権現山の「時の鐘」

 岐阜城が頂上にそびえる金華山。その金華山西南の一角に権現山があります。この権現山にあるお堂では、毎日朝6時から夜10時まで、一時間ごとに鐘がつかれています。
 …昔から、岐阜の町の人たちは、この鐘を「時の鐘」とよんで、長い間親しんできました。

幼き日の思い出

 朝に夕に毎時、ゴーンゴーンと余韻を残して、時を知らせる鐘の音が権現山から聞こえてきます。天気の良い日は澄んで大きく長く響き、雨の日はあまり響かなかったようです。
 「時の鐘」が鳴り響くのが、毎日の生活の中では全く当たり前のこと。…朝は鐘の音を聞いて隣どうし誘い合って学校へ向かい、運動場で校長先生のお話を聞いている時も、ゴーンと鐘の音が聞こえてきます。…家に帰って鞄を放り出して裏の空き地や近所の通りで遊んでいても、夕方の「時の鐘」で、みんな自分の家へ飛んで帰ります。
 
 どこのどなたが撞いて下さるのかも知らず、朝起きて夜床に入るまで、三度の食事と同じように、聞こえてくるのが当たり前であり自然でした。

 いつの頃か権現山に連れて行ってもらったことがあります。そして「こんな山の高い所に゛時の鐘゛があったんだ。これを毎時打ち鳴らしてくれる人がいたんだ」と、初めて知りました。それ以来、私は夜床に入る前に権現山の方に向かって手を合わせた記憶があるのです。

「時の鐘」の由来

 今から116年前、明治26年(1893)5月、権現山の麓で銭湯を経営されていた村瀬平作さんは、その前々年の明治24年の濃尾震災の大勢の犠牲者の霊を弔う手だてがないものかと思案されていました。その頃たまたま文明開化の横浜に遊び、かの地の「野毛山・時の鐘」を聞かれました。その時、岐阜の人びとが「岐阜時間」といった約束の時間に遅れても容認してしまう習慣を思い、「山に囲まれた岐阜に『時の鐘』を設置しよう」と考えられたようです。
 そんな中、明治27年(1894)に起きた日清戦争で県下一円から初めて戦死者が出たこともあって、村瀬平作さんは「お国のために亡くなった方々を慰霊し、併せて天災や戦争のない平和を祈願しよう」と決意し、呼びかけを始められました。
 当時の300円という大金は途方もない夢を見ているように思われ、志が何度かくじけそうになったようです。しかし、「発起人・村瀬平作、世話人・小塩薫、賛成人・堀口有一以下2名、有志者・渡邊甚吉以下528個人、団体、会社等の賛同を得て、ついに鋳造されました。


権現山の鐘楼と鐘

 そして明治29年(1896)11 月2日「時の鐘」の撞き始め式が行われました。…村瀬さんは一家を挙げて権現山に住居を移し、日常生活の不便と闘いつつ、「時の鐘」をきちんと撞く奉仕活動を始められました。
…以来、二代目幾次郎さん、三代目国三郎、村瀬家三代にわたる奉仕活動が続いたのです。
 その間、昭和9年(1934)から改築されていた「時鐘楼」が、昭和14年(1939)11月 に完成しましたそしてこれを契機に、岐阜市150円を助成し、二代目村瀬幾次郎さんに年額50円の手当を給しました。

 しかし、山上における村瀬家の生活はとても不便で苦しいものでした。村瀬さん一家は、いつも麓から山道を上り下りしなければなりません。その上忘れることなく毎日毎日、朝6時から午後10時まで、1時間ごとに鐘をつかなければならないのです。家族で旅行に行くことも、のんびりすることさえできません。不便さと責任感の間で、悩みに揺れておられたのではないかと思われます。
 昭和20年(1945)終戦とともに、三代目村瀬国三郎さんは現実の貧しい経済生活と責任の苦痛に悩まれ、健康を損じられ、ついに昭和22年(1947)12月31日の鐘を最後に、撞かれなくなりました。
 
 その後、「時鐘保存会」が一般市民から寄付を募ったり、山麓に住宅を建てて村瀬家の遺族に贈るなどしました。また、村瀬家は時鐘楼および付属建物一切を岐阜市に寄付され、「時の鐘」は岐阜市において管理することとなりました。
 昭和23年(1948)3月21日、堂守として藤下蓮誠さんが「時の鐘」を撞き始めました。そして20年後の昭和43年12月22日藤下さんが高齢のため下山し、替わって田口教好さんが堂守となりました。

今、歴史博物館に見る「時の鐘」

 当時の「時の鐘」は、現在、岐阜市歴史博物館に保存・展示されています。

 鐘の正面には一段目に「天下和順」「日月清明」、二段目右に「風雨以時災歯s起」(大地震のような災害が二度とおこりませんように)、二段目中央に「戦勝紀念鐘」二段目左に「国富民安兵戈無用」(国民が安心して暮らせるように。戦争はしないように)、三段目に「崇徳興仁」「軍人戦死者冥福」「務修禮譲」(軍人の戦死者の冥福を祈ります)と刻まれています。

 そして、余白にはたくさんの戦死者と思われる名前、…「岐阜市 冨茂登村 谷留太郎、今泉村 瀬尾岩吉、土方久次郎、厚見郡東加納町 藤井為吉、茶屋新田 森田祐太郎、早田 堀江利三郎…」… 山県郡、武儀郡、本巣郡、羽島郡、安八郡…、加茂郡も恵那郡もあります。そして益田郡、大野郡、吉城郡と続いて終わっています。…日清戦争で大事な命をなくした人たちは、岐阜県だけで238名にも及んだのです。
 さらにその下には「時の鐘」鋳造のため寄付をされた人びとの名が、そして一番下の鐘の縁には「南無阿弥陀仏」の文字がぎっしりと並び、鐘の後面には、「聖寿萬々歳」「明治廿七・八年之役 岐阜懸 従軍忠死者」と刻まれていました。

二代目の新しい「鐘」ができる

 その後、鐘の音が悪くなり余韻も少なくなったので「新しい鐘を造ろう」と、昭和52年10月岐阜商工会議所内で「権現山・時の鐘新造奉賛会」が発足しました。そして商工会議所や青年会議所、金華・京町・明徳校区広報会連合会、ロータリークラブやライオンズクラブなどからの寄付で鐘を新造し、昭和53年6月10日(時の記念日)に岐阜市に寄贈されました。

 平成9年4月1日からは、午前6時から午後9時まで一日6回、3時間おきに変更になり時を告げていましたが、平成12年3月31日をもって田口教好さんが下山され、一日3回とさらに減りました。そのため、地域の人びとからは「毎時撞いてほしい」という要望が強くなりました。そこで、平成12年6月10日、岡本太右衛門さんが「自動鐘撞機」などを寄付され、この日から再び午前6時から午後10時まで毎時、時を告げるようになりました。

7月9日の「平和の鐘」

 昭和20年7月9日は「岐阜空襲の日」。岐阜の街は瞬く間に火の海となり、多くの建物が焼け、863名もの市民が犠牲になりました。その悲劇を忘れず、市民ひとりひとりに平和への思いを一層深めてもらおうと、平成2年より「平和の鐘事業」が始まりました。毎年7月9日には市長や来賓、中学生代表、市民らが権現山に集まって、平和宣言や打鐘、黙とうなどが行われるのです。「時の鐘」が聞こえる伊奈波・明郷・梅林・本荘中学校区の中学生(4校の輪番)らの手によって、権現山の鐘がつかれています。

 毎年7月9日午前9時から正午までの間、岐阜市内の寺院など130箇所で一斉にならされる「平和の鐘」。…その中心が「権現山・時の鐘」なのです。

博物館来館者の中に子孫が!…

 ある日、歴史博物館来館者の中に、美濃市大矢田の小森宮太郎さんの子孫という人がありました。この人は、鐘に刻まれた先祖の名を懐かしそう見られていましたが「この人は美濃市の戦死者第一号として小倉公園の中に像が作られ、今ものこっているはずです」と言われました。
 また別の日には、発起人村瀬平作さんの四代目子孫という方も来館されました。そして、現在村瀬家の方は岐阜から出られていること、以前はこの鐘の鋳造のためにたくさんの借金があり生活が大変苦しかったこと、また個人で鐘を撞き続けることには家族の生活も縛られて大変だったことなどを話されました。

 今もゴーン、ゴーンと、朝6時から夜の10時まで、毎時聞こえてくる「権現山・時の鐘」。
… 当たり前のように聞いていた鐘の音には、大勢の人びとの悲しみや願い、そして祈りの気持ちが込められていたのです。

この文章は、以下の文献・資料をもとに、山本敏子がまとめました。

<参考にした資料・文献>
・「権現山゛時の鐘゛由来記」(岐阜市・管財課)
・「岐阜市の平和啓発活動」(岐阜市・市民協働推進課)
・「権現山の時の鐘、鐘の音は平和の願い」(1988年8月「コボたち」ウオッチング)
・「市制120周年記念・岐阜市民のあゆみ」(岐阜市民のあゆみ展実行委員会)

Copyright (c) 2010 「お話・岐阜の歴史」サークル All Rights Reserved.
inserted by FC2 system