「ふるさと岐阜の歴史をさぐる」No.15
この歌を、知っていませんか?
…これは野口雨情作詞、本居長世作曲の童謡で、大正12年に発表された「青い目の人形」という歌です。この歌は、昭和になって日本の子どもたちの間で大流行しました。それは、こんな「人形交流の歴史」があったからです。
明治から大正にかけて、多くの日本人がアメリカに移り住んでいました。その頃のアメリカは不景気で失業者があふれ、低賃金で働く日本人は嫌われ、日本人を閉め出す運動が起こっていました。1924年(大正13)には日本人がアメリカへ入国できない法律ができるなど、両国の関係は悪くなっていきました。
そんな中、20年以上宣教師として日本に住んでいたシドニー・ルイス・ギューリツク博士は、日本とアメリカの関係をよくするには、子どもの頃からお互いを知って友情を深めれば、大人になってからも仲良く暮らせるはずだと考えました。日本の雛祭りを知っていたギューリック博士は、日本の子どもたちが喜ぶようにと雛祭りに向けて人形を贈る計画をアメリカ中に呼びかけました。
この計画には48州、約260万の人たちが協力して、12739体の人形を購入し、手縫いの洋服を着せ、手紙やパスポートなどを持たせて、3月3日の雛祭りに間に合うように日本へ送り出しました。
日本ではギューリック氏と親しい実業家の渋沢栄一氏が人形の受け入れの窓口となりました。そして文部省や外務省へ呼びかけ、人形を配る学校を決めたり、歓迎会の準備をしました。
1927年(昭和2)1月から3月にかけて、横浜や神戸の港に人形を乗せた船が次々と到着しました。この頃の日本では、童謡「青い目の人形」が流行していたため、この友情人形も「青い目の人形」と呼ばれ、新聞などで大きく紹介されました。
3月3日、東京青山の日本青年館での歓迎式には、東京の各小学校の代表の子どもたちが2000人も集まり、盛大に催されました。 その後、人形は、全国の小学校や幼稚園に配布されたのです。
岐阜県には235体の「青い目の人形」が贈られてきたといわれますが、最初の「青い目の人形」119体が岐阜県庁に迎えられたのが1927(昭和2)年3月2日。…県当局は、「人形の使命を果たさせるため、これを機会に子どもたちにアメリカと日本が仲良く握手して、世界平和のため貢献せねばならぬことを講話するように」という通達を出しました。翌々日の4日には県庁に62体が迎えられました。
そして3月6、7日の両日岐阜県商品陳列所で歓迎展覧会が盛大に開かれました。ここでは、各小学校で前もって練習された「人形を迎える歌」を、大勢の子どもたちが歌ったようです。
この展覧会では、アメリカ児童の作品・絵画や写真なども陳列され、また岐阜高等女学校と富田高等女学校のおひな様も一緒に飾られました。当初この展覧会は二日間の予定でしたが、あまりにも入場者が多く、入りきらないほどの歓迎ぶりだったので、8、9日も引き続き開催されたそうです。
その後、「青い目の人形」は、県内各地の主な小学校、幼稚園へ配られました。(現在分かっている数は189体。そのうち現在の岐阜市内には19体)人形が贈られた学校ではそれぞれ歓迎会が開かれ、アメリカにお礼の手紙を出すこととなっていました。
地 区 | 人形受領学校名 | 現学校名 |
1 | 金華尋常高等小学校 | 岐阜小学校 |
2 | 京町尋常高等小学校 | 岐阜小学校 |
3 | 明徳尋常高等小学校 | 明徳小学校 |
4 | 徹明尋常高等小学校 | 徹明小学校 |
5 | 白山尋常高等小学校 | 白山小学校 |
6 | 梅林尋常高等小学校 | 梅林小学校 |
7 | 鶉尋常高等小学校 | 鶉小学校 |
8 | 長良尋常高等小学校 | 長良小学校 |
9 | 島尋常高等小学校 | 島小学校 |
10 | 長森尋常高等小学校 | 長森南小学校 |
11 | 北長森尋常高等小学校 | 長森北小学校 |
12 | 黒野尋常高等小学校 | 黒野小学校 |
13 | 方県尋常高等小学校 | 方県小学校 |
14 | 芥見尋常高等小学校 | 芥見小学校 |
15 | 厳美尋常高等小学校 | 三輪南小学校 |
16 | 春近尋常高等小学校 | 三輪南小学校 |
17 | 山県尋常高等小学校 | 三輪北小学校 |
18 | 明道幼稚園 | |
19 | 芽含美幼稚園 |
明徳尋常高等小学校(岐阜市明徳小学校)
−児童代表(6年生;平田基くん)の手紙−
「花のような愛らしいお人形さんをお贈り下さいましたご好意厚くお礼申し上げます。あなたの国に世界児童親善会が設けられまして、そのお友達同志のお使いの友情のお人形さんが私どもの国へついた時は大歓迎でした。
私たちの学校へもそのお人形さんがいらっしゃいました。すると、お人形さんはお国がこいしくなったのか『ママアー』と泣きました。そして見慣れない私たちをきょろきょろ眺めている愛らしいひとみを見ると、皆様のお顔を見るように思えて一層なつかしく感じました。緑色の洋服、清くすんだぱっちりとした目、可愛らしい口もと、そのようすは大変美しく見えました。
あなたの国と私の国との間を結ぶ友情のお人形さんは、とこしえに日本の国で幸福に日を送ることを信じてください。まだ見ぬアメリカのお嬢さん方がいつまでも仲良くいたしましょう」
−6年生の吉村花子さんの作品−
明徳尋常高等小学校ではこうした手紙のほか、人形の童謡も児童に作らせました。
「アメリカ生まれのお人形さん はるばる日本へお使いにほんとに可愛いいおすがたで やさしい心をあらわしてみんなで仲良く遊びましょう お人形さんは泣かないでみんなと一しょに遊びましょう みんなと一しょにうたいましょう」
京町尋常高等小学校
(京町小学校→現・岐阜小学校)
京町尋常高等小学校に来た人形は「パーセルクラーク」といいました。毎年ひな祭りには学芸会があり、人形を飾って「人形を迎える歌」を歌いました。
←左の写真は、贈られた「青い目の人形」のお礼として、アメリカに送るために撮られたもののようです。
前列左側の人形が京町尋常高等小学校に贈られた「パーセル クラーク」、前列右側の人形が明徳尋常高等小学校に送られた人形、そして後列の人形は 金華尋常高等小学校に贈られた人形ではないかと思われます。
方県尋常高等小学校(方県小学校)
方県尋常高等小学校では運動場に全校児童を集めて、校長先生が青い目の人形の紹介をしました。その前には「Welcome Miss Marie」の看板が見られることから、人形の名前は「マリエ」だったのでしょう。この小学校では、「人形歓迎風景」「当時の学校のようす」の写真を2枚を、お礼としてアメリカに送りました。
その他の各小学校でも、「青い目の人形」の歓迎会が盛大に行われ、そのようすを伝える写真やお礼の手紙をアメリカに送りました。
「青い目の人形」を受け取った学校からは返礼の品を送りたいという申し出も聞かれ、日本国際児童親善会(渋沢栄一会長)は答礼人形を贈ることを決めました。1927(昭和2)年8月2日岐阜県へも答礼人形派遣についての通達が送られてきました。人形は全国の小学生からお金を集めてつくることとなっており、岐阜県には588円の割り当てでした。県では児童一人1銭ずつ寄付をを集めることとし、募金は最終的におよそ244校から667円18銭集まりました。
答礼人形は、47道府県(当時東京府)と6大都市(東京・横浜・名古屋・京都・大坂・神戸)、当時の植民地(関東州・樺太・朝鮮・台湾)、それに日本代表の合計58体。東京や京都の一流人形師に依頼して、美術的にも優れたものを製作しようとしました。人形1体分の標準価格はおよそ350円(人形150円、衣装150円、持ち物50円)という見積もりでした。(当時の教員一ヶ月の給料は40〜50円)
このようにして、58体の一つ、岐阜県の答礼人形「ミス岐阜(ギフ子)」が誕生したのです。
東京で製作された岐阜県の答礼人形「ミス岐阜」(ギフ子)は、9月21日県庁へお別れのためにやってきました。…手足は自由に動き、着物は友禅縮緬で、帯は金糸丸帯を胸高く締め、小さい口元がほほえんでいて、それはそれは愛くるしい人形でした。履、傘(「岐阜県」の名が入っている)、鏡台、針箱、箪笥、長持などの美術的な持参品ももっています。
10月8日には明徳尋常高等小学校で、県下3万の少年少女を代表して人形送別会が行われました。送別会が開かれた部屋は万国旗で飾られ、県や市の視学などが列席し盛大に行われました。横山校長からギフ子さんの身の上やアメリカに行く使命について説明があり、一同起立して生徒代表が「惜別の辞」を述べたました。その後同校で作られた「送別の歌」を女生徒100人が歌い、最後のお別れをしました
明徳尋常高等小学校でつくられた人形送別の童謡
<上級生>
1.青い大洋はるばると さくらの花咲くお国をば あ とにのこしてたびをする お人形さまはさびしかろ
2.恋しいお国をあとにして やさしいやさしい友達 の お国についたそのころは白い小雪がふるころ3.しらぬ国でも日本のお国と思っておくらしよ おさとのたよりがききたけりゃ つばめがしらせてくれるで しょう
4.それではかはいい人形さま たのしくくらすよ いのります お人形さまよさようなら お人形さまよさよ うなら
<下級生>
1.長い袂の着物きて 赤い大きな帯しめて 紅緒のぽっくり絵日傘で アメリカ行きの人形さま
2.きれいなお船に乗り込んで 星のお国の夢を見て あちらに着いたそのときは みんなで迎えてくれる でせう
3.星のお国へ着いたなら さくらの国の子どもらの こころをつたへて下さいな お人形さまよさようなら
少女たちの目は涙で潤んでいたということです。岐阜県代表の「ミス岐阜」(ギフ子)は県内244校からの手紙や土産物を持って出発しました。
答礼人形は、11月25日サンフランシスコに到着。アメリカの人たちは熱狂的に歓迎しました。ワシントン、ニューヨークなど翌年の7月まで全米479ヵ所を周り、各地で盛大に迎えられました。その後、この答礼人形をきっかけに、全米各地で「人形祭り」が開催されました。
こうして歓迎行事の後、答礼人形は各州に1体ずつ配分され、博物館などに保管されることになりました。岐阜県からの答礼人形は「ミス岐阜」と名づけられオハイオ州のクリーブランド美術館に保管されていました。
アジア太平洋戦争
日本は、1931年(昭和6)満州事変を企て 、1937年(昭和12)中国との戦争を全面的なものにし、ついに1941年(昭和16)には米英などとも戦争を始めました。戦争の拡大にともない、国民生活はきびしい統制下におかれ、あらゆるものが戦争のために総動員されるようになりました。
学校では「忠君愛国」を基調とする皇国民錬成の教育が行われ、「大東亜共栄圏」建設に邁進、天皇のために身命を捧げる生き方こそ日本人の最高の生きる道と教えられました。また、日本は世界の中心であり「世界に一つの神の国、世界に輝くエライ国」でしたから、日本以外の民族の精神も文化も尊重されることはあり得ず、ましてや敵対する国の文化は、ことさら差別・排斥されました。
たたき壊せ「青い目の人形」
1943年(昭和18)2月20日の「毎日新聞」に、”児童は叫ぶ 叩き壊せ『青い目の人形』”という記事が載っています。記事によると、青森県のある国民学校の児童に人形の処置について尋ねると「憎い国アメリカからの贈り物であるから、叩き壊せ」という声が圧倒的に多かったとのこと…。
また文部省国民教育局総務課長は、「もし飾ってあるところがあるならば速やかに引っ込めて、壊すなり、焼くなり、海へすてるなりすることは賛成である。常識から考えて米英打倒のこの戦争が始まったと同時にそんなものは引っ込めてしまうのが当然だろう」という談話を添えています。
岐阜県下での人形受難の事例は、まだほんの少ししかわかっていません。しかし「一人の男性教師が『鬼畜米英』と言いながら、校舎の裏でヘレンという名の人形を叩き壊した」とか、「敵愾心高揚の話を聞かされた後、約400名の全校児童がひとりひとり人形を蹴飛ばした」というような話が聞かれました。
人形に何の罪があろう
「青い目の人形」を守った人が、日本各地に何人かいたことが、戦後わかりました。
岐阜県加茂郡八百津町和知国民学校の水谷先生もその一人でした。…和知小学校に「青い目の人形」バッテローがやってきたのは1927年(昭和2)4月16日。
ところが、米国との戦争に突入し、各地の人形が処分されているという噂があちこちで聞かれるようになり、水谷先生もバッテローの身の危険を感じるようになりました。「バッテローはスパイじゃない。人形に何の罪があろう。火あぶりや竹槍で突くのは忍びない。処罰されてもいいから一人で守ろう」と考えられたようです。そして、いろいろ考えられた結果、早朝急ぎ登校し、裁縫室の押入から蚊帳を取りだして釣手を切り取り、人形をボールに入れ、今度は理科室の岩石標本箱の下に移し、扉に釘を打ち付けました。
岐阜県には、バッテローともう一つメリープランナーという名の「青い目の人形」が残っています。…どのようにして残ったのか不明ですが、この人形も苦難の歴史を乗り越えて来たのでしょう。
アメリカに贈られた答礼人形は…?
海を渡った答礼人形は、日米が戦争状態になった後、どうなったのでしょう?
さすがに市民の目の触れるところに置くことはできなくなったようです。オハイオ州クリーブランドに贈られた「ミス岐阜」も例外でなく美術館の倉庫の闇に閉じこめられ、やがてそれらのほとんどが忘れられました。
しかし、米国における答礼人形は、現在約半数が確認されています。売られたり行方がわからないものもありますが、日本で残った「青い目の人形」が約2%ということと比べると、はるかに多く残っていたのです。
1995年(平成7)5月25日、明徳小学校体育館に集まった全校児童の前で、丸山校長が「日本とアメリカが仲良くするためのお使いとしてアメリカへ出発した人形が、今帰ってきました」と紹介しました。そして、古い革製のトランクから人形が取り出されると同時に、大きな歓声と拍手が起きました。
児童会長の秋本君は「アメリカで大事にしてもらってよかったね。戦争が起き、いろいろ心配したことでしょう」と語りかけました。
「ミス岐阜里帰り実行委員会」事務局員で、クリーブランド美術館へ受け取りに行った同校の長縄教諭は、「美術館で『ミス岐阜』を見たときは涙が出ました。戦争をくぐり抜けた人形を通して平和の大切さを
「ミス岐阜」を送り出した明徳小学校での帰国歓迎会 考えてほしい」と話しました。
「ミス岐阜」がクリーブランド美術館に保存されていることが明らかになったのは、1993年(平成5)愛知県の中学校教師の調査でした。それを受けて岐阜県で「ミス岐阜」里帰り運動がスタートしました。1995年(平成7)3月実行委員会が発足し、岐阜県・岐阜市の後援を得ながらも、一般市民を中心とした草の根の活動として進められました。「ミス岐阜」の里帰りや修復の費用は、市民の募金によって行われました。そしてついにこの日、68年ぶりに、「ミス岐阜」の里帰りを実現させたのです。
そして5月30日から3日間、岐阜市役所で一般公開され、5000人の見学者が訪れました。その後「ミス岐阜」は、68年前に製作された東京の人形店で、3ヶ月かけて修復されました。
9月25日岐阜県は、人形を通じた草の根レベルの国際交流が身を結んだことを祝って「ミス岐阜里帰り記念レセプション」を開催しました。セレモニーには県知事やオハイオ州知事特別補佐官、岐阜市長、里帰り実行会のメンバーらが出席。日米の平和と友好のため、オハイオ州から新しい人形「クリーブランド」が贈られ、里帰り実行委員会からも「ミス」岐阜の「妹人形」が贈られました。
9月27日から10月3日まで、岐阜高島屋で「ミス岐阜」や「ミス岐阜」の里帰りを記念して作られた「妹人形」そしてオハイオ州から新しく贈られた「クリーブランド人形」などを展示した「日米人形交流展」が開催されました。期間中13000人の見学者があり、市民の関心の高さ 日米人形交流展のチラシが示されました。
5月に「里帰り」した「ミス岐阜」が、妹人形の「あゆ」ちゃんとともに、10月27日、再び米国のオハイオ州に戻ることになっていました。
そこで、10月6日明徳小学校では「ミス岐阜姉妹人形壮行会」が行われました。修復された「ミス岐阜」、妹人形「あゆ」ちゃんの外に、また米オハイオ州クリーブランド市から明徳小に贈られた「クリーブランド人形・セーラ」なども飾られ、その贈呈式も行われました。
この会には岐阜盲学校生、地域のお年寄り、里帰り実行委員会らも参加。堀越智・里帰り実行委員会長は「これからは、人形に悲しい思いをさせないためにも平和な社会を作りましょう」と児童らに呼びかけられました。68年前明徳小6年だった老人も「人形の目のように、やさしい心を持ちましょう」と話し、また老人会長さんは岐阜空襲の体験を語り、平和の大切さを訴えました。児童代表も姉妹人形には「米国で仲良く暮らして下さい」とお別れの言葉を述べ、また新しく贈られた「クリーブランド人形・セーラ」には「68年前の人形は壊されたりしたが、新しい人形は大切にします。日本の生活に早く慣れて下さい」と語りかけました。
それから5ヶ月後の1996年(平成8)2月末。…以前から祖父の意思を受け継いで、日本の子どもたちに”二代目人形”を贈り続けていたギューリック三世さんから、「新青い目の人形」(マリリン)が贈られてきました。
3月1日明徳小では、約70年ぶりの親善大使”二代目青い目の人形”が全校児童に披露されました。二代目の「マリリン」は身長45センチ。紺地に赤やオレンジの星模様のドレスを着用。ギューリツク三世さんからは「私たちはあなた方が彼女に会った時、やさしい、親切な気持ちを感じていただけたらと希望します」という手紙が添えられていました。
このようにして、岐阜の地でも、再び「日米親善・友好」の輪が広がったのです。そして、2003年(平成15)アメリカ・カンザス州の女性から贈られた友好人形「スーザン・キブソン」とともに明徳小学校には3体の「青い目の人形」が飾られ、今も、子どもたちに微笑みかけているのです。
この文章は、下記の文献や資料、特に「ミス岐阜」里帰り実行委員会発行の文献2冊をもとに、後藤征夫がまとめました。 <参考文献・協力> ・「青い目の人形」と答礼人形「ミス岐阜」 (発行:「ミス岐阜」里帰り実行委員会) ・「新しい日米人形交流の歴史」ーミス岐阜里帰りの記録ー(発行:ミス岐阜里帰り実行委員会) ・「岐阜県教育史・別冊一・ビジュアル版」 (発行:岐阜県歴史資料保存協会) ・ホームページ「友情人形の歴史」(http://footandtoy.jp/event/aoime/02.htm) ・ホームページ「青い目の人形」(httm://www.asahi-net.or.jp/~np7t-skn/rekisi/aoimenoningyo.htm) ・コボたち・ウオッチング「ー平和と友情の使節ー『青い目の人形』」(棚橋正明作) ・長縄幸弘さん(元明徳小学校教諭・ミス岐阜里帰り実行委員会事務局員) ・岐阜市立明徳小学校 |