中山道を通った和宮の大行列

1.和宮の歌碑


小簾紅園



小簾紅園にある
和宮の歌碑

 文久元年(1861)10月26日五つどき(午前8時)、和宮は赤坂宿を出発し、やがて呂久の川端に御輿が着きました。あらかじめ大垣藩が用意した御座船に乗り、秋の深まった呂久(現在の揖斐川)川岸の風光を眺めていました。
 
 そのとき、呂久村の馬渕孫右衛門の庭の楓が真紅に色づいているのに目を留め、一枝折り取らせて、船べりにその楓をささせて、御簾の裡(うち)よりずうっと見続けながら、次のような歌を詠みました。
 「落ちて行く 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」

 この歌は、京の都が遠ざかって行く、せつない思いを詠んだものと思われます。河の改修で渡しの位置は変わってしまいましたが、元の所に「呂久の渡し跡」の石碑が建ち、和宮の歌碑がある「小簾(おず)紅(こう)園(えん)」がつくられました。

 この「小廉紅園」のすぐ近くに馬渕家があります。

2.和宮の降嫁

 和宮の行列というと、島崎藤村の『夜明け前』の描写が思い出されます。
「この宮様は婿君(十四代将軍徳川家茂)への引出物として、容易ならぬ土産を持参せられることになった。『蛮夷を防ぐことを堅く約束せよ』との聖旨がそれだ。」と書いています。

 攘夷の勅命を受けて、幕府は万延元年(1860)7月、和宮の降嫁が実現すれば、攘夷の実行をするとの約束を行ないました。そこで、孝明天皇は和宮の降嫁を決意しました。しかし和宮は腹違いの妹であったため、じかに和宮の気持ちを尋ねました。和宮は、「天下泰平のため、誠にいやいやの事、余儀なく御受けします。」と承諾しました。こうして、文久元年10月20日に京都を出発することになりました。

3.中山道が選ばれたわけ

 中山道は、山間部を通る険しい道ですが、東海道の桑名の七里の渡しのように海難事故の心配や川止めの不安も少ないので、「女性は中山道を通ることが多い。」というイメージから「姫街道」と呼ばれています。

 和宮の降嫁が決定したとき、世間では、「天皇は、元来この縁組には賛成でなかったが、関白以下の廷臣首脳部が賄賂を貰って、強いてこれを実現した。」といううわさがしきりに交わされていました。特に、「尊王攘夷派の志士の間では、幕府がこの縁組を計画したのは、将来何か事が起こった際、皇妹を人質にしようとする考えであるとして、和宮が江戸に向かわれるとき、途中で要撃して京都に返そうとしている。」などという風聞が流れていました。そこで、急遽、和宮の行列は中山道を通行することになったのです。

4.中山道の大行列


和宮供奉名簿および行列図

 先の『夜明け前』では、馬籠を通行する和宮の大行列の様子を次のように記しています。

「九つ半時に、姫君を乗せた御輿は旅軍の如きいでたちの面々に前後を護られながら、雨中の街道を通った。厳しい鉄砲、纏、馬簾の陣立ては、殆んど戦時に異ならならなかった。供奉の御同勢はいずれも陣笠、腰弁当で供男一人ずつ連れながら、その後に随った。中山大納言…御迎えとして江戸から上京した若年寄加納遠江守、それに老女等も御供した。これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きも絶えることもなかった。」

 幕府の威信をかけて、行列の安全を守るため、御輿の警衛に12藩をつけ、沿道の警固には29藩を動員しました。和宮の行列は、本隊が千数百人で、警固の者や人足などを合わせると、その長さは50キロメートルにも達したと言われています。

5.美濃での最初の宿泊地・赤坂宿


赤坂宿本陣跡にある和宮の碑

和宮が美濃の地で最初に宿泊したのは、赤坂宿の本陣でした。それは、文久元年10月25日のことです。その本陣は今はなく、そこには「和宮の碑」という石碑が建っています。矢橋家の正面から横に入った所に本陣から移築されたという門があり、本陣の面影がわずかに残っています。

 また赤坂宿では、姫普請(嫁入普請)といわれる格子の入った古い家が残っています。和宮の通行の前の8月17日、幕府の命令により、「宿内の往還通りの見苦しい古屋や空地は恐れ多い」と、突貫工事で61軒の家が急造されました。脇本陣であった榎木屋旅館の手前の所に、今は「お嫁入普請探索館」という小さな建物があります。

  
赤坂宿本陣の門                   嫁入普請の家並み

6.万全を期した河渡宿と河渡の渡し

 翌日の10月26日に赤坂宿を発った和宮一行は、揖斐川の呂久・小簾紅園で休憩した後、美江寺宿を通って、昼に河渡宿に到着しました。

 和宮一行はここで昼食をとりました。…昼食時の飲料水には水質の良かった本陣・水谷家の井戸水が使用されましたが、ご到着一週間前から青竹の矢来が組まれ、しめ縄がはられて「使用禁止」となりました。
 また笠松にいた美濃郡代は、万一に備えて、医療のため河渡宿へ医師2人を派遣しました。


河渡宿・馬頭観音堂

 この頃の河渡川(長良川)は、川幅が150間ほどもあり、雨が降るとよく渡船中止となりました。和宮がこの川を渡るため、「河渡の渡し」の体制も平時よりも万全な体制がとられました。…長さ9間(約16メートル)の舟に、駕籠のまま載せて長良川を渡るのです。中央に屋根をかけ、障子をはった舟に「ご駕籠台」を据え、8人の水主が乗りました。またお供舟は2艘、引舟は3艘、他に川下に用心舟4艘を出すなど、非常の場合に備えられました。

7.宿泊地・加納宿では…


加納宿本陣跡

 そしてその日の夕方、加納宿の本陣・松波藤右衛門の宿に着きました。現在の本陣跡には、「皇女和宮御仮宿泊所」、「中山道加納宿本陣跡」の石碑が建っています。「遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も たちうかりけれ」という和歌が石碑に刻まれています。
 
 加納宿で宿泊したのは、和宮の行列では本陣に88人、その他の宿舎に1617人にもなりました。そのうえ、前々日には、菊亭中納言など394人、前日には広橋一位など365人が脇本陣などに宿泊しました。さらに、翌日にも坊城中納言など282人が泊りました。 この他に助郷人足など延べ16212人、馬825疋にその他の人足も必要でした。これらの人馬賃銭が12730両余りで、総額は15000両以上の経費がかかりました。

 和宮の本陣での夕食時の献立は一汁四菜で、膾(なます)(鰈(かれい).・みぞれ大根・二はい酢)、汁〈赤みそ・蕪(かぶら)小才〉、香の物(奈良漬瓜・沢庵 大根)平(牡丹海老・生ゆば・百合根)、焼き物(生ぶり付け焼き)、飯というもので50人分用意されました。その他に一汁三菜、一汁二菜の献立が350人分出されました。

 和宮の行列の御輿が通過する際には、庶民は見物をすることを禁止されました。
「男は目にふれる所に出てはいけない。女は戸口から下がって平伏して見送ること」などが命ぜられ、勿論声高で話をすることなどできませんでした。また鳴り物・工事・木割・米搗きなど、騒音は前後七日間に渡って禁止されました。さらに「犬は必ず繋いでおくこと」、「道筋の高い所へ重い物を置いたり、釣棚をつけたりしないこと」、「簾を取り外すこと」、「道筋の便所を取り外すか、囲いをつけること」、「家ごとに夜は行燈を出すこと」など、街道筋への命令をしています。その他に、「葬送を出さないこと」、「寺社に集らないこと」、「目にふれる所での田畑で耕作しないこと」なども命ぜられました。

8.太田宿での助郷人足の悲劇

 翌日の10月27日朝、加納宿を出発した和宮は、その日は鵜沼宿を通り太田宿に宿泊。そして28日は大湫宿、29日は中津川宿宿泊を経て、落合から木曽路へ入り、江戸までの旅を続けたのです。
 
 太田宿の助郷人足としてかり出された久田見村(現在;加茂郡八百津町久田見)には、今も次のような言い伝えがあります。
「太田宿御囲い人足として、10月27日に出立して11月1日に戻るとある。…中津川行きの人足の出立も10月27日で、6、7、8、9日とかかり、さらに分かれた120余人は中津川から三留野まで行った。役人は慣れない農民の人足をきびしく取り扱い、期限が来ても村へ帰さなかった。そのとき宰領役を殺し、人足も7人死ぬ事件があり、人足50余人は命からがら一行から逃げ出し、昼は山に、夜は道案内を頼んで、ひろせ、あららぎ、清内、次村を通って岩村へ廻り、やっとのことで村に帰ったといわれている。」

 このように、和宮の大行列には、宿場だけでなくまわりの村々でも、人足として、あるいは道の清掃などに、とても多くの人がかり出されました。

9.その後の和宮


和宮親子内親王画像

 和宮の一行は、こうして中山道を通って、11月15日に無事に江戸に着きました。和宮と徳川家茂との結婚は翌年の文久2年(1867)2月に行なわれ、幕府の意図した公武合体策の一つが現実のものになりました。
 
 しかし、和宮は、結婚わずか5年も満たないうちに、家茂の死によって未亡人になってしまいました。和宮は、鳥羽伏見の戦いの後に、朝敵となった徳川家の苦境を救うために尽力しました。
 幕府の滅亡後は、一旦京へ退きましたが、再度江戸へ戻り、天璋院篤姫などの徳川一門の人たちとの交流を持ちました。
 
明治10年(1877)31才の若さで脚気衝心のために亡くなりました。

○ この文章は、橋村 健が下記の文献など、いろいろな資料をもとにまとめたものです。
〈参考資料〉
・「日本の歴史〜19開国と攘夷」
・「夜明け前」
・「中山道〜美濃十六宿〜」
・「岐阜市史〜近世〜」
・「加納町史〜後編〜」
・「岐阜市歴史博物館総合展示案内 ぎふ歴史物語・伝統の技と美」など
・「岐阜市合渡の歴史」

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