各務原飛行場と川崎航空機

ー飛行機生産と町づくり・戦争への道ー

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はじめに


−開設当時の各務原飛行場−

 大正3年(1914)6月、第一次世界大戦が勃発し、西欧諸国の航空兵力が戦況を有利なものにしていました。そんな様子に刺激されたわが国の 陸軍中央部は、航空兵力の強化を痛感し、常設の航空部隊の新設を発令しました。そして大正4年(1915)陸軍が鵜沼・那加などの村人を動員 して各務原飛行場の整地を開始しました。こうして大正6年(1917)6月に陸軍各務原飛行場が完成し、翌7年(1918)所沢の航空第二大隊が移 転してきました。これを契機に各務原飛行場は陸軍航空の拠点としてその重要度を高めたのです。

1.「川崎造船」が各務原に(大正〜昭和2年)

 本社及び工場が神戸市にあり船の建造を生業にしていた「川崎造船株式会社」の社長・松方幸次郎は、大正5年(1916)、欧米の産業(造船 、海運、自動車、飛行機など)動向視察のため出張していました。その折、自動車と飛行機の将来性に注目し、大正7年(1918)7月には兵庫工 場内で自動車科と飛行機科を設置するなど、その製作の準備に着手しました。そして大正10年(1921)10月、陸軍各務原飛行場の地に飛行 機組立用地として約20万uを確保したのです。
 大正7年11月に第一次世界大戦が終結しましたが、この時の各国の航空兵力は、フランス4500機、イギリス3300機、ドイツ2400機だったと言 われています。その中で航空技術に関してはフランスが最もすぐれていました。わが国の陸軍はフランスの軍用飛行機の導入を決意し、大正8 年1月には60人のフランス空軍将校団を招いて航空技術の導入教育をスタートさせました。その一つ飛行機の操縦訓練は、すでに完成していた各務原飛行場においてフランス製の飛行機を使って行われました。
 一般公開された飛行訓練には、遠くから弁当持参で来る人たちなど、連日黒山の人だかり…。木曽川の渡し舟は乗り込む人が多く、重量オーバーで沈没する舟が出るほどでした。


−サルムソン2A−2型偵察機−

 そんな中で大正8年(1919)7月陸軍は、川崎造船に対し「サルムソン2A−2型偵察機」の試作命令を出しました。この製作には大変手間取りましたが、3年4ヶ月後の大正11年(1922)ようやく試作機を完成させました。そして試作を担当した兵庫工場から岐阜までは貨車で輸送し、岐阜駅で牛車に積み換えて、狭く曲がりくねった中山道を、各務原飛行場脇の組立工場まで運びました。
 その後、この試作機2機の試験飛行が陸軍各務原飛行場で行われました。試作機の車輪が初めて地面を離れた瞬間、「離れたぞ。見ろ…飛んだ!飛んだ!」と歓喜の叫び声が耳をつんざいたそうです。

この試作機2機の飛行試験の成績は極めて良好で、陸軍は「乙式1型偵察機」という名称をつけて制式化し、中島飛行機(現在の富士重工業)の「甲式4型戦闘機」とともに、陸軍最初の国産制式飛行機になりました。その後、陸軍は乙式1型偵察機の量産を指示、川崎造船は各務原の飛行機組立工場を拡張して昭和2年8月までに300機を納入しました。

2.金融恐慌から戦争への道(昭和2年〜昭和16年)

 昭和の時代は空前の金融恐慌のなかで開幕しました。川崎造船も深刻な金融難に陥り、企業経営存立の危機に立たされました。人員整理に踏み切って難関を乗り切ろうともしました。こうした厳しい環境の中にもかかわらず、陸・海軍の航空兵力増強要請は日増しに強くなり、川崎造船は飛行機組立工場の隣接地に約3万uの用地を得て、工場・格納庫などを拡張し、各務原分工場での生産体制を整えていきました。

 昭和2年(1927)3月、陸軍から川崎、三菱、中島(現在は富士重工業)の3社に対し、戦闘機の競争試作命令が出され、翌年には試作機が完成しましたが、審査の結果、中島機が選ばれました。川崎造船にとって、この結果は以降の競争試作に暗い影を落とし、試作機を作っても量産につながらない苦しい日々が続きました。
昭和6年(1931)9月満州事変が勃発しました。陸軍は、量産を留保していた川崎造船の試作機を「陸軍92式戦闘機」として制式化し、380機の製造命令を出しました。この注文によって川崎造船は何とか息を繋ぐことができました。この戦闘機は満州(中国東北地域)に配備されました。


−陸軍95式戦闘機−


 その仕事不足は如何ともし難い状態で、会社経営も厳しい毎日が続きました。そんな状況の中、陸軍から新たに指示された戦闘機の競争試作で、川崎造船が完成させた試作1号機は陸軍審査に合格し、「陸軍95式戦闘機」として採用されました。そして昭和10年(1935)12月には量産1号機が完成。それ以後、従業員の士気は急速に高まり、飛行機工場としては起死回生の快挙となりました


−那加駅で出征兵士の見送り(昭和12年)−

 その後、大日本帝国陸軍は支那(現在の中国本土)に侵攻し、昭和12年(1937)7月には支那事変(第二次世界大戦後、日華事変あるいは日中戦争と呼ぶようになりました)が始まりました。95式戦闘機は日中戦争で活躍し、昭和13年末までに約580機が生産されました。月産16機の生産ペースは当時では驚くべき生産能力でした。
 この頃、各務原分工場においても、防空演習を目的とした灯火管制の実施、陸軍要人の工場視察、従業員応召者の見送りなど軍事色が日増しに濃くなっていきました。

 この間、川崎造船は「生産を現在の3倍にする」「兵庫工場内の機体部門は各務原に移し、各務原分工場には46200uの工場を新設する」などという「拡張計画」を作成し、従業員の増員、工場の拡張、機械設備の増設・改善などを目指しました。そのうち、従業員増員計画では、昭和12年9月までに職員200名、工員1000名を神戸から転勤させるとともに、岐阜在住の住民から養成工を募集して3ヶ月の技術・技能教育を施した上で本工として採用するというものでした。


−各務原総合運動場−q

この結果、那加の町外れ(現・那加雄飛ヶ丘、那加楠町)に900戸の社宅と300人を収容できる独身寮、共同浴場(大型風呂屋)などを建設して住宅問題の解決にあたりました。さらに、総合病院、倶楽部ハウス、協同購買所、総合運動場(陸上競技場、野球場、テニスコート、水泳プール、柔道・剣道場などを含む)を新たに造営しました。当時、従業員の福利厚生施設を備えた「総合的な町づくり」は大変珍しく、それだけでも大事業でした。そして、昭和12年(1937)11月、飛行機部門は川崎造船から分離独立して「川崎航空機工業株式会社」として、新たな道を歩むことになりました。  

 <Nさんの話>(明治42年生まれ、昭和11年〜48年川崎重工勤務)
 川崎造船の各務原飛行機工場ができると、現地で300人を採用することになりました。私もさっそく応募し、岐阜市公会堂で採用試験を受けました。各務原だけでなく県内外から多くの希望者が試験を受けに来ました。当時、蘇原や鵜沼地区は専業農家が少ない上、農業以外で働く所もなかったこともあり、大きな職場ができたことから大変喜ばれました。特に農家の二男三男にとって魅力的な職場でした。会社も、地元の人を優先的に採用してくれたようです。
 私たち現地で採用された者は、飛行機製作の技術を習得するために、神戸の川崎造船の兵庫工場へ一年間研修を受けに行きました。「早く一人前になって各務原へ戻ってきたい」という思いで、飛行機の骨組みに鋲(びょう)を正確に打ち付ける方法など、一生懸命に訓練に励みました。

 <Oさんの話>(大正3年生まれ、那加門前町店主)
 私がこの那加の地に来たのは大正11年のことです。その前年に高山線が開通しておりました。当時は那加駅のあたりに丸通(現、日本通運)があっただけで、その周辺には家は一軒もなく、さみしい所でした。神戸の工場で製作された機体などを那加駅まで鉄道で運び、そこから三柿野の組立工場まで馬車に載せて運んで行くところをいつも見ていました。
 そこへ大正12年岐阜高等農林学校(現、岐阜大学農学部)ができ、中山道沿いに学生さんの下宿屋や教員の住宅などができ始め、次第に町らしくなってきました。
 しかし、那加の町の規模が大きくなったのは、やはり川崎造船が各務原に大きな工場を建設し始めた昭和11年の秋からでした。工場建設と同時に、楠町に工員住宅が造られました。一面にサツマイモ畑だったところで大規模な建築工事が始まりました。もうこの時期には空に飛行機が乱舞していました。翌12年4月頃より神戸からトラックに家財道具を満載し、引っ越してくる人達でにぎわいました。
 雄飛ヶ丘の工員住宅は楠町より少し遅れて同年6月に着工し、このように那加の町の人口は増え続けました。これに比例して宿屋や飲み屋などの飲食店も増え続けました。この2〜3年で那加の町は突然大きくなったわけです。
 その後、川崎造船は川崎航空機となって軍用機の増産を続け、社員の収入も増え続けました。その結果、那加の町もどんどん景気が良くなり活気に溢れました。当時、那加には芸者さんが50人ほどいましたが、毎夜、近隣の犬山、一宮、岐阜からも遊びに来る人がいるほどでした。


−98式軽爆撃機−

 日中戦争が長期化する中、「航空機製造事業法」や「国家総動員法」が制定され、軍需工場への国民の動員を促進することとなりました。このような情勢を背景に、昭和13年4月、陸軍から生産力のさらなる増強要請が出された川崎航空機は、明石市にも発動機の製造、機体の組立、試験飛行用滑走路を建設し、各務原と明石の2工場体制にしました。その結果、生産能力は小型機換算で月産280機と飛躍的に増大しました。なお昭和14年(1939)2月、各務原分工場は「岐阜工場」と改称されました。

 さらに陸軍から「試作機の年間製作20機程度」が義務づけられ、岐阜工場では、昭和14年6月現在の従業員数6500人を2年後の昭和16年9月までに7500人に増員することとしました。ところが、中堅工員の応召が相次ぎ、試作能力も生産能力も当初目標の60パーセント程度にとどまりました。苦労して育てた熟練工を「赤紙」一枚で兵士に召し上げられ、その補充も容易ではありませんでした。そんな中、太平洋戦争が始まりました。昭和16年12月8日のことでした。

3.一億総動員で……、そして敗戦(昭和16年〜昭和20年)

川崎航空機は、相次ぐ陸軍からの要請に応えるため「第5期拡充計画」を立案しました。この計画には、岐阜工場では「部品工場、整備工場の増・新築」「高山本線の北側に5000人が収容できる工員用大食堂の新設」「徴用工のための宿舎、徴用工育成施設の建設」「設計事務所の増設」などが含まれていました。そして、最終目標として昭和19年3月には、「小型機換算で月産360機」を目指すというものでした。

しかし、建設資材の調達が困難になり、兵力増強が優先されたため人的資源についても困難を極めました。その結果、以下のような方策がとられたのです。


−女子工員を観閲する工場長−

@遊休工場などの転用・設営
  ・ 昭和17年末、愛知県一宮市にある東洋紡績一宮工場を借り受け、2000人の従業員で操業を開始。こ の一宮工場は昭和20年7月に空襲を受けて焼失してしまいました。
  ・岐阜市域で本荘分工場(部品製作)、長良分工場、三里分工場、富士分工場、朝日分工場の外、忠節錬成場(従業員宿舎兼養成施設)、木曽川錬成場、真C寮(一般従業員宿舎)の設営。


−川崎航空機における「飛燕」生産状況−

A徴用工と学徒動員
  昭和18年度〜19年度の2年間で「9400機を 生産せよ」という陸軍の指示で、初年度は2500 機を完成にこぎつけました。しかし次年度に は前年度からの持ち越し分を含め、月産550機 が「納入義務」になりました。
   昭和18年2月時点の工員数は岐阜工場26450 人、明石工場12367人と記録されています。その実態は、太平洋戦争開戦以降に入社した徴用工と女子工員が大半で、生産能力の低下は如何とも為し難い状態でした。


しかし、月産550機の要求は何が何でも達成しなければなりません。最後の手段としてとられたのは、「女子挺身隊の投入」(昭和18年12月)と「勤労報国隊の受け入れ」(昭和19年4月)でした。この結果、岐阜工場の工員数は、昭和19年12月には徴用工・学徒動員・女子挺身隊を含め、従業員は4万人と膨らみました。こうして「一億一心火の玉だ」とあおられ、粗製乱造の時代に入っていきました。


−陸軍三式戦闘機「飛燕」−

 太平洋戦争当時、この各務原で生産された飛行機は、陸軍の全飛行機の70%にあたりました。その中でも、川崎航空機が開発製造した「陸軍三式戦闘機『飛燕』」は、岐阜工場で2884機も作られました。
 この戦闘機は日本の軍用機の中でも、唯一、水冷式発動機を装備した高速戦闘機で、本土防衛の重要な飛行機でした。しかし昭和19年頃から、装備部品の入手困難や工員の質的低下で、さまざまな歪みが出てきました。 発動機の生産も大幅に遅延し、工場で生産された機体が納入できず、「首なし飛行機」として各務原飛行場に並ぶほどでした。


このような状態の中で……、
 

 昭和19年6月、米軍は、「ボーイングB29型高々度長距離爆撃機」による日本本土の空襲を開始しました。爆撃の被害を最小限にとどめるため、工場疎開が開始されました。爆撃目標の一つであった川崎航空機岐阜工場も、林間工場(蘇原村須衛、武儀郡美濃)、地下工場(土岐郡瑞浪)、学園作業場(岐阜市本荘雲雀ヶ丘の岐阜高等女学校)などの疎開先で部品生産などを開始しました。その他、大日本紡績岐阜工場(岐阜市田神)、近江絹糸中津川工場などを機体組立工場に転用する計画が一部実施されました。
 また、主力工場の各務原工場(三柿野)では、突貫工事で近くの山々(川崎山や赤星山など)の裾をくり抜いて「掩体壕(えんたいごう)」(半地下式格納庫)を造って、従業員の防空壕兼完成機体の退避壕にしていました。


<Bさんの話> ←「各務原市民の戦時体験」より・67歳男性(平成8年)
 戦局が悪化の一途をたどっていた昭和19年末頃のことです。私が勤めていた川崎航空機工業では、工場の計画的分散疎開が始まりました。私は地下工場の設計を命じられました。土木、地質、建築の知識のない私は、どのように設計していいのか戸惑いました。16歳の時です。…(略)
 地図を見ると、地下工場の建設場所は加茂郡の山の中でした。…(略)…出入り口の構造はへの字型にして、近くに落ちた爆弾が爆発しても爆風が通り抜けるように考えました。…(略)…
 終戦後、近くの赤星山、各務山に行ったことがあります。赤星山はこの辺りの山の中では標高が一番高い所で、やはり航空廠の地下工場がつくられていました。山の裾が道路に面した西の山腹に、トンネルが山の中心に向かって直線に掘られていました。…この山の南側には防空壕が掘ってあり、爆弾の直撃で多くの人が亡くなっています。…(略)…各務山の山肌を削り取った跡に各務原市立中央小学校が建てられていますが、この学校の北辺りの山裾には当時、航空廠の地下飛行機格納庫が建設されていました。
 このように近辺の山には地下工場や地下格納庫が建設され、一部は使用され、一部は完成しても機械の設置ができなかったり、一部はトンネル工事完成半ばで終戦になり放置されたりしたのです。



−空襲で直撃弾を受けた岐阜工場本館−

 一方、米軍の硫黄島上陸(2月)、沖縄上陸(4月)に合わせたかのように、日本本土への空襲はしだいに激しくなり、昭和20年3月10日には首都東京が爆撃されました。そして昭和20年6月22日と26日には各務原とその周辺も大空襲を受け、川崎航空機岐阜工場も壊滅してしまいました。
 ほとんどの従業員は工場の北側にある川崎山と赤星山(現在の市民会館隣接地)の防空壕や木曽川の川原にある林間に退避して難を逃れることができました。しかし、工場警備員と工場幹部など63名が犠牲となりました。周辺住民も58人が帰らぬ人となりました。


 <Cさんの話> ←「各務原市民の戦時体験」より・72歳女性(平成8年)
 昭和20年6月22日午前10時頃、本屋敷の草引きにでかけ、ちょうど川崎整備工場の東門に来た時、ラジオから「米軍機B29の編隊が伊吹山を東進中。」という声が聞こえたかと思うと、川崎や航空廠のサイレンがけたたましく響きました。工場の人々が東に南に走り出した頃、早くも爆音が聞こえました。私は叔母の孫と一緒に急いで竹やぶの防空壕へ転がるように避難しました。早くも生温かい爆風が壕に入り、上空からは1トン爆弾の落ちてくる「ザー」という不気味な音。続いて大地を揺るがす地響き。生きた心地はしませんでした。……(中略)…
 何十機ものB29の爆音はとても長く感じられました。…(略)…おそるおそる北方を見ると、養成隊の建物がすべてなくなり、火柱だけが上がっていました。2階建ての建物が5棟も並んでいたのが倒れ、火を吹いていました。担架で運ばれる死者、負傷者、道路脇の溝に伏せたまま死んでいる人、直撃を受けた竹やぶには大穴があき、残った竹に肉片やボロボロの衣服の切れ端がひっかかつている様子は、地獄というか、これが戦場かと思いました。恐ろしさのあまり震えが止まりませんでした。


 <Dさんの話> ←「各務原市民の戦時体験」より・78歳女性(平成8年)
 ……(略)…西の空を見上げるとB29の編隊が近づくのが見えます。しばらくすると、ごま粒のような黒点がばらばらと落ちてくるのが見えます。「爆弾だ。」と畑にひれ伏しました。ズシンという震動が地面を伝わり、体に感じました。家の方向を見ると黒い煙が空に舞い上がっています。爆弾の破裂する音が聞こえて怖くなり、近くの民家の防空壕に駆け込みました。…(略)…
 家に着くと膝がガタガタ震えていました。どのように歩いてきたのか全く記憶していません。怖さと家にいた家族が心配でオロオロするばかりでした。……(略)…
  私はまともに見ることができなかったのですが、この辺りを見た人の話によると、人間とは思えない肉のかたまり、足や手のない人、顔が吹っ飛んだ人、内蔵が飛び出た人など、60人以上の人がこの付近で亡くなられたそうです。
 私は怖くて体の震えが止まりませんでした。家族が避難している各務山に急ぎました。山の麓には、兵隊さんや軍需工場の工員さんなど多くの人が避難されていました。多くの人々の中から無事でいる家族を捜し出すことができました。
 夫を戦地に出し、家族と家を守ってきた私は、爆撃で家をなくしたものの無事な家族の姿を見て、本当にホッとしました。私は安心したためか力が抜けるのを感じました。


 この後、さらに追い討ちをかけるように…、

 同年7月9日に岐阜市街が空襲を受け、金華山周辺を除き旧市街地の80パーセントが焼失し、ほぼ800人が亡くなりました。また7月29日には一宮分工場が空襲で焼失してしまい、生産停止のまま、終戦の日(昭和20年8月15日)を迎えたのでした。


○この作品は、上田尚武が川崎造船から川崎航空機の歩みと飛行機生産などにつ いてまと め、後藤征夫が地域との関わりや証言などを加筆し、編集しました。
<参考文献> 
・「岐阜工場50年の歩み」(川崎重工・昭和62年11月30日発行)
・「航空機−川崎航空機−」(ダイヤモンド社)
・「九十年の歩み−川崎重工業小史−」(昭和61年10月15日発行・川崎重工)
・「かかみの野の風土−産業と人物−」(平成16年3月・各務原市教育委員会)
・「各務原市史・通史−近世・近代・現代−」(各務原市)
・「ふるさと各務原」(郷土出版社)
・「岐阜空襲−岐阜・大垣・各務原−」(岐阜空襲を記録する会)
・「各務原市民の戦時体験−平和な21世紀をめざして−」(平成8年・各務原市教育委員会)

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