磐城平藩の飛び地支配と新政府への対応

1.加納城主から陸奥国磐城平藩へ


加納城跡

 磐城平藩といったら福島県の藩です。ここが美濃の地(岐阜県)と、どのような関わりがあったのでしょうか。
 磐城平藩の藩主が加納城主になっていたことがあったからです。それは安藤氏で、正徳元年(1711)〜宝暦5年(1755)までは、6万5000石を領していました。最初は安藤信友で老中を務め、備中高松城から転封してきました。次は安藤信尹(のぶただ)です。彼は、宝暦5年(1755)に農民の強訴を契機とした家中騒動のため、強制隠居させられ、所領も6万5000石から5万石に減封されることになりました。跡を継いだ信成(のぶひら)は、陸奥国磐城平藩に移されました。信成は、後に、幕府の要職の寺社奉行、若年寄に就き、寛政5年(1793)老中まで登りつめました。その功績により、享和3年(1803)12月、美濃厚見郡、方県郡、羽栗郡、本巣郡のうち1万8000石を加増されました。

2.加納藩主の移り変わり


奥平信昌像(部分)

 関ヶ原の戦いに勝利し、全国を治めるようになった徳川家康は、豊臣方の勢力をおさえる大事な場所として、加納に城を築かせました。家康は長女の夫である奥平美作守信昌に10万石を与えて城主にしました。2代目の忠政は松平姓を授けられ、3代目の忠隆には跡継ぎがいなかったため断絶しました。その後は、大久保氏(1代)、戸田氏(3代)、安藤氏(3代)が加納藩主となりました。その後、永井氏(6代)が3万2000石を領しました。明治維新を迎え、版籍奉還するまで加納藩主をつとめてきました。

3.磐城平藩と切通陣屋


切通陣屋の碑(切通観音地内)

 磐城平藩の安藤信成は、旧領を復帰されたとはいえ、奥州と美濃とは非常に離れていたので、美濃の飛び地支配に配慮して、享和3年(1803)、陣屋を厚見郡切通村に設け、郡奉行、代官、与力、同心など22人を詰めさせ、地元村役人に強い権限を持たせて地方を支配させました。惣元取、組元取、郷目付を村政の主軸とし、領内を東方と西方に分けて支配しました。
 切通陣屋のあった場所はくわしくはわかりませんが、今の切通観音の辺りと考えられています。

4.長森騒動

 磐城平藩の3代目藩主、安藤信義(のぶよし)は文化11年(1814)に対馬守に任ぜられ、文化13年(1816)には奏者番になっています。
 文政8年(1825)、財政が苦しくなった磐城平藩は、美濃国に持っていた領地の農民にたくさんの税をかけました。これに対し、日野村の人たちが反対したので、日野村だけが特別に免除されることになりました。しかし、このことを知った他の村の人たちが前一色山へ集り、一揆(いっき)が広がりそうになったので、加納藩や尾張藩岐阜町奉行所から兵が出ることになり、結局、磐城平藩は農民の要求を聞き入れて一揆を収めました。その後、検挙や処罰がなされ、4年後、野一色、北一色などから100人ほどが入牢させられ、中には牢死する者も出ました。農民たちが生活を守るためにやむなく立ち上がり、要求は実現しましたが、大きな犠牲を払ったのでした。

5.苦難を乗り越えて政治の表舞台に立った磐城平藩


磐城藩勝手方の
500両に上る借用書

 4代目藩主の安藤信由(のぶより)の時、天保の大飢饉や長雨による大冷害などで3000人を超える餓死者を出し、藩財政が困窮してしまいます。
 この跡をついだのが安藤信正(信(のぶ)睦(ゆき))です。井伊直弼(なおすけ)の暗殺の後、彼と久世広周(ひろちか)が老中となって、軍政改革や全国的な市場支配を意図しましたが実施は困難でした。そこで、天皇の攘夷の意思を政治の中にとり入れるために、公武合体によって政治を補強しようとしました。それが孝明天皇の妹和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)を将軍家茂(いえもち)の夫人に迎えることでした。


安藤信正(信睦)画像

 これは、万延元年(1860)4月に奏請して、10月には勅許を得、文久元年(1861)10月にはその東下が実現しました。これが和宮の降嫁(こうか)でした。こうして勅令によって幕政を改革する公武合体路線の意図は一応成功するかに見えました。
 ところが、和宮降嫁は逆に攘夷派志士の反発を買い、文久2年(1862)1月安藤信正は、坂下門外において、儒者大橋訥庵(とつあん)を謀主とする水戸藩浪士に襲撃されて負傷しました。(坂下門外の変)
 間もなく安藤信正は失脚するに至り、幕府による公武合体運動は失敗に終わりました。

6.激動の幕末と東山道鎮撫総督の東征

 慶応3年(1867)10月、将軍慶喜は、時勢を察し、意を決して大政奉還を上奏しました。同年の12月には、大政復古の大号令が発せられました。こうして、天皇親政が始まりました。しかし、国論は未だ統一されず、翌年1月には、慶喜を擁した会津・桑名藩などの佐幕派は、薩摩藩の罪を問うと称して京都に向いました。京都の入口にあたる鳥羽・伏見(京都市)で薩長軍に敗れ、慶喜は海路江戸へ逃げ帰ってきました。


徳川慶喜征討令制札

 ここにおいて、朝廷は慶喜以下の官位を削剥し、征討の令を発しました。同年1月10日、朝廷は、「是迄徳川支配いたし候地所を、天領と称し居候者言語道断儀に候。此度往古の如く総て、天朝之御料に復し、真の天領に相成候左様相心得べく候。」と布告し、岩倉具定を東山道鎮撫総督に任じ、幕領の収公と諸侯の帰順を促し、庶民の動揺を防止し、天皇親政の徹底を期すために、いわゆる錦の御旗の東征となったのでした。

7.赤報隊の進入による混乱

 ところが、総督府の東征準備が整わない1月6日、東征より先行して功を立てようと、前侍従綾小路俊実は近江の水口藩士数人を率いて京都を発ち、次いで、侍従滋野井公寿、浪士鈴木三樹三郎等も加わり、赤報隊と名乗って、勤皇の義徒を募りながら東進してきました。
 18日、赤報隊約70人は、幕府陸軍奉行の職にあった竹中重固の不破郡岩手村陣屋を襲い、重固の父重明を寺院に幽閉して謹慎を命じ、その知行地を収め、近隣の幕領地とともに、今年の租税を半分に免ずると布告し、更に金穀を徳川に出さぬように命じました。
 翌21日には、幕府若年寄永井尚服(なおこと)の城下加納に入り、加納城に立て籠もることを主張して加納藩の役人をあわてさせました。また、笠松代官所を襲撃しようとする不穏な動きを示し、暴行沙汰などが相継いだので、城下を始め近隣の村々も、騒然として収拾困難に陥りました。しかし、朝廷の命を帯びて美濃に来ていた竹沢寛三郎の説得で、赤報隊と笠松との間の衝突は避けられました。
 このように勤王の名を借りて暴徒のような振舞いをする者が出現したので、鎮撫総督は早速各郡村に対し、「このような徒輩が立ち回った時は、捕らえて本陣へ訴え出るように、もし手向かいする者は打ち捨ててもよい。」と警告を発しました。

8.明治維新政府への磐城平藩と加納藩の対応


東山道鎮撫総督達

 慶応4年(1868)1月21日、東山道鎮撫総督・岩倉具定が率いる討幕軍が京都を出発しました。このとき、中山道沿いの大名に対し、総督の本陣に出頭しない者は厳しく処罰するという命令を出しました。
 28日、切通陣屋の上席郡奉行九里鋒太郎が近江醒ケ井の総督本陣に参上して、「藩主安藤信勇(のぶたけ)が未だ帰順の申し出をしていないが、それには磐城と言う地域的な事情や、祖父信正が幕府の老中であった事、および、それ以来の幕府との関係や、国元(磐城平藩)と美濃とは距離も遠く情勢判断に藩主が手間取っている」など、種々事情を陳謝釈明しました。しかし、磐城平藩藩主安藤信勇と不破郡岩手陣屋の竹中重固は、なお徳川慶喜に通じていたので、2月4日、重固の知行地と共に、切通陣屋管轄地(平藩美濃領32ケ村、石高1万7200石分)は接収され、これらは暫時大垣藩と尾張藩に管掌されることになりました。
 2月22日、総督は河渡を経て加納宿に入り本陣に宿営しました。当時、江戸幕府にあって若年寄兼会計奉行という要職にあった永井尚服は、その要職を辞め、21日に急いで加納に戻り、総督の本陣に出頭しました。これが認められて、謹慎で済むことになりました。総督軍が加納を出発すると、加納藩は100人の兵を出して警護に当たると共に、途中から東征軍の先鋒となって江戸へ向いました。
 こうして、慶応4年4月11日、東征軍は江戸城に錦旗を翻して無血入城し、これを接収し、慶喜は恭順の意を表して水戸へ退去することとなり、徳川260余年の権勢を誇った幕府は終に滅びました。

9.戊辰の役とその後の磐城平藩

 磐城平藩も奥州列藩と共に奥州同盟に加わっていました。そこで、新政府軍は、同年7月13日、磐城平城を攻撃しました。政府軍は大軍と大砲・小銃で攻め立てました。城主安藤信勇は、祖父信正と共にすでに仙台に逃れていたので、家老の上坂助太夫は薙刀を振るって城兵を指揮し、奮戦したが、弾薬は尽き、死傷者も相次ぎ、頼む米沢藩の救援軍も期待できなくなったので、自ら城に火を放ち、敗走しました。


切通観音堂

 信勇は、明治元年(1868)12月、信正が新政府と敵対したことから、陸中磐井郡3万4000石に減移封されかけましたが新政府に必死に働きかけて、この処分は取り消されることになりました。
 こうして、信勇は、明治2年(1869)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871)の廃藩置県で免官されました。
 切通陣屋は、安藤氏7代にわたり67年に及ぶ支配を行なってきましたが、徳川幕府の崩壊と共に取り壊され、今は陣屋跡の碑がたち、切通観音堂として名残をとどめているだけです。

 この文章は、橋村 健がいろいろな資料を基にまとめた文章です。
〈参向資料〉
・「長森史考」(林 春樹著)
・「日本の歴史19開国と攘夷」(中央公論社刊)
・「岐阜市史」(岐阜市刊)
・「岐阜歴史物語」(岐阜市歴史博物館刊)
・「ふるさと琴塚」(琴塚広報会刊)
など

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