「長良川水系の河川水運」(民俗文化・平成8年〜11年・松田千晴)
・「古老に聞く」(昭和60年〜61年・芥見公民館)
・「山と水に生きるー濃飛古老の聞き書き・中・西濃篇ー」(昭和45年・岐阜県立図書館)
・「KISSO」vol。39(平成13年7月・木曽川下流工事事務所ホームページ)
・「長良川とともに歩む」(平成22年・長良川実行委員会=岐阜市歴史博物館・岐阜新聞・放送)
・「ふるさとの思いで・写真集・岐阜」(図書刊行会・丸山幸太郎・道下淳)
・館蔵品図録「絵はがき」(平成11年・岐阜市歴史博物館)

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