「ふるさと岐阜の歴史をさぐる」No22.
「柳ヶ瀬」…それは町名ではなく、柳ヶ瀬通りを中心とする繁華街一帯を総称するものです。その柳ヶ瀬が町名として初めて誕生したのは、明治22年(1889)7月
1日岐阜市制が敷かれてからで、それ以前は厚見郡上加納村柳ヶ瀬とよばれていました。
「柳ヶ瀬」の地名は、カワヤナギの多い川の瀬という意味を持っています。自生のカワヤナギが繁り、川(忠節用水の一部で、通称・柳ヶ瀬川?)が流れ、野方(草刈り場・入会地)があり、周辺は畑地あるいは水田となっていました。
もともとこの辺りは土地の低い湿地帯でしたから、古くから蓮池、沼池がありました。その位置や大きさは正確にはわかりませんが、神室町2丁目、日ノ出町1丁目付近、柳ヶ瀬通りより南にあったのは確かでしょう。
岐阜市神室町にあった岐阜胃腸病院(現・山内ホスピタル)が大正12年8月に出した新聞広告に「蓮池東」と所在地を紹介しています。大正末期までは場所を説明するのに「蓮池のどっち」といったほうが町名よりも分かり易かったようです。
かつて、元・岐阜市歴史博物館館長小川弘一氏が「水道山から加納地区にかけての微高地沿いや金神社あたりの丘陵地には、弥生時代の遺物や古墳時代の遺物が散在している。付近が低湿地で米づくりなどのかんがい用水が比較的得やすかったので、人が住みついたのだろう。すると柳ヶ瀬付近には、当然長良川が流れ込んでいたのかもしれない。そのため柳ヶ瀬という地名が生まれたのではないか。」と語られたことがあります。確かに今でも柳ヶ瀬はやや土地が低く、大正のころまで大雨のときは必ずといってよいくらい、たん水しました。
江戸時代の柳ヶ瀬付近にはめぼしいものは見られませんが、むしろ近接の旧岐阜町が商人の町として繁栄していました。商業流通は長良川の水運を利用して行われ、湊町・元浜町付近で物資の集散が盛んでした。芝居など娯楽は、伊奈波神社の周辺が、江戸時代中期から明治中ごろにかけて中心地・盛り場してにぎわいました。
明治7年(1874)県庁の設置、明治20年(1887)鉄道の駅の敷設、明治21年(1888)11月金津遊郭の開設などが要因となり、次第に中心部が南進し始めました。
国鉄東海道線の加納(停車場)駅が元町に開設されたのが明治20年(1887)1月。1年後には現在の神田町8丁目に移転。岐阜(停車場)駅と改称されました。
そして岐阜町の中心部と岐阜駅を結ぶ八間道(今の長良橋通り)が開かれました。またその頃八間道から遊郭への道(今の柳ヶ瀬通り)も誕生しました。…県庁と岐阜駅の中間に位置していたこと、新開地で土地の値段が安かったこともその後の繁栄の要因となりました。こうして明治の中ごろになって、ようやく柳ヶ瀬は夜明けを迎えたのです。
八間道から遊郭への道(柳ヶ瀬通り)は、蓮池や田畑のすぐそばを走っていました。道幅は現在とほぼ同じといわれていますから、案外広かったようです。北側は弥八の墓場越しに、岐阜警察署(今沢町)や岐阜監獄(美江寺町)がよく見えたといいます。開設当初の金津遊郭は「押すな押すなの大景気だった」というから、遊客の往来が盛んだったことが想像されます。
しかし、すぐに柳ヶ瀬に店が立ち並んだわけではありません。明治22年(1889)頃、近くの八間道では少しずつ人出が目立つようになっていました。夏の夜は、甘酒、団子、高麗キビ焼き、おもちゃ、古道具屋などの露店が並んで活気付いていきました。また美殿町(元・日タク営業所の東隣)には泉座(後の美殿座)や柳ヶ瀬1丁目(現・中日ビル)には旭座ができ、芝居が人気を集めていました。
わが国で最初に映画(活動写真)が上映されたのは明治29年(1898)。その翌年の明治30年(1899)7月になると伊奈波の芝居小屋「国豊座」で活動写真が上映されています。その様子を岐阜日日新聞は次のように紹介しています。「国豊座の自動幻画は、毎夜その絵を差し替えるよし、今晩はトルコ馬車会社前の賑わいより、内外国著名の都府その他の景色を出すよし(後略)」と。
・今の柳ヶ瀬1丁目,2丁目は、明治37年(1904)頃にはまばらながら家が立ち並んでいた。ただ1丁目あたりは商売するのにいい場所だったが、2丁目で商売していた家は恵まれた場所はなかったので八間道まで出て商売したものです。
・柳ヶ瀬本通りに家が立ち並ぶようになっても、裏通りに入ると、暗くて湿っぽかった。
−昭和50年岐阜日日新聞「やながせ」特集に掲載された柳ヶ瀬の古老の話より−
明治の終わりごろから柳ヶ瀬がクローズアップされてきました。明治44年(1911)柳ヶ瀬駅と美濃町間、岐阜駅と今小町間に電車が開通することになったからです。八間道の夜店が禁止となり、柳ヶ瀬に引っ越してきました。
明治の末から大正の中ごろ、毎年夏には柳ヶ瀬の空き地では、土佐犬の闘犬、子ども相撲、ろくろ首の見世物、露天芝居が行われ、秋になると菊人形が始まりました。八間道、浅野「菊花園」や美江寺山門付近に、端山「菊楽園」(明治末年、小熊町の端山忠兵衛が興行し「菊花園」に対抗)が華々しく開催されました。
菊人形は東京・団子坂に始まり、全国に広まりました。岐阜の地には菊の伝統がありましたが、菊人形が伝わったのは日露戦争の直後。…当時の八間道と日ノ出町の角、柳ヶ瀬の近くに「菊花園」が生まれ、大正末まで続きました。ここの経営者は金津廓「浅野屋」の主人、浅野善吉。ここの菊人形は団子坂にも劣らぬ、との大評判で大いに財を成して、これを「浅野屋」経営につぎ込んだといいます。
「電気館」が岐阜県内初の活動写真(映画)常設館となったのは、明治45年(1912)7月でした。しかしこの月明治天皇が亡くなり、実際に上映が始まったのは翌月(大正1年)の8月10日でした。もちろん無声映画で弁士つきでした。映画を見た市民は口々に「どえらいこっちゃ、写真が動いとる。」といったそうです。
大正4年(1915)10月、「御大典(大正天皇の即位の礼)」に全国が沸いていました。第一次世界大戦は日本の好況を予想させ、大正の新時代は日本の繁栄をもたらすかのような勢いでした。そんな中、岐阜県物産館、柳ヶ瀬(旧煙草専売局の跡地)、岐阜公園の3ヶ所で「御大典記念勧業共進会」を岐阜市が開催。…従来、柳ヶ瀬は郊外線「柳ヶ瀬駅」と「金津」を結ぶ渡り廊下のような存在でしたが、この「共進会」は柳ヶ瀬が自分の足で立ち上がって、市民にその存在を見せた初めてのイベントになったのです。
この旧煙草専売局の跡地が後の柳ヶ瀬繁栄の中核となっていくのです。
大正8年(1919)9月、岐阜市制30年周年記念「内国勧業博覧会」が再び柳ヶ瀬で開催されました。市制30周年記念内国勧業博覧会は、大正8年3月「欧州戦乱の勃起により一大変化をきたせる我邦産業進展の現状を見る」との目的で計画され、日本勧業協会と市議・松原喜八(出品人総代)と原真澄(元代議士 審査長)らが組んで、「まったく私設」で開催されました。
岐阜県物産館が使えなかったので、柳ヶ瀬の旧煙草専売局の跡地を第一会場(工芸製作品展示)、徹明小学校跡地に 第 二会場(農蚕館)、武徳殿(岐阜公園内)を第三会場(美
術館)として行われました。 9月21日に開会式、11月18日褒賞授与式兼閉会式でしたが、人出は約15万3千人あり大成功しました。特設としてカフェー・パウリスタ(名古屋の喫茶店)の出張所も設けられ話題となりました。
柳ヶ瀬の中ほどに煙草専売局岐阜工場があり、岐阜県下の煙草の葉を買い加工していたが、大正の初めに名古屋へ引き揚げていきたり。その跡は六千坪。10年余りゴミ捨て場となり、近所のものも、市役所も不衛生で困り果てていたのを「大万さん」土屋禎一氏ほか二、三名で一坪二十何円かで払い下げをうけた。市議会では知恵者土屋禎一氏の発案で、市制30周年記念内国
勧業博覧会をやることに一決した。
正門は元の専売局の正門。その前に土屋禎一氏は私費を投じて大噴水を作り、払い下げを受けていた跡地三千九百坪を無償提供、50日間の開会で、近在町村からの人出はなはだ多く、毎日、学生団体は相次ぎました。
博覧会が成功裏に終了したのを受け、直ちに区画整理を行い、道路を開設し、この道路敷と大噴水塔を岐阜市に寄付するという快挙を敢行した。時を移さず大噴水塔の西側に衆楽館を建設
−加木鉄主人・中村浅吉氏の「柳ヶ瀬付近の展望」より−
柳ヶ瀬の将来性に目をつけたのは、呉服店でした。着物がファッションの時代、柳ヶ瀬に呉服店が進出しても何の不思議もありませんでした。柳ヶ瀬で呉服店を開業した一番最初の店は「美の繁呉服店」で、明治の中(明治29年)ころでした。
大正3年に入って「たなはし呉服店」が金屋町から移ってきました。そのころそのほかの店では「野村古着店」がありました。大正4年(1915)「江戸っ子」モスリン店。さらに大正11年(1922)には「山田呉服店」そして矢島町より「万力呉服店」(柳ヶ瀬1丁目大万繭問屋跡)が移転開業し、翌12年(1923)には「山本呉服店」(現・ペルル)と「百貨堂」(現・パチンコなな屋)が開業しました。
その他にも「百助小間物店」「丸金料理店」らが柳ヶ瀬に移転してきています。またそのころ柳ヶ瀬を去った中の大物は、「大万商店」(土屋禎一経営)です。店に集まる大八車が交通を妨害して近所に迷惑をかける存在だったからといいます。大正10年(1921)、神田町へ移ることになり、この時移転記念として、400燭の裸電球20個を柳ヶ瀬通りに寄贈。1丁目から4丁目の町内から交互に丸木に腕木を出して点灯しました。露店が増えて賑やかになり、人出が増したといいます。名物スズラン灯ができる前のことで、岐阜市の街頭照明の草分けといわれています。
柳ヶ瀬で競合する呉服店との差別化を考えた「万力」が導入したのは、百貨店方式でした。来店客は店先の下足番に履物を預け、店内へ上がるつくりでした。小百貨店の万力は柳ヶ瀬一帯の各商店に大きな影響を与えました。
「山本呉服店」も、木造3階建ての本格的百貨店として大いに注目され、開店してみると買う人よりも見物人のほうが多かったといわれました。入口と出口は別で、床はじゅうたん敷きで、スリッパに履き替えたそうです。1、2階は売り場、3階は食堂。(昭和の初め経営悪化で廃業)
勧工場方式(数多くの商人が一つの建物の中に各自の商品を販売する)の「百貨堂」は、表側が2階建て片屋根トタン葺平屋建てが完成しました。出店者は、ほとんどが柳ヶ瀬3・4丁目の店主たちであったそうです。
こういった小百貨店は、従来「物が高い」「掛け値がある」といわれた商売から、「正札つきの廉売へ」と変化し、人気を呼び、ますます繁昌をみたという結果をもたらしました。数々の呉服店の進出は互いの競争を激化させ、各店趣向を凝らした宣伝が功を奏し、客が客を呼ぶ商店街の礎となりました。
大正中ごろになると活動写真(映画)がブームとなりました。芝居小屋の美殿座も大正6年(1917)になると、日活の常設館となりました。柳ヶ瀬で開催された「内国勧業博」跡地に、「大万商店」の土屋禎一氏は、岐阜市初のスチーム暖房付き映画館を建設し、大正10年(1921)「衆楽館」として開業しました。そのころになると「岐阜劇場(旧明治座)」、「金華劇場」などが次々オープンし、柳ヶ瀬は映画・芝居興行の中心、大衆娯楽のメッカとなりました。
従来の大衆娯楽といえば、江戸時代から芝居、相撲、寄席などでしたが、この頃から活動写真(つまり映画)が庶民の娯楽の中心となりました。そして大正末期になると、買い物客の他、活動写真を見る人、さまざまな遊戯場に遊びに来る人など、柳ヶ瀬は大勢の人びとで賑わうようになっていきました。
○この作品は、林再寿が下記の文献や資料をもとにまとめたものです。 【参考文献】 ・昭和50年3月4日 岐阜日日新聞 「やながせ」特集 第一部A ・昭和50年3月6日 岐阜日日新聞 「やながせ」特集 第一部B ・「柳ヶ瀬百年誌」S63 岐阜県柳ヶ瀬商店街振興組合連合会 ・平成21年4月21日「岐阜日日新聞・岐阜市120年記念新聞第2号」 ・平成21年6月30日「岐阜日日新聞・岐阜市120年記念新聞第4号」 ・平成21年12月25日「岐阜日日新聞・岐阜市120年記念新聞第12号」 ・「ふるさと岐阜の物語・大正篇」 (清信重著・舟橋印刷) ・「岐阜市史・通史編・近代」(岐阜市) ・「岐阜ものがたり(U)」(H5 岐阜市教育文化振興事業団編) ・「岐阜町金華の誇り」 (NPO法人わいわいハウス金華・岐阜市歴史博物館編) ・「館蔵品図録・絵はがき」(岐阜市歴史博物館) ・「ふるさとの思い出写真集・岐阜」(丸山幸太郎・道下淳共編・図書刊行会) ・「ぬくもりの岐阜地名」(丸山幸太郎・教員出版文化協会) ・「ふるさと明徳」(明徳小学校) ・「地図で見る岐阜の変遷・明治24年の岐阜(2万5千分の1)」(日本地図センター) |