岐阜公園の移り変わり

1.はじめに

 濃尾平野のどこからでも眺められる標高329メートルの金華山。シイやカシなどの雑木に覆われ、その自然林の麓に広がる岐阜公園。…春の桜に始まり、ホタル鑑賞、イルミネーション、菊花展、松の雪吊り、コモ巻き、金華山の紅葉等。…それはまさに四季折々の”市民の憩いの場”です。
 また、遠足や歴史博物館・名和昆虫博物館見学などで多くの学校や子ども達がやって来るなど、それは”勉強の場”でもあるのです。最近では、信長居館跡の発掘調査の見学などに訪れる観光客の姿も見られるようになりました。
 岐阜公園は、どのような歩みをしながら、現在に至ったのでしょうか?

2.明治の頃の岐阜公園と金華山

 明治10年(1877)中教院(神仏合併の布教施設。実際は神道のみ)が、現在の岐阜公園(当時は厚見郡富茂登村)に建設されました。…この土地は、斎藤道三・織田信長の時代には居館や武家屋敷などがあった所で、江戸時代以後は荒れ地・畑地のまま放置されていました。
 岐阜中教院の位置は、南は金華山ロープウェイの下(現在・公衆トイレ附近)から、北は発掘調査案内所の東附近に及び、東は山、西は今の用水路の線で囲まれた区域ぐらいであったと言われています。

 岐阜公園は明治15年(1882)「丸山公園」として開園しましたが、この年の4月6日におきたのが「板垣退助暗殺未遂事件」です。濃飛自由党主催懇親会が公園内の岐阜中教院で開かれ、100名を超える参加者がありました。板垣退助は演説を終えた後、懇親会を途中で退席し玄関に出た時、相原尚?に襲われたのです。板垣は負傷しましたが「板垣死すとも自由は死せず」という名文句を発したと言われたことが、あまりにも有名です。そしてこの舞台となったのが、岐阜中教院でした。
 この公園が本格的に整備され開園式が行われたのは、明治21年(1888)11月1日でした。この年の2月から、小川汲三郎や有志及び消防組協力者の尽力で、迎賓館兼倶楽部、物産陳列場の建設が始まりました。当時の様子を、岐阜日日新聞は次のように報道しています。

「場所は中教院前を南の方角に一町四面余りを充て、料理屋1、2の民家を立ち退かせ工事は全て岐組が担当、費用6千余円は岐阜市および近隣地域に割り当て…」
「公園物産陳列場三棟は各々横四間、東西に入り口あり煉瓦を敷き詰め、倶楽部は北面して玄関に上り、東に向北に折れ、また東に赴く構造、二個の鍵の手をなして曲折し、待合い、上段の間、平間、浴室などあり、御殿風の造り、畳敷は三百畳余り、南方に離れて事務室有り、庭中に庭樹を設け…」

 しかし4.5月には賑わった公園も、7月には「游客も少なく草生い蛇生する有様」でした。

 明治22年(1889)7月1日、岐阜市が誕生するのですが、この公園は、明治26年8月に岐阜市へ移管され「岐阜公園」と改称されました。しかしその後も利用者はほとんどなく、28年頃には「その後改修をなさざる為、狐狸の巣と思われる有様」「今回道路改修千畳敷の亭など大修理の予定」と報じられる状況でした。
 明治37年京町にあった名和昆虫研究所が移転し拡張されています。そして明治41年6月大日本武徳殿岐阜支部の殿堂(柔道の道場)・岐阜武徳殿が建設されました。

 明治41年8月、岐阜市教育会は、はじめて「岐阜市案内」を作りました。その中の「岐阜市巡覧唱歌」には、次のような歌詞が見られます。 

 山の麓は岐阜公園 青芝褥とひろがりて 木かげに輝く武徳殿 板垣伯の遭難地
 千畳敷はその上よ 彼所の丘には白華庵 西南なる建物ぞ 名和氏の昆虫研究所

金華山頂の模擬城


 一方、明治20年(1887)頃から「散歩遊歩」「登山」が流行し始め、しだいに金華山は人びとの憩いの場所となっていきました。こうした中で、明治43年(1910)5月、金華山上に模擬城が建設され、6月からは看守人が置かれました。

3.大正期の公園整備


板垣退助と銅像(除幕式)


 大正3年(1914)市議会の決議にもとづき、いよいよ岐阜公園が本格的に整備されることになりました。
 大正5年(1916)3月工費5500円をかけて三重の塔の建設が始まり、翌6年(1917)大正天皇の即位記念として完成しています。材料には長良橋の古材を使用したとのことです。

 また大正7年(1918)4月2日には「板垣退助伯遭難記念銅像」が山田永俊らによって、ほぼ現在の場所に建立されました。除幕式には板垣夫妻も出席したそうです。

4.昭和初期の公園整備と「躍進日本大博覧会」


躍進日本大博覧会・子どもの国


 昭和11年(1936)、2.26事件がおきた直後の3月25日〜5月15日に開かれた「躍進日本大博覧会」は、戦前最後の大博覧会で、岐阜公園及び長良川畔一帯で開催されました。そのようすを、岐阜市史は次のように記録しています。

 博覧会の主な内容は第1産業本館・第2産業本館、近代科学館、岐阜県及び岐阜市館、国防館、観光館…など、三十数館にのぼる施設でした。なかでも「日本全土の観光産業の一大パノラマを展示する観光館、関の孫六の流を汲む刀都関の名匠の刀剣鍛錬の実演、近代科学の粋を集め威力を実演によって示す近代科学館、公園内三重の塔にて勧修される高野山弘法大師特別開帳…などの公開」は見ものと言われた。


 この時「噴水の女神の像」が建立されましたが、昭和17年金属回収で姿を消しました。(現在の歴史博物館前の「噴水の女神の像」は、戦後建てられたもの)
 また、第2次世界大戦がはげしくなつた昭和18年(1943)2月17日、金華山頂の模擬城が焼失してしまいました。またこの年、板垣退助像は金属回収のため供出させられ姿を消しました。

5.戦後、市民に親しまれた岐阜公園

 昭和20年(1945)7月9日岐阜は空襲にあい、8月15日やっと戦争は終わりました。しかし焼け野原となった街を再建するには、厳しい生活が待っていました。しかし、終戦後5年を経過した頃から、さまざまな岐阜公園の再整備の動きが始まりました。

 まだ戦後の厳しい状況だつた昭和25年(1950)、今まで岐阜市が進めてきた「金華山総合開発」の中心事業として、同時に「普通失業対策事業」として、「金華山ドライブコース」の建設工事が着工されました。(開通は昭和38年3月)

 またこの年の5月3日に「板垣退助像」が中教院があった所(ロープウェイ駅の下・井戸附近)に再建され、盛大に除幕式が行われました。
 同じ昭和25年(1950)9月1日、日本で初めて岐阜公園に「淡水魚水族館」が開館しました。館内には24の水槽および大プールがあり、鵜飼につきもののアユをはじめ、オオサンショウウオ・ニジマス・ウグイ・カワムツなど淡水魚18種類が飼育され、とくにオオサンショウウオは注目を集めたそうです。またこの頃から、月の輪熊、オシドリ、タヌキ、羊も公園で飼育されるようになりました。


 さらに、昭和26年(1951)10月26日、板垣退助像と同じように、大戦中の金属回収で姿を消していた「女神像」が、9年ぶりに再建されました。

 終戦後10年を経過して、いよいよ復興期から高度経済成長期に入る昭和30年(1955)7月、岐阜市は青少年の科学教育、一般市民の科学知識の向上を目的として、「児童科学館」を開館しました。
 また4月14日には前年から取りかかっていた「金華山ロープウェイ」も開業しました。この開業について、新聞(岐阜タイムス)は、次のように書いています。

 金華山の索道架設計画は岐阜市民30年来の夢で幾度か計画されながら今日まで実現を見るに至らなかったものが、今回ようやく実現したものであり、金華山の山岳公園化はこれよりさらに拍車をかけることになろう。いずれにしてもこれこそ人工の天の浮橋、雲の桟橋ともいうべきもので観光岐阜に一名所を加えたことは喜びに堪えない。

 そして翌年の昭和31年(1956)7月25日、岐阜城が再建落成しました。当日の新聞には次のように書かれています。

 岐阜城の落成式はきょう午前9時半から金華山頂の南側広場に桑原岐阜城再建期成同盟会長はじめ関係者250名が集まって華やかに行われるが、本社でも午前8時、空から岐阜市民にメッセージを贈るのを皮切りに、ブラスバンドの市中行進をはじめ十大祝事業をもよおして郷土岐阜のシンボル、岐阜城の完成をお祝いする。


 また昭和32年(1957)岐阜公園内に県立図書館が完成し、調べたり学習したりする人の姿も見られるようになりました。
 またこの頃から、いろいろな動物を飼育したり遊具を設置したりして、動物園・遊園地として整備されました。そして「子どもと親が一緒に遊べる公園」「市民のリクレーションの場としての公園」となりました。そして写生大会なども行われ、岐阜公園は、文字通り、多くの市民に親しまれる公園になりました。
その頃の公園のようす、そしてその後の移り変わりを、かつて岐阜市公園課などに勤務された柳原茂男さんは、手記で次のように書かれています。

 当時の市長・松尾吾策が「名古屋まで行かないとライオンや猛獣が見られないのは子どもがかわいそうだ」と、東山動物園からライオン一対とペンギン4匹、鹿一対を譲り受けました。また、インコウ、カナリヤ、文鳥、大ヅル、白鳥、ペリカン、フンボルトペンギン、長江ワニ、ウミガメ、オオサンショウウオ、日本猿など多くの動物を飼育され、名実とともに動物園となりました。さらに音楽堂、子供遊園地もでき、子ども達、大人の楽しい場所となりました。そして遠足に、写生会・勉強にと、毎日多くの子どもが訪れ、市民・県民及び観光客にも親しまれました。
 ライオンの金ボタン(昭和48年死亡)銀ボタン(昭和52年死亡)がいなくなり、その後ライオンも譲っていただくが、猛獣脱出防止策が出来ず、順次動物を減らし、ライオン舎もサル舎としていました。動物園がにぎわっていた頃写生大会も毎年行い、作品も300〜500枚あり、学校からも「写生に行く」との連絡も多く入りました。ライオン舎前、ペンギン池前もにぎわっていたことが最近のように思い出されます。音楽堂(現在は加藤栄三・東一記念館の所)があった頃、舞台へ上がり、歌ったり踊ったり遠足の昼食の場として子どもが楽しくおいしそうに食事している姿が多く見られました。すぐ北に鹿舎もあり、親子鹿が仲良く遊んでいる様子を幼児が見ている姿もなつかしく思います。公園からは金華山山頂への登山道もいくつかあり、岐阜城にロープウェーでも行けます。
 昭和60年5月金華山トンネルもでき、内苑、外苑との連絡橋も完成しました。またこの年歴史博物館も11月にオープンしています。昭和59年より公園整備の一環で音楽堂も取り壊され、鳥類も畜産センターに引っ越し、県内の小中高へも小動物を譲り渡し、オオサンショウウオも神奈川県や上野動物園へ引き取っていただいたり、いろいろの所へ引き取ってもらい、平成11年の6月全ての動物舎、水族館も解体されました。

6.終わりに(歴史公園への変貌と期待)

 昭和62年(1987)の「岐阜市制100年」を記念して、岐阜公園を歴史公園に再整備しようという計画が立てられました。そしてそれに先立ち昭和59年(1984)から62年(1987)にかけて、岐阜城跡遺構の有無を確認するため、千畳敷、および千畳敷下発掘調査が開始されました。
 昭和63年(1988)度から平成元年(1989)度にも、山麓駅の北(加藤記念館や滝の付近)などが調査され、さらには平成17年(2005)度からは1.2.3区と順に場所を拡げ調査が続いています。
 こうして、信長公居館跡のようすが次第に分かってきました。そして全国から発掘調査のようすや信長公居館跡のようすについて知りたいという観光客の姿も多く見られるようになり、平成21(2009)年の秋には総合案内所も完成しました。
 将来的には、文化庁の指定を受けるとともに、一方で「信長公居館」を復元しようという計画もされています。そしてますます、岐阜城と岐阜公園は、鵜飼とともに「岐阜」を代表する観光地になっていくと思われます。今後は、岐阜公園を起点とした川原町通り、大仏殿等も含めて「歴史公園」として発展することが期待されています。

かつて岐阜市公園課などに勤務された柳原茂男さんから、「岐阜公園の今昔」という手記を寄せていただきました。これをもとにして、さらに下記の資料や文献を参考にしながら、後藤征夫が「岐阜公園の歴史」をまとめました。
<参考文献・資料・協力>
・手記「岐阜公園の今昔」(柳原茂男)
・「岐阜市の公園緑地」
・「あなたと紡ぐ岐阜物語」
・「大宮町1丁目史誌」
・「岐阜市史・通史編・近代」(岐阜市)
・「岐阜市史・通史編・現代」(岐阜市)
・「岐阜市史・史料編・現代」(岐阜市)
・「岐阜市史・史料編・近代一」(岐阜市)
・「岐阜市史・史料編・近代二」(岐阜市)
・「岐阜県史・通史編・近代下」(岐阜県)
・「市制120周年記念・岐阜市民のあゆみ」(市民のあゆみ展実行委員会)
・「文化財グラフ・岐阜 第16号」(岐阜市教育委員会)
・「三策ガイド・金華山と岐阜の街」(まつお出版)
・http://nobunaga-kyokan.jp
・http://judo-gifu.wcb.infoscck.co.id/history.htm

情報発信誌VIVOに掲載されました


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