木曽川・飛騨川の筏(いかだ)流しと人々

はじめに

 木材の需要が増加したのは平野部の河川流域や海岸近くに都市が成立した中世以降で、山地から木材を運ぶ「筏(いかだ)流し」も、中世都市の発展とともに全国的に広まりました。そして、少しの労力で木材を大量に運ぼうとし、人々は「筏(いかだ)組み」「筏(いかだ)流し」の方法を考案したのでしょう。
 江戸時代になると、城下町と並んで宿場町や門前町などの発達にともない、ますます木材の需要が増えました。そして木材の流送が全国各河川で活発に行われ、それと共に「筏(いかだ)組み」「筏(いかだ)流し」に従事する筏(いかだ)師の活躍が各地でも見られるようになりました。
 そんな「筏(いかだ)組み」「筏(いかだ)流し」で、最も盛んだった河川の一つが木曽川・飛騨川であり、その主人公は信濃と美濃の人々だったのです。

1.木曽の山々と木曽川・飛騨川

  
 木曽御岳(3063メートル)を中心とした四方に広がる一帯と木曽駒ヶ岳(2965メートル)西麓一帯、俗に「木曽谷」と呼ばれる信濃、「裏木曽」のある美濃、飛騨の三国に渡る地域に、38万ヘクタールの大森林地帯があります。ここでは、木曽五木と呼ばれる檜(ヒノキ)、檜葉(ヒバ)、ネズ、コウヤマキ、椹(サワラ)などが、今も生い茂つています。その森林地帯から、小谷狩によって木曽材の流送が行われた王滝川や小川、付知川などの各川は木曽川に注ぎます。また飛騨では益田川から飛騨川に、裏木曽においては佐見川、白川(上流は加子母川)が赤川(黒川が合流)と合流して飛騨川に、注いでいます。

2.秀吉による木曽材の伐り出しと支配

 豊臣秀吉による木曽材の伐り出しは、天正11年(1583)大阪築城の時から始まりました。そして、同13年には聚楽第、同15年には淀城、同17年には方光寺大仏殿の建設に多量の木材を伐出し、天正18年(1590)に秀吉はこれらの地域ならびに木曽川、飛騨川を直轄領とし、犬山城主石川備前守光吉を木曽代官として木曽谷を支配させました。
 さらに同19年には外征用船舶、文禄3年(1594)には伏見城の築城、京都の公武の邸宅の新築、城下町の造営、船舶、車の製造のために、多量の木材を伐出しました。

木曽材の京都、大阪方面への搬出は、木曽川を筏(いかだ)で下し、境川から長良川へ入れて墨俣で陸上げし、近江の朝妻(米原町)へ陸送して琵琶湖を船で運ぶルートでした。当時短期間にこれほど多量の木材を伐採し運び出した山々は、川に近い比較的浅い山々でした。      

 木曽・飛騨の木材の流送が始まった時より、木曽川には錦織(加茂郡八百津町)に、飛騨川には下麻生(加茂郡七宗町)に関所があり、木材の一部から「運上」という通行税をとっていました。この通行税を廃止したのが秀吉でした。笠松や岐阜に木材の自由市場を開き、地元商人に運営させ、大阪や堺の商人も出入りし、木曽材を軸とする商業取引が始まったのです。
 
 天正14年(1586)の大洪水によって木曽川はほぼ現今の河状となりましたが、錦織や下麻生の綱場から流送されてきた筏(いかだ)は、鵜沼村の川村総六という筏(いかだ)乗り頭の配下の者が乗り継ぎました。そして何日もかけて、桑名や白鳥(現名古屋市)の貯木場まで下りました。

3.江戸幕府・尾張藩の木曽材の支配と流送


名古屋城天守閣

 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の時、徳川秀忠は木曽谷を攻撃し、石川光吉を木曽から追いはらい、家康は幕府の直轄領としました。そして山林だけでなく、運材および貯木まで管理したため、木曽川筋の錦織(岐阜県加茂郡八百津町)はもちろん、白鳥(愛知県名古屋市)まで支配することになりました。
江戸城、駿府城築城に際し、その用材として木曽の山々から伐出した木材が大量に搬送されました。また名古屋城天守閣用材として、檜(ひのき)、欅(けやき)、椹(さわら)、杉、松など約4万本もの木曽材が伐出されました。
 これらの木材は、角倉了以・与一、茶屋新四郎、犬山の神戸弥左衛門、岐阜の中島両以などの大商人に請け負わせて、大量に伐り出したのです。       


 慶長13年(1608)家康はその子義直に尾張全国を与え、元和元年(1615)には木曽、木曽川および美濃の地3万石を与えました。さらに元和5年(1619)美濃の地5万石の加封によって、尾張藩の所領は61万9500石となりましたが、木曽の値打ちは一国にも比すべきものでした。(そして明治維新にいたるまで尾張藩が支配していました。)

 しかし幕府や尾張藩も、大量に木材を求めるためには、有力な材木商から買い上げるだけではとても間に合わなくなりました。だから、木曽でも飛騨でも住民や河岸の人間に年貢の代わりに労役を課したのです。つまり「領主直営」によって木材を伐出するようになりました。そして市場を設け、尾張藩の用材以外は材木商に売り払い、幕府や藩の財源に充てました。幕府や尾張藩の直轄である木曽山を実際に統治していたのは、木曽氏の旧臣でもある代官の山村氏でした。つまり木材の採材・搬出に木曽の住民を意のままに動員できる山村氏が、木材の確保を任されていたのです。

 木曽川を流下する木材筏(いかだ)の管理・運営・統制についても、同じ事が言えました。その重要な拠点筏(いかだ)中継基地が犬山でした。(それ以前は鵜沼で川村惣六がこの地域の木材運輸に従事する者たちを束ねていました。)
 尾張藩が誕生した元和年間頃に、円城寺村の郷士・野々垣源兵衛が「木曽川の筏(いかだ)支配人」として登場したようです。やがてこの野々垣氏に対抗する競争相手として神戸氏が登場し、野々垣氏より重要な湊や川取り締まり役に任ぜられ、慶長19年には木曽川の上流から犬山までの筏(いかだ)乗前株を取得しました。
 こうして木曽川の材木株は、上流から犬山までの筏(いかだ)は神戸氏と野々垣氏とで、犬山から下流は野々垣氏が支配するようになりました。

4.江戸時代の伐木と運材

 江戸時代の儒学者・貝原益軒の「岐蘇路」の記の一節に、この地域の伐木と運材のようすが記されています。

 材木を切る杣は、尾州者より和泉、紀伊、近江の人を雇って遣わさる。毎年春の雪消、2、3月に山に入りて10月に出る、幾千人といふ事を知らず、此杣人ども山中に居住す、木を伐、材木を削り、あるいはくれに割って、長4尺ばかりなる小さき木を川に流せば、いくらともなく水に随いて流れ下る。川中の石にかかりてとまりたるは筏(いかだ)に乗りたるもの来たりて落とすといふ。舟はもとより水早くして石高ければ通はず、此なかかる木ども木曽を過ぎて美濃の内太田の4里川上に錦織という所に至る。其処に常に大綱をはりてひとつも川下へ流さずせきとどむ。そこにて筏(いかだ)に作り桑名、熱田へ下す。熱田の内西の方白鳥といふ舟のつく処に下す。その地にて商人買とり諸国へうり遣わす。


錦織綱場跡全景

 春4月から木曽谷や裏木曽の木曽川筋で伐られた木材は、9月頃支流の小川に落とされます(→「山落とし」)。10月から年の暮れまで支流の流れに乗せて木曽川本流との合流点に集められます(→「小谷狩」)。そして12月の半ば雪に覆われた冬の木曽川をいよいよ流送のスタート。一本また一本、岩にぶつかり岸にはね返りながら錦織綱場(加茂郡八百津町)に到着します(→「大川狩」「管流)。
…同じように、飛騨川筋の木材も、下麻生綱場(加茂郡七宗町)まで一本ずつ流送されてくるのです。

 


飛騨川・下麻生綱場(明治時代)

 このようにして急流を下った大材は、”白口藤”という植物の留め綱が張り渡された錦織・下麻生の綱場でがっちり受け止められます。そしてこれらの綱場で、河口まで直径30〜50センチ、長さ約3.6メートルの材木20本で二人乗りの筏(いかだ)に組まれます。
 


錦織綱場を出発する筏(いかだ)群

 




 錦織や下麻生を出発した筏(いかだ)は、急流のしぶきを浴びながら犬山・鵜沼まで下ります。これを「上川いかだ」と言います。そして犬山・鵜沼では二つの筏(いかだ)を一つにして、つまり二乗を一乗にして一人は帰り、一人が乗った筏(いかだ)が円城寺(笠松町)まで下るのです。


犬山筏(いかだ)継立場

 


 
 このあたりでようやく流れはゆるく川幅も広くなり、筏(いかだ)はここで50〜60が一つにつなぎ合わされ、乗り手も8人一組となって筏(いかだ)団を編成して、大河を下ります。こうして筏(いかだ)は錦織から8日目に河口へ出て桑名の貯木場に入り、あるいは熱田白鳥(名古屋市)の貯木場に回送されました。さらにそこから関東、関西へ船積みされていくこともありました。こうして「筏(いかだ)送り」は、冬の間に行われ、春には終了しました。

5.円城寺の川並奉行・野々垣氏と下流の筏(いかだ)流し


円城寺役所跡(昭和20年)

 慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦・木曽川渡河の時に池田輝政に味方したのは、円城寺の川岸に居住していた土豪の野々垣氏でした。その軍功により野々垣氏は、木曽川中流域に勢力を張る郷士として不動の地位を認められ、「木曽川の筏(いかだ)支配人」になりました。
 延宝元年(1673)、尾張藩は北方(愛知県一宮市)と円城寺(岐阜県羽島郡笠松町)に「川並奉行所・番所」を設置し、木曽川を上り下りする舟や流木および家屋建材の材木を取り締まりました。後、円城寺では先の郷士・野々垣源兵衛が川奉行となり、木曽川の管理・川を下る材木筏(いかだ)の仕事を受け持ちました。

 円城寺まで下ってきた筏(いかだ)を全部とめて、検査する役人が野々垣氏でした。そして円城寺奉行・野々垣氏の指図によってそれぞれの所に運ばれました。筏(いかだ)を円城寺まで運び下ろした人々は、ここで「運び賃」としてお米などを受け取り、帰って行きました。

 円城寺から熱田白鳥の貯木場までは、筏(いかだ)6枚から8枚を乗人一人で受け持ち、8人が一組となるので筏(いかだ)48枚から64枚が一団となって流下しました。この筏(いかだ)団を「一小屋」といい、途中宿泊する舟を前後に一艘ずつ付けて、各人の寝具および一週間ないし十日間くらいの食糧をつみこんでいました。
伊勢へ出す木材は、笠松より約七里半下流に、木曽川と長良川がわずかに堤防をもつて境としている所に設けられた水門(船頭平閘門)を通過して木曽川から長良川へ出し、さらに揖斐川に出して桑名に流送したのです。伊勢神宮の造営材はだいたいこの経路で運ばれました。

6.明治以後の伐木と運材

 明治政府は、幕府、藩の森林をすべて国のものにしてしまいました。しかし一町歩とか五反歩といった飛地になっていた所は管理に困ったようで、この不要存置林に目を付けた一部の民間人によって払い下げ運動が行われました。当時林野局は先ず町村に払い下げをし、町村からそれらの民間人に立木だけを払い下げたのです。これらも伐採されて流送されたのです。

 木曽、飛騨両森林において施行された官行伐木はもちろん、木曽・飛騨川の両河川およびその支流川筋の民有林の伐木運材はそれぞれの伐木運材法によって行われました。そのため錦織・下麻生綱場、白鳥・桑名貯木場は木曽、飛騨の森林に付属するものとして極めて重要な場所でした。

 明治31年から45年の筏(いかだ)数によって木材の流送量を知ることができますが、民有林出材量が御料林出材量より数倍多かったようです。これは、日清戦争以後の需要の増加によって、木曽川・飛騨川およびその支流河川流域の民有林から多量に伐出されたことが分かります。

 明治以後の木曽川の伐木と運材については、朝日新聞で連載された”木曽川”の文章があります。

  春4月、木曽川と王滝川の流域に広がる美林地帯にオノの音が響き始める。
  巨木を切り倒し枝を払い、やがて深山に秋立ちそめる9月、それが谷まですべって山間をぬう支流の小川に落とされる。これを”山落し”といった。そして10月から年の暮れまで支流の流れに乗って木曽川本流との合流点に集められる。この過程が”小谷狩”いちばん大規模な木曽川と王滝川の合流点には、川面にひしめく材木が十キロにもつらなるほどだった。
  12月半ば、雪におおわれた冬の木曽川をいよいよ流送のスタート、一本また一本、岩にぶつかり岸にはね返りながら錦織(岐阜県加茂郡八百津町)まで、これを”大川狩”と呼ぶ。むろん材が途中で滞留しないよう、数や間隔をよく計算して行う「計画流送」だ。急流をくだった長大材は、白口藤というがんじょうな植物の留め綱を張り渡した錦織の綱場でがっちり受け止められる。
  ここから河口まで風情豊かな”筏(いかだ)送り”。竿さばきも鮮やかに、直径30センチ、長さ3.6メートルのでっかい材木20本を組んで、二人乗りの筏(いかだ)は、しぶきを浴びながら錦織の港を出る。急流を見事にすべる鮮やかなさおさばき。やがて兼山(可児市兼山町)、さらに犬山(愛知県犬山市)から円城寺(羽島郡笠松町)へ、このあたりでようやく流れはゆるく川幅も広い。
  筏(いかだ)はここで5、60が一つにつなぎ合わされ、乗り手も8人一組となっていかだ団を編成する。そしてゆるやかな流れのまま、筏(いかだ)の列はゆうゆう大河をすべるのだ。…(中略)…こうして錦織から8日目に筏(いかだ)は河口へ出て桑名(三重県桑名市)の貯木場へ入り、あるいは熱田白鳥(愛知県名古屋市)の貯木場へ回送される。そこからさらに関東、関西へ船積されていくのもあった。
  筏(いかだ)送りは花の咲きそめる頃にシーズンを終わる。終着駅の桑名や白鳥まで山落しから半年、立木の切出しからまる一年というマラソン運材である。

 木曽山の隣り合わせの南飛騨の木材も下麻生で筏(いかだ)に組まれ、飛騨川から木曽川へ下って桑名や白鳥へ運ばれましたが、その仕組みは木曽材の場合と同じでした。

7.鉄道開設・水力発電開発と筏(いかだ)流送・綱場の廃止

   西 暦  (年 号)          で  き  ご  と
 1911 (明治44年)  八百津発電所完成。中央線開通
 1921 (大正10年)  錦織出張所廃止
 1922 (大正11年)  北恵那鉄道が発足。大井ダム建設工事が始まる。
 1923 (大正12年)  木曽川の筏流送が廃止される。
 1924 (大正13年)     大同電力大井発電所完成 
      〃  飛州木材、日本電力(瀬戸発電所)の計画に異議 
 1926 (大正15年)  北恵那鉄道、運輸営業・御料材の輸送開始
 1928 (昭和3年)  飛州木材と日本電力の紛争決着
 1930 (昭和5年)  飛騨川での木材流送廃止
 1934 (昭和9年)  高山線全線開通
 1937 (昭和12年)  森林鉄道の敷設で、付知川の御料木川流しは完全廃止

  大正3年(1914)に第一次世界大戦が起こり、国内の工業は急速に発展しました。また石炭が値上がりしたため、安い電力を導入する工場が増え、電力需要が増加しました。それ以後、各、電力会社による電源開発が、木曽川・飛騨川な どで盛んになりました。
  とくにダムの建設は、林業関係者や地元の人々の生活に深刻な影響を及ぼしました。このため、電力会社と木材業者は水利権(河川を利用する権利)をめぐって対立しました。
 
  一方、中央線、高山線の開通や森林鉄道の開設、自動車の普及など、交通の近代化が急速に進みました。それに伴い、木曽川・飛騨川筋の木材流送は、次第に姿を消していきました。
 

8.付録「木曽川のいかだのり」

 →(昭和59年(1984)、岩崎書店の「おはなし歴史風土記」(歴史教育者協議会編)で、筆者・後藤征夫自身が調査・取材・執筆した文章を参考資料として紹介します。

いかだ流し

「おい、そろそろ城下の岩にかかるぞ。…いかだを岩にぶつけるな。」
「お父、だいじょうぶだよ。」
 正美は大声でへんじをして、かじをにぎる手に力をいれました。氷のはった材木の上で足をふんばります。ザバザバという波の音だけが、やけに大きくきこえます。

 1910年(明治43)年の冬のことです。
 木曽川では、毎年秋から冬にかけて、ずーっと、いかだ流しがおこなわれてきました。それは13世紀のころからはじまって、いままでつづいているのです。
 まず上流できりたおされた直径50センチメートルもの大木が、一本一本流されます。そして中流の錦織綱場(今の岐阜県加茂郡八百津町)でうけとめられ、いかだに組み立てられます。15尺(約4.5メートル)の材木30本ほどで組み立てられたばかりのいかだを、毎日、犬山・鵜沼まで流すのがいかだ師のしごとでした。

 15歳の正美も、この秋からお父のてこ(助手)として、いかだに乗るようになったのです。けさも、5時すぎに錦織を出発してきました。川すじも見えず、山の尾根や川の白波をたよりにかじをとっているのです。
「正美、もっとしっかり乗れ。うずまきにかかりそうやぞ。」
「流れのおくにいったらあかんぞ」
 つぎつぎにお父の声がかかります。正美は、うしろのかじをにぎってひっしにいかだに乗っていました。
 難所もとおりこし、飛騨川といっしよになる川合(いまの美濃加茂市川合)のあたりにきたころ、空はうす明るくなりました。ゆったりとした川面にも朝の光がにぶくてりかえしています。正美は、難所をとおりこしてほっとしたためか、きゅうに寒さを感じました。
 川合の検問所前を「御用材」(国の材木)の旗を立ててとおり、太田の渡しのあたりにきたころ、お父は、うしろから来たいかだに声をかけました。
「おうい、幸三、いかだをならべて、火をたこまいか。」
いかだをならべたその上で、4人のいかだ師たちは、腰につけてきたわらをもやしてあたりながら、ひと休みするのでした。あちこちの川面にも、なかまたちのもやす火が明るく見えました。
「さあ、これからがまた難所やぞ。」
 お父の声に、正美は立ち上がりました。そして、なみしぶきでこおったいかだのはしをかじでたたきました。
 松ヶ瀬、大塔、鷺の瀬円座の難所もぶじにとおりこし、大馬屋(いまの坂祝付近)まできたとき、正美は、
「そんなら、お父、気をつけてな。」
と声をかけ、じぶんののかじをかついで川岸の岩にとびうつりました。
「みちくさしんと、はようかえって、あしたのいかだの上ごしらえをちゃんとしとけよ。」
お父も声をかけました。
 このさきは、二枚のいかだをつなぎ、親方どうし二人で、犬山・鵜沼まで流します。
 鵜沼で乗り手は交代し、いかだは円城寺(笠松町)までいきます。ここで50枚ほどのいかだがひとつにつなぎあわされ、乗り手も八人一組になって、川幅も広くながれもゆるくなった木曽川をゆうゆうと下ります。
 こうしていかだは、錦織を出てから8日目に川口に出て、三重県桑名や愛知県熱田白鳥の貯木場まではこばれていくのです。

 正美たちてこは、川原の石に腰をかけ、ふろしきづつみのべんとう箱をひろげ、なまみそを、たき火のなかの焼石で焼いておかずにしました。寒さにふるえていたからだも、すこしあたたかくなります。
 朝めしをおえた正美たちは、4.5メートルの長いかじをかつぎ、とび口やなたを腰につけて歩いていました。15キログラムもあるかじのおもさが肩にくいこみますが、ちかごろは、そのいたさもあまり苦にならなくなりました。
 てこたちは、昼までに錦織にかえり、あしたのいかだのしたくをしなければなりません。まず役所にいき、「御用材」と書かれた旗と、いかだの番号や本数が書かれたきっぷをうけとります。そしてじぶんの乗るいかだを、その日のうちに川岸までこぎ出しておくのです。いかだのちょうしを見て、フジつるでしばりなおして、乗りやすいいかだにしておかないと、こわれてしまうこともあるからです。
「お父はもう、鵜沼についたかな。いかだあらためがおわったころかもしれんな…。おれも二十歳になれば、一人前になって鵜沼までいけるやろう。そうすりゃ給金も、一日3円くらいはもらえるかな…」と考えながら、正美はなかまたちのあとを歩きました。

     ダムができる

 それから10年のちの冬のことです。
 夕ぐれ、家にかえってきたお父は、元気がありませんでした。
 お父は、乗り手総代の家に10日分の給金をもらいにいって、錦織綱場がなくされるかもしれないという話をきかされたのです。
「綱場がやめになるってことは、いかだ流しもやれなくなるのか?」
正美がききました。
「あのな、川上の大井にな、いままでにない大きな発電所ができるんや。そのために、ダムといって水をせきとめるものをつくるんや。それでもう、木曽川本流も、付知川からの御用材も流れんようになるのよ。」

 1907年(明治40年)ころは、この錦織で、川狩人足やいかだ組み立ての者と乗り手をあわせて、1000人近くの人びとが働き、とてもにぎわっていました。しかし1911年(明治44年)国鉄中央線がとおるようになると、年ねん木材のいかだ流しはへって、汽車ではこぶことが多くなりました。
 そればかりか、木曽川には、つぎつぎに発電所がつくられていました。それがこんど、2年先の1922年(大正12年)からは、完全に川をせきとめてしまうダム式発電所を大井(恵那市)につくる工事がはじまるというのです。

「むかしからさかえた錦織の綱場が、ほんとうになくなるのかのう。」
 おばあさんはつぶやき、お茶をすすりました。お母も、
「あんた、これからどうするね。」
と心配そうです。
「えらいことやぞ。錦織で400人くらいの者が食を失うことになるやろう。」
 お父の声にも元気がありません。
「このさき、おれたちは、どうすればいいのやろう。おカイコかいにしても、百姓をがんばってみても、いかだの給金ほどになりっこないしな…。」
ようやく一人前のいかだ師になった正美がつぶやきました。

    綱場のあと

 それから十数年の年月がすぎました。40歳をすぎた正美は、つけものの行商からかえるたびに、錦織の綱場のあとにくるのでした。そして、若かったころのにぎやかなようすを思い出すのです。

 正美は、ダムが完成するまえの年、1923年(大正12年)に、いかだをおりました。いっしょにいかだをおりたなかまのなかには、陸にあがって荷車をひくとか、商売をはじめる者もいました。せまい田畑にしがみついて、カイコをかったり、出かせぎにいくものもいました。
 正美も、春から秋までは、田畑のしごとをして、冬になると、和歌山県の紀ノ川のいかだ乗りに出かけていました。しかし、3年まえからはそれもやめて、ダイコンやナスのつけものをもって、町で売って歩くようになっていたのです。

「あそこのくい所にはいった材木をはこび出すときは、えらかったな…。そうや、あのあたりの瀬を、ようほったもんや…。」
 つぎつぎに思い出がよみがえります。くい所というのは、たくさんの丸太を川べりにうちこんで、木材をためておいたところです。大水が出たときなどに、木材が流れ出ないようにしたのです。
   ジャン、ジャン、ジャン、ジャン。
 しごとがおわって川からあがり、つり橋をいそいでわたってかえるときに鳴った、くさりの音も耳にのこっています。
「やっぱり、この綱場は日本一やった。紀ノ川の材木は、ほそいものばっかやったし、いかだの大きさもぜんぜんちがうでな。時の流れには勝てんけど、それにしてもこの綱場はのこしたかったもんやなあ。鉄道や発電所が、わしらの綱場をつぶしたなんて、ひにくなもんや…。」
 正美は、くちびるをかみしめるのでした。
「二十歳になるころには、一人前のいかだ師になってみせる。そしてお父たちのように川下まで、たくさんのいかだをつないで、はこんでいくんだ。」
 そんな希望に胸をふくらませていたことが、きのうのことのように思い出されてくるのでした。
 雨あがりのあとの川は、水が、岩にぶつかっては、音をたててながれています。正美の耳に、水の音といっしょに、木やり歌がきこえてくるようでした。
   お恵比寿が、お恵比寿が、ヨンヨイ  七ひろ半のさおをもち ヨンヨイ
   七ひろ半の糸をつけ ヨンヨイ    大波小波のその間で ヨンヨイ
 緑色に光る川面には、綱をかけた綱株岩やえぼし岩も顔を出しています。
 川向こうの山に目をうつすと、茶畑がひろがり、空には、ぽつかりと白い雲がうかんでいました。
 つけものを売り歩くといっても、そんなにもうけはありません。これからさきのくらしを考えながら、正美は、また川面に目をうつすのでした。

○この文章は、後藤征夫が、下記の文献や資料をもとに、まとめたものです。
<参考文献>
・「錦織綱場−木曽川筏(いかだ)流送の歴史−」(八百津町教育委員会・錦織綱場保存会)
・「桴」(日本いかだ史研究会)
・「岐阜県史・通史編・近代下」(岐阜県)
・「わかりやすい岐阜県」(岐阜県)
・「ふるさと笠松」(笠松町)
・「笠松町史」(笠松町)
・「かさまつ百年」(笠松町文化協会)
・「名古屋・岐阜と中山道」(松田之利編・吉川弘文館)
・「木曽川をめぐる人と文化−川とともに生きる−」(一宮市博物館・秋季特別展図録)
・「木曽川学研究・第2号」(木曽川学研究協議会)
・「おはなし歴史風土記21・岐阜県」(歴史教育者協議会編)

Copyright (c) 2010 「お話・岐阜の歴史」サークル All Rights Reserved.
inserted by FC2 system