畑つなぎ堤と村人たちの願い

−松枝輪中(岐阜市柳津・笠松町)・水とのたたかい−

1.畑つなぎ堤跡


畑繋堤跡の碑(岐阜市柳津)

 岐阜市柳津の境川付近にある大型スーパーのすぐ東の細い道に、岐阜市指定文化財史跡「畑繋堤跡」の看板が立っている神社があります。ここは畑繋太神宮で、北方奉行の酒井七左衛門、柳津村本郷の奥村元右衛門、柳津村北塚の渡辺藤左衛門、柳津村本郷の伊藤丹蔵、足近村北宿の野田勘右衛門の5人がまつられています。

 また、この神社の東端には、現在はほとんど道路になってしまった「畑繋堤跡」の石碑が建てられています。

2.宝暦治水工事の皮肉

 木曽川、長良川、揖斐川の三川で囲まれた岐阜県南濃地方は「0m地帯」と言われるように、土地が低い地域で、毎年のように水害にあってきました。そのため人びとは、村々の周りを堤防で囲って輪中を形成し、洪水から身を守ってきました。

 江戸幕府から命令された薩摩藩は血のにじむような苦労をして、三川を分流する「宝暦治水工事」を、宝暦5年(1755)に完成させました。そのおかげで、南濃地方の洪水は減少しました。

 ところが皮肉なことに、大槫川の洗堰、油島締切工事などの宝暦工事が完成した宝暦5年(1755)以後、大槫川洗堰の長良川の水位が高くなり、その濁流が上流の境川へも逆流するようになりました。そして木曽川と長良川にはさまれたこの地域にも、たびたび水害をもたらすようになりました。このようにして、下流の輪中が強固になるにつれ、逆に、上流の地域では水害が増えてしまったのです。

3.松枝輪中の人びとの訴えと畑つなぎ堤づくり


松枝輪中とまわりの村々

 明和4年(1767)、松枝輪中の農民たちは「柳津・船原・北宿村内の新規堤防工事を、幕府による境川左岸工事に加えて欲しい。…堤防を築いて下さい」と奉行所へ何度も願い出ました。しかし「他村への支障がある」として許可は下りませんでした。
 仕方なく、彼らは「畑と畑をつなぐ」「畑に堆肥を入れる」といった名目で畑に盛り土をし、堤防としてではなく畑の名目で堤防を築き始めます。

 しかしこの無願工事は、上流6か村と加納領14か村が堤防をつくることに反対し、奉行所への訴えが続きました。そのためこの無願工事は中止となりました。

4.天明の水害と村役人の獄死

 天明2年(1783)、宝暦治水工事の完成から約30年後、天明の大水害が起こりました。雨が多くふり、数回にわたる水害が松枝輪中を襲いました。農民たちは寄り合いを開いては相談し、村の庄屋にも「何とかしてほしい」と頼み込みました。先の村役人の柳津村本郷の奥村元右衛門外計4人の村役人は「もうどうにもならん」と決心して、堤防を築くことを円城寺奉行所に訴えますが、捕らえられてしまいました。
 翌年には、田代村などの37か村が「大槫川洗堰削り下げ願い」を笠松代官所に提出しています。これらの村人たちの願いもむなしく、天明4年(1784)には捕らえられていた村役人4人が獄死してしまいます。

 その後も、水害の苦しみをくり返すうちに、20年の年月が流れ、円城寺奉行所は廃止となり、松枝輪中の人びとは、尾張北方奉行の支配を受けるようになりました。

5.北方奉行・酒井七左衛門の働き


畑繋堤跡

 文化2年(1805)、酒井七左衛門が北方奉行に任ぜられました。松枝輪中の人びとは、この機会しかないと、思い切って「築堤願い」の訴えを出しました。酒井奉行は松枝輪中を視察して人びとの苦労を知ると、「流れた土を原形にとりつくろう」という名目で「無願工事」は黙認されることになりました。
 しかし他の村がこのことに黙っている訳はありません。その村々が江戸幕府に訴えることになり、酒井北方奉行は取り調べを受けることになりました。

 そこで彼は、「何ぞ一方は堤防を築き、一方は氾濫勝手次第なるを容(ゆる)さんや」と松枝輪中だけを水害に苦しませてはならないと主張しました。この意見が認められ、彼はとがめを受けることなく、再び奉行所へ戻ってきたのです。

 このようなことは、江戸評定所の裁定としては、今までに見られなかったことでした。松枝輪中の人びとは躍り上がって喜びました。

6.畑つなぎ堤の完成と、人びとの感謝の思い


酒井七左衛門の墓(門間慈眼寺)

 松枝輪中の人びとは、ただちに築堤工事に取りかかかり、苦労の末、文化4年(1807)、1650メートルにおよぶ堤防を完成させました。
 この堤防を人びとは「畑つなぎ堤」と呼び、 酒井奉行が亡くなった後、舟原村(現在の羽島郡笠松町門間)の慈眼寺に、彼と4人の村役人の墓を造りました。そして、畑つなぎ堤の上に「畑繋太神社」を建てたということです。

この文章は、いろいろな文献や資料を調べながら、橋村健がまとめたものです。

<参考文献>
・柳津町史(岐阜県羽島郡柳津町・編)
・ふるさと笠松
・1987年1月 コボたち「堤をつくった村人たち」(高木敏彦作)
・柳津小学校ホームページ

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