美濃・尾張を壊滅させた濃尾震災

           −復興にたちあがった岐阜の人びと−

 死者・不明者約18500人、震災関連死者約3400人もの被害を出した2011年(平成23年)3月11日の「東日本大震災」。…マグニチュード9.0という大地震・巨大な津波・原子力発電事故の恐ろしさを、日本だけでなく世界中に知らしめました。
 しかし、今から120年前、私たちが住む濃尾平野でも、マグニチュード8.0とも8.4とも推定されている大地震がありました。本州・四国・九州にまで広がるもので、これは先の「東日本大震災」が起こる以前の最大級の地震でした。

1.「マグニチュード8.0(8.4?)の最大級直下型大地震」

 明治24年(1891)10月28日、朝6時37分、大きな地ひびきとともに、「マグニチュード8.0の最大級直下型大地震」と言われる「濃尾大地震」が発生しました。震源地は本巣の根尾谷で、内陸で起きた直下型地震としては世界的にも最大級規模の大地震でした。この時にできた根尾谷断層は地表面に現れたもので80キロメートルにおよび、断層のずれは最大8メートルに及びました。
 



根尾谷にできた断層

  「ダ、ダ、ダァーと来たときは、物も音も聞こえるようなもんやあらへん。ダァッーときて、ワァーといっとる間に、下敷きになっとんやでなぁ …(中略)……縁の下にはまったのかと、こうやって手で探って見るんやが、ごみが落ちるので目も口もあけれへん。うわぁ、こりゃ家がつぶれとるんや。へぇともないことになったぞと気がついたが、家の者がどうなったのやらわからへん。…おっかは んはどこへ行ったかしらんと、またようさがいて見たら、すぐそこに死んどったんや。カモイに首をおさえられて、びしゃっとほおつくばいしたまま、板場にふさっとるんや」(Aさんの話)


根尾・水鳥にできた湖

 「地震がどういうふうじゃったというても、だれも言えるもんはないやろ。ゆすったとも飛び上がったとも、わけはわからなんだ。ワッと外へ飛び出して、気がついた時にゃ、前の地蔵さまのやしきが、二間も三間も(4、5メートル)も下の田んぼのわきへいっとったんやから。」(Bさんの話)

 根尾谷では、この大地震によりほとんどの山が山崩れを起こし、あちこちで土砂が流れを塞ぎ、突然湖がいくつもできる状態でした。そして根尾谷筋に散在する大河原、板屋、樽見、長峰、金原、佐原などの村々は、言葉に尽くせないほどでした。…11月、12月になっても余震が続き、ゆっくりと寝ることもできない状態だったといいます。また山からは石がゴロゴロと落ち、くずれ落ちた所はぶきみさをただよわせていたそうです。

2.各地のようす

 地震が起きたときはちょうど朝食時だったので、岐阜・大垣・笠松・竹鼻・関等の市街地では、家が倒れるとともに各地で火災が起き、被害を大きくしました。その結果、見わたす限り灰とがれきの山となってしまいました。

<岐阜の状況>


岐阜市伊奈波神社前

「1891年(明治24)10月28日、朝6時半ごろ、ものすごい地震が起こったかと思うとあっという間に家がこわれて火災がおこった。火は、忠節橋付近から出た。その家はごはんをたいていたらしく、火をつけっぱなしにして逃げたためだ。たくさんの家が焼けてしまった。
 逃げたのは竹やぶや伊奈波神社だったが、逃げてきた人たちが物を落としていったので、それに火がつき、伊奈波さんも燃えてしまった。」(Cさんの話)

 「どこの道かわからないが地割れができていた。広い道の真ん中をかみなりみたいな線がぎざぎざにでき、地割れの穴に入るといけないので、はいずって逃げた。地震の強さは立っていられないくらいで、地割れにはさまって死んだ人も多かった。金華山や権現山などの山もぬけて、山のふきんの家はつぶれた。…」(Dさんの話)
 


岐阜市街大地震之図

 当時の岐阜は、この大地震が起きる2年前の1889年(明治22)7月1日に東海道本線が全通し、同じ日に市制が施行されたばかりの状態でした。(岐阜町・小熊村・今泉村・富茂登村・稲束村・上加納村の一部が合併)
 震災時の岐阜市の人口は25676人・戸数は5852戸でした。そのうちなんと死者は250人、けがをした人は700人にのぼりました。また全壊・半壊の戸数は3864軒でしたが、火災戸数は2225戸を数えました。
 その後岐阜市に編入した周辺農村部(厚見郡・方県郡・各務郡・山県郡)でも、実に9割以上の家屋が一瞬に損壊しました。
 岐阜市では、警官の指揮下、師範学校および岐阜中学校生徒全員と、軽罪の囚人が動員され、消防教護活動にあたりました。

 上の絵は、震災時の岐阜駅や周辺のようすを表したものです。近代的な建物だったと考えられる岐阜駅も、長良川にかかる鉄橋も、焼け落ちたり壊れ落ちたりして惨めな状態になりました。またあたこちの堤防でも亀裂・損壊・崩壊が生じるなど大きな被害を受けました。


焼失した岐阜市街

 これらのようすは、岐阜日日新聞や大阪朝日新聞の号外記事で、詳しくしることができます。

・地震後に発生した6か所からの火災によって、旧岐阜町をはじめ加納に至るまでのほとんどが焼失している。
・火事は、29日午前11時に鎮火した。
・市民は再震を恐れ、町外れの桑畑・大根畑で野宿をしている。
・8千戸余の家屋など一度に倒壊した。
・死亡者は3、4百人にのぼっている。
・県庁、師範学校、裁判所、病院、郡役所等も倒壊した。


仮小屋での生活
・わずかに焼失を免れた病院の庭に、臨時の診療所を設け、負傷者の治療に当たっている。
・師範学校、岐阜公園、上加納で炊き出しをしている。
・九死に一生を得た人達は、公園、梅林、県庁前、病院前、美江寺観音堂前、中学校前の田畑、西別院境内、大宝寺などで障子、戸、焼け残った畳や建具を使って雨露を凌ぐだけの物を造って生活している。地面にむしろなどを敷いてねころんでいるだけの者もいる。
・今も余震が続きゆっくりと寝ることもできない状態。
・飲料水がない。井戸水や川水も濁り水となっている。
・震動が続いている間、何日間も、夕方から朝まで、大人や子ども達が叫び声・拍子木や太鼓の音をたてて、不気味な夜の町をうろついている。泥棒を驚かして追っ払うためとか火事を出さないためとか伝えられている。 


<大垣の状況>


大垣・廊町の倒壊家屋

 興文小学校に伝わる「震災小誌」によれば、当時の安八郡大垣町は「戸数4597軒で、そのうち全焼が937軒、全壊が2419軒、死者789人、重傷1270人であった。その内、興文尋常高等小学校下1885軒が全焼し、1240軒が全壊した。そして184人が死亡し、166人が重傷を負った」と伝えています。
 また、岐阜日日新聞や大阪朝日新聞などでは、次のように報道しています。


落ちた長良川鉄橋

・長良川鉄橋は,震動のために300尺余が落下した。
・大垣に興行のために来ていた力士小柳一行15人のうち3人は逃げることができたが、田の12人は倒れた家の下になって死亡した。
・全町4300戸のうち3400戸が丸潰れとなった。
・死亡者は7、8百人にのぼり、負傷者は1300人に達している。火災は市内4か所から発生し3千戸余が焼失した。
・臨時の病院が大垣小学校内に設けられている。
・この日は東本願寺において親鸞聖人の命日ということで、前日より泊まり込んでいた多くの人達が建物の下になって死亡した。

<笠松・竹鼻・北方・高富などの状況>


笠松の惨状
・笠松・竹鼻は、震災と火災によって死傷者が多数にのぼり、岐阜や大垣と比べても人口比例からすれば笠松や竹鼻の方が多いくらいである。
・強い風が吹いていたため火事は大きくなり、渡船場あたりの家屋を全て焼き尽くしてしまった。
・木曽川の堤防から見ると、ほとんどの家屋が倒壊している。わずかに笠松の木曽川堤のそばに建つ「四季の里」は倒壊していない。これは屋根を茅や板で葺いてあったことによるもので、瓦葺きの建物はほとんど倒壊している。堤防もほとんど陥没している。
・本巣郡北方町、美江寺村、文殊村、穂積村などが、最も被害が大きい。北方町は数戸を残してすべて倒壊している。本巣席田郡長をはじめ多数の圧死者が出ている。文殊村では十数名の死

高富村の人家倒壊
亡者があり、穂積村では製糸工場が倒れて家族や女子工員が19名圧死した。 
・鳥羽川にそって土地が陥没して、高富村から東・西深瀬村にかけて湖となっている。
・田畑が陥落し、1メートルほどの段差ができ道もずれてい る。
・高富村の圧死者は93名、高木村は30名、東深瀬村は15名、西深瀬村は12名である。








<県内の状況>


右の表は、岐阜県内の市郡別にまとめた被害状況ですが、やはり岐阜地方、西濃地方などが被害が甚大でした。

11月1日段階のこの統計では、全県で死者が4134人となっていますが、この後の調査では合計5138人とされ、家屋の全半壊数・火災数とも、かつてない数字にのぼりました。





<愛知県・全国などの状況>

 
この大地震で、岐阜県だけで9万戸近い住宅が倒壊し、5千人以上の人が亡くなりましたが、岐阜県だけが被災したわけではありませんでした。
 特に、同じ濃尾平野にある愛知県では2600人以上の死亡者、そして全壊約8万5千戸・半壊約5万5千戸という甚大な被害を受けました。
 また隣接する福井県や滋賀県でも12人、16人と死亡者が出るとともに、かなり遠くに位置する大阪府では23人、静岡県でも3人など、全国では約7880人もの人が亡くなるなど、…ものすごい地震でした。

3.報道・救助・救済

 現在のようにテレビやラジオなどの情報伝達手段が発達していない当時にあっては、デマやうわさがとびかい、人心の混乱や社会不安が広がりました。とくに「富士山崩れる」とか「北海道移住説」などの流言飛語は注目を集めましたが、次第に消滅していきました。
 そんな中、人々が正確な震災情報を得ることができたのは、写真や石版画を掲載した新聞社発行の「号外」でした。とくに3日後の10月31日の大阪朝日新聞号外や11月2日発行の岐阜日日新聞号外第二では、かなり具体的に被害状況が報じられています。
 また、11月12日の岐阜日日新聞では、「慈善家に告ぐ」という題で、全国各地の人びとからたくさんのお金や品物が送られてくることに感謝しながら、あまりにもひどい被害なので、いっそうの寄付を呼びかけ、そして寄付してくれた人の名前なども紹介しました。
 そんな中、全国53の新聞社が募集し、県内外から寄せられた義援金は14万1383円にものぼりました。


当時の岐阜県庁

 地震が発生した時、小崎知事は上京中だったので、丸山警部長が直ちに県庁に駆けつけ、警察官達を指揮して人命救助と火災消防の任務に当たらせました。
 また市内に充満した数千人の負傷者を救助するため治療所を設け、市内の医師を招集して手当をさせました。さらに、各地に炊出所を設置し、被災者の救助にも努めました。
この炊き出しで最も困ったのは、米の確保でした。「また大地震が襲う」などといった流言飛語のため人心が不安定で、貯蔵している米を手放さなかったり、たとえ供出しようにも倒壊した蔵の下から米を掘り出すのが困難であったりしたためでした。またこうした状態に目を付け、米価をつり上げようとする米商人も現れたりしました。

 地震発生後、当然のことながら役所や警察が多くの人たちを動員して、救助活動などに当たりました。…たまたま宿泊していた力士を動員したり、刑務所に収容されている囚人や学生なども動員したりしました。
 このような公的な活動以外にも、民間のボランティア団体・宗教団体などの多くの人びとが積極的に活動しました。美濃地域で大きな勢力をもっている浄土真宗本願寺派は全国の末寺を動員して救助活動を行い、またキリスト教会なども救済活動を実施しました。


岐阜県立病院大小手術之図

 県では、11月15日には「震災救済本部」を設け、義援金品の授受、救育所および治療所などの設置や運営にあたりました。救育所とは震災で身寄りをなくした人、病弱な人、老人などの自活困難な人、両親を亡くした子どもなどが収容され、食事や衣服などが支給されました。

 また11月末までに、県内30か所に臨時病院(治療所)が設けられました。各地の臨時病院では、治療に当たる医師や医療機器の確保が課題でしたが、県内各地の開業医、ボランティアとして全国から駆けつけた医師や看護士たちの活躍でのりきりました。
 治療に要する費用はすべて国からの震災救済費で賄いましたが、困ったのは腸チフス患者が大量に発生したことでした。これは、粗末な仮小屋に多数の家族が起居を共にしたり、汚れた水を飲んだりしたためと思われます。
 

4.復興、そして西別院事件

 この年の12月までに震度6の烈震が9回、強震が78回、弱震が1726回を記録するなど、余震は数か月間にもわたり続きました。しかしそんな中でも、人々は復興に向かって立ち上がりました。
 倒壊した家屋の廃材から使える瓦や木材を拾い集め、架設の住宅を建てました。本巣では倒壊した校舎の柱や梁・瓦を片付けさせ、12月に仮校舎を建設し、12月末にはござを敷いて授業を再開しました。師範学校付属小学校でも12月1日より授業を始めるなど、…どの学校も復興に向けてがんばりました。
 被害の大きかったお寺や神社、病院なども復興に着手しました。岐阜市の伊奈波神社は割に早く復興を完了しましたが、多くのお寺は仮堂を建てるなどしました。

長良川堤防復旧工事のようす
 大小河川の堤防のほとんどが崩壊、あるいは大きな亀裂を生じていたため、堤防の復旧は急がねばならない課題でした。4〜5ヶ月後に融雪出水の季節をひかえ、低地を多くかかえている美濃地方にとって、なおさらでした。
 そのため県や国も非常に迅速に対応し、多くの村人が参加しました。いずれにしても、技術力・大型機械のない時代で人手に頼ることが多く、村人総出で復旧工事が行われました。

 しかし、岐阜県がとった本格的な救済・復興の対策では不十分な点も多かったようです。その頃の県知事・小崎利準は、国からきたお金150万円も救済費としてはわずか10万円しかあてず、大部分は木曽・長良・揖斐三川堤防の修理工事に使おうと考えていました。
 11月20日の臨時県議会では、災害時における食料、小屋掛など、震災救助案について話し合われましたが、知事の提案に押され、議会はほとんど何も決めることができないまま終わりました。


岐阜市之図(明治期)
 11月23日、岐阜公園には多くの民衆が集まっていました。席田・本巣・方県・山県・厚見各郡の農民、および岐阜市民などです。その数は600〜700人ほどの人数でした。この集会を計画したのは、大地震後まもなく結成された「震災救済同盟会」で、この組織の中心となったのは県会議員・堀部松太郎や「濃飛日報」社員・山田頼次郎などでした。これらの人びとは岐阜公園や伊奈波神社でつぎつぎと集会を開き、「復旧土木費の給付、3年間の諸税免除、商工業資金の年賦返済を条件とする貸与を、国会・政府に請願すること」などを決議していました。また16日の演説会では、罹災民に対し、救済費をわずかしか配分しなかつた県知事の態度を非難していました。                        

岐阜西別院
 23日の岐阜公園での集会では、県会議員らが「議会において、震災救済費改善の案は、知事の反対にあい、良い結果がでなかった」と告げると、「わが郡は目下困窮がはなはだしい。願わくば10万円を請求せん」と発言する者がありました。それをきっかけに、「わが郡も」「わが郡も」と口々に叫び始め、指導者の山田頼次郎は「救済費の多額支給を仰ごうとする者は、これより直ちに県庁に行き、知事に面会し、救済費百万円を請求しよう」と提案し、800名ほどの群衆が県庁前におしかけました。知事に面会を求めましたが、知事は会おうとはせず、そのうち警官がかけつけて解散させられてしまいました。

 翌24日、知事の態度に怒った5000人ほどの人びとは、岐阜西別院に集まりました。西別院の境内をうずめた黒山の群衆を見て、警戒にきていた警官は不安になり、解散を命令したことから、群衆の怒りが爆発し、境内で大混乱が起こったのです。石が飛び、木ぎれがまい、傷つく者、にげまどう者…。警官は剣をぬき、群衆をけちらし追いはらいました。そして知事に反抗する者、請願運動者、西別院闘争者など、100名以上の人をかたっぱしから逮捕しました。これが「西別院事件」といわれるものです。

 この西別院事件のあと、震災に対する本格的な救済と復旧が始まりました。岐阜県の予算の12倍半にもあたる総額456万円というお金が国から出され、被災者救助と復旧作業にあてられたのです。また小崎知事に対する県民の信頼は急速に低下し、明治26年ついに小崎知事は辞職しました。

 今まで聞いたこともないような大きな被害を受けた「濃尾大地震」。その中から立ち上がり、懸命に町や村を復旧させた人びと。……それは、「自分たちの生活と故郷をもう一度取り戻そう」という熱い思いに支えられていました。
 私たちの町・故郷が復興できたのは、そんな強い人びとの力と、「お互いに助け合おう」と寄付や善意をよせ合った人びとの力、さらには西別院事件に見られる民衆の力が集まった結果だったのではないでしょうか。

○後藤征夫が何年か前に書いた作品「濃尾大地震と西別院事件」を、HP「お話・岐阜の歴史」の開設にあたり、「no1」として掲載しました。しかし、今度の東日本大震災の報道を見ていた時、「もう一度、濃尾震災について調べ直し、書き加えよう」と思いました。…そこで、再度、「no1−2」として、後藤征夫自身が修正したり書き加えたりして、まとめ直しました。

<参考文献>
・「岐阜県史 通史編(近代中・下)」(岐阜県)
・「岐阜市史 通史編(近代)」(岐阜市)
・「岐阜市史 史料編(近代1)」(岐阜市)
・「郷土史事典 岐阜県」(昌平社)
・「物語濃尾史 近代編」(川口半平)
・「濃尾地震写真資料集」(岐阜県歴史資料館)
・「写真で見る濃尾震災−実態とその復興−」(岐阜新聞・岐阜放送)
・「私たちのみた京町百年」(岐阜市立京町小学校=現・岐阜市立岐阜小学校)
・「岐阜県百年記念出版・わたしたちの岐阜県」(岐阜県)
・「1891 濃尾地震報告書」(H18.中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会)
・「ぎふ歴史物語−伝統の技と美−」(岐阜市歴史博物館)
・「−市制120周年記念−岐阜市民のあゆみ」(岐阜市歴史博物館)
・「特別展・市民のくらし」(岐阜市歴史博物館)

Copyright (c) 2010 「お話・岐阜の歴史」サークル All Rights Reserved.
inserted by FC2 system